ファック!
一応、それは猫に見えた。
猫耳と、顔のフォルム。それだけあれば猫に見えるものだ。
けれど直立したようなシルエットで、かつ背中に蝶の羽が生えていて、そのすべてが塗り潰したような闇の色。
瘴気の、色。
闇夜に浮かぶそれは怖気を覚えるほどの不吉さを纏い、僕らを見下ろしていた。
「……えーっと、雑学王。解説」
したくねぇ……。これが現実だと認めたくない……。
「モーヴォンは瘴気を扱う術式の制御ができないと言った。起動はできるがその先に難があるんだろうな。単純に完成系まで持って行けないのか、フィードバックがあって危険なのかは知らないが」
エルフの少年と目が合った。膝を突いて青い顔をして、前髪が額に貼り付くほどに汗を流しているがいるが、最高にハイな笑みをこちらに向けていた。ミルクスの方は魔力枯渇で気を失ったのか、地面に倒れている。
「早々にそこをどいた方が、身のためですよ。ゲイルズさんなら、分かるでしょう?」
脳内麻薬がキマッてんなぁ。そりゃそうだ。でなきゃこんな無茶はすまい。
ほとんど思いつきに近い、初めて行使する術式の、少年が編み出した最初の魔法。
ああそうだ。頭の中でひらめいた最っ高の理論をカタチにした瞬間は、そうなるよな。
「だからモーヴォンは、自分では制御できない瘴気を型に流し込んで疑似妖精として鋳造してしまうことで、無理矢理安定させた。……いや、そうしてできあがった疑似妖精の意識に、制御を丸投げしたんだ」
なるほど頭が良い。すごい解決策だ。やるな少年。斜め上だわ。
けど、それってホントにイカレてるんだわ。
「ただし、いくら妖精の扱いに慣れているといっても……そもそも瘴気を扱う術式の制御ができないということは、あの疑似妖精だってマトモに操れるはずがない」
「……えーっと、つまり?」
本気で嫌そうな声で聞いてくるゴアちゃんに、僕はこめかみに青筋を浮かべた笑顔で答えてやる。
「暴走が大前提、ってことだな」
闇色の猫の蝶羽が、星空を遮るように広がる。
僕は中指をおっ立てた。
『穿て!』
命令を受け、スライムの一部が刃と化して槍となり、闇色の猫に迫る。
軌道は完璧。真っ直ぐ、胴体の中心部を狙って―――その先端が、見えない竜にでも喰われたかのように消失した。
「ファック!」
意味不明すぎて笑えてくる。なにをされたのか全く分からない。
瘴気属性なんてほとんどなにも分かってないような魔素の疑似妖精化とか、思いついたからって実行するのホントどうかと思う!
「いい顔じゃねぇかリッ君。やっと調子出てきたか?」
「落第級の斜め上解答に変な笑いが出るだけだ!」
「ところでシュレディンガーって名前は前世で聞いたことあんだけど、どうせお前だろ?」
「与太話で話したことはある!」
「リッ君。俺、前世の知識を軽率にひけらかすのどうかと思う」
「うぜぇ!」
闇色の蝶羽から、同じ色の球体が分離した。
いくつも、いくつも、可視の鱗粉のようにばらまかれたそれは、綿毛のようにゆっくりと上空から降りてくる。
ゴアグリューズが見上げて、うへぇ、と舌を出した。
「あれ触るなよ。黒狼だ」
「知ってるのかっ?」
「魔界の瘴気溜まりでたまに起きる現象だ。触れたものはなんでもかんでも、喰われたように無くなるぞ」
『障壁!』
スライムを壁にする。言われたとおり球体に触れた部分が削り取られる。球形に抉られた部分はなるほど、なにかに喰われたような見た目でゾッとする。
ただ、どこに消えているのかが分からない。球体は一口で消えて無くなるが、後にはなにも残らない。煙もたてずに消えてしまうのだ。
「対消滅してる……のか?」
分からない。理解できない。だが、考えたことがなかったわけではない。
瘴気とは、いったいなんなのか。
観測はできる。法則はある。難解なうえに危険だから、よく調べられないだけだ。
人族には。
「ゴアグリューズ、瘴気とはなんだ。知ってることを全部教えろ」
僕の問いに、魔族の青年は口角を上げて答える。
「知るかよそんなの。俺はまっとうな魔法使いじゃねぇ」
「ファック!」
ほんっと使えねぇなコイツ!
闇色の猫が生み出す球体を増やす。静かな……あまりにも静かで現実味がない、無音の動作。
けれど触れれば問答無用で喰われるそれが視界を埋め尽くすほど無数に落ちてくる光景は、できの悪い悪夢でしかなかった。
「なあリッ君」
「なんだゴアちゃん」
スライムを肥大化させて肉壁にするが、増やした先からどんどん削られる。無に帰すように、無くなっていく。
なによりも恐ろしいのは、その現象に力の存在が感じられないことだ。球体に触れた部分が最初からなにも無かったかがごとく球形に消失する様子には、本能的な恐怖が沸き立つ。
抵抗が無意味に思えてくるような。災害のような、対抗ではなく逃げるしかないモノを相手しているような。
「俺、逃げていい?」
「ダメだ」
僕は地面に両手を突きながらも、必死で顔を上げてこちらを見るモーヴォンに視線を向けて、そう答える。
おそらく、エルフの少年は瘴気妖精の操縦を行っていない。彼はまだ瘴気属性の魔素を満足に操れない。
だから事前設定だ。
「習性付けだろう。アレはお前を襲うようプログラムされて産み出されてるはずだ。だとすると目標が居なくなったとき、どう動くか分からない。最悪、ウルグラの街中で暴れる」
「アレは俺でも無事で済みそうにないんだけどな……」
「マジで素通しが視野に入った」
「やめとけ。俺の瘴気を喰ったらアレ、でかくなるかもしれないぞ」
…………ファック!
最悪だ。最悪の状況がさらに斜め上になった。心底から悪罵をまき散らして誰かに八つ当たりしたい。
目標を喰らったらパワーアップして、目標が居なくなったせいで暴走とかいう未来の可能性なんて、本当に勘弁してほしい。
スライムと球体の向こうで、闇色の猫が動くのが見えた。夜は暗いのに、塗り潰したようなさらに濃い闇は異様な違和感として認識できてしまう。質量を持った無のような、相反する概念が同時に存在する感じ。
怖気が走る感覚。
闇色の猫は上空から降りてくると、一度スライムの手前で停止し、観察するように見下ろす―――闇色で瞳なんて見えないが、そうしているように思えた。
「……ファック!」
経験するのは何度目かだから、気づいた。僕は新しい結晶を取り出し、すぐに肥大化させる。それまでのスライムはそのまま放棄した。
見れば、闇猫に凝視されたスライムが急速に黒ずみ、風化した土壁のようにボロボロと崩れていく。
「瘴気の浸食……ここまで濃いと、こうなるのか」
「アレがあるから、魔界じゃ建物や道具があんまり保たないんだよな」
瘴気に晒すと劣化しやすい、ってことか。それくらいは分かってる。分かっているが……。
闇猫が無数の球体と共に迫る。もはや僕のスライムは見切られたのか、まったく警戒されているそぶりが無い。
とぷん、と直接ダイブして、すり抜けるように抵抗なく向かってくる。
「ファック!」
モーヴォンになにを言っても無駄だろう。あの妖精にゴアグリューズを喰わせたらパワーアップして暴走するぞ、と言ったところで、最初から暴走前提の術ではもはや手遅れだ。僕がここでなんとかするしかない。
本当にクソみたいな魔法だ。学院だったら赤点で落第点で一発退学モノだ。禁忌認定で上層部に消されるレベルだ。あのバカ絶対許さないからな。
「ファック!」
頭を必死で回す。対抗策を探す。
瘴気属性。黒狼という対消滅現象。劣化促進。妖精という性質。シュレディンガーという名付け。他にも、今までの旅中にだっていくらでもヒントはあったハズだ。
瘴気の結界を張る球形立体魔術陣。竜人族ゾニの属性変質。サリストゥーヴェの術式がもたらした破壊の法則。そもそもの、魔族の存在―――
もう少しなのに。
「ファック!」
闇猫が、迫る。蝶羽を広げ、僕とゴアグリューズへと伸ばし―――
『Hack!』
声高らかに叫んで、僕は僕の魔法を解禁する。




