ウルグラ王国立美術館
「お帰りなさい、リッドさん」
宿に戻るなりかけられた声に、僕は驚いて立ち尽くした。
暗くてがらんとした宿の一階。他には誰もいない食堂の窓際でただ一人、長く黒い髪の少女が待っていたからだ。
開け放たれた木窓から注ぐ月明かりが、彼女の微笑みを照らす。その光景に、不覚にも少し魅入った。
「……もう深夜だぞ。早寝早起きの君らしくない」
「姫さまの様子がおかしかったのでお話を聞いてみたら、リッドさんが一人で出かけたと言われまして。お待ちしていました」
問いただされてもなにをしに出かけたかは言わなかったか。厳命しておいたものな。
旅の道中でも前魔王に会うことは漏らさなかったし、我が弟子の口は堅いらしい。
「どちらへ出かけていたのですか?」
「冒険者の宿へ、この辺りで採れる素材でいいのがないか確認にな。依頼の張り紙を見れば、採取できるものやよく出る魔物がある程度分かるだろ?」
「そうですか。それは急ぎの用事でしたか?」
……察されてるんだよなぁ。
僕は彼女の立つ窓際近くまで歩み寄ると、食堂の椅子に腰掛ける。とりあえず息をついた。……今やっと自覚したが、ずいぶん疲労しているな。
レティリエは立ったままだ。見下ろされる形で、なんだか威圧感を感じる。どうやら納得するまで詰問するつもりだな。まいった。
「えーっと、実は悪い友達と酒場で飲んで夜遊びしてた、と言ったら?」
なるべく嘘は言わないようにはぐらかす……が、微妙なところだ。あいつとは友達じゃないし、酒場で飲んでたのは水だし、遊んでもいなかった。嘘だわこれ。
「それはどなたと?」
うん、詰んでる。
「秘密だと言ったら、怒るか?」
質問を質問で返す。
レティリエは落ち着いていた。……けれど一度瞼を閉じて、もう一度開いたとき、微笑みは消えていた。
「怒りません。ですが、傷つきます」
そうか。そうだろうな。彼女と僕は勇者とその仲間だ。
きっと、彼女は僕を信じてくれているのだろう。だから怒りはしない。
けれど仲間に頼られないのは、辛いだろう。無力さを感じ、信用されていないと思ってしまうだろう。
―――それは嫌だな、と思った。
「すまない。傷ついてくれ」
もし、自分も来るなどと言い出されては困る。
この優しい少女はおそらく、前魔王と会っていることを言えば心配するだろう。あの男は厄災そのものだ。その気にさせてしまえば、僕など一秒と要らず殺されるに違いない。
だがレティリエでもアレには勝てない。チェリエカで勇者の力をだいぶ使いこなせるようになったようだが、それでも前魔王の方が強いだろう確信がある。
ここには誰にも相談せずに来た。僕の独断だ。
そして独断でみんなを危険に晒せるほど、僕の心は強くない。
アレの相手は僕一人でやればいい。第一、その方が上手くいくだろうとも思う。
同じ転生者だからな。なんだかんだ、あの男は僕に関心を持っているきらいがある。それに思ったより常識も道理も通じそうだ。―――ていうか蹴り入れても反撃すら無かった時点で、少なくともあの男には僕に危害を与える気がないと推測できる。
それに、ことは順調に運んでいるのだ。あとはせいぜい情報を引き出すくらい。だからこれでいい。
余計な要素はいらない。
「明日、昼前ごろから出かける。君たちは観光でもしていてくれ。……この都はいいぞ、見所がたくさんで退屈しない。きっと楽しめるさ」
席を立って背を向け、そう口にする。……レティリエがどんな表情をしているのか、僕はついに目を向けることができなかった。
雲一つ無い、恨みがましくなるほどの晴天に、広い庭園。
ドレスコードなどないはずだが、比較的身なりの良い老若男女が並ぶ出入り口を呆と眺めて、立ち尽くす僕はさながら忘れ去られた地蔵菩薩だ。ぼーっと待ちぼうけしながら恋仲っぽいの男女を見送る時とか悟り開きそう。立ってるのは日向なのに気分は日陰者だよこん畜生。
芸術の国の首都には、その二つ名を象徴するような施設があった。
古今東西のさまざまな芸術作品を収集し、見世物にして集客し、収益を図るといういろんな意味で狂気の沙汰を詰め込んだ建築物。―――美術館である。
ビッグネームな美術品を収集してる時点で巨額の投資をしているわけで、それを黒字にするためには客足を途絶えさせることなく何十年営業を続けないといけないんだというか普通に常に赤字なんじゃないか、って疑ってしまうアレだ。
僕の前世の記憶では、わりと近所にできたそれが開館から数週間で寂れて、いつの間にか閉館していたのを覚えている。行ったことはなかったけどもの悲しかったな。
まあ、このウルグラ王国立美術館はそうそう潰れないだろうが。
なにせ国立であるから運営は税金だし、芸術の国の最大手だけあって客足も途絶えない。首都の顔だから寄付も多く集まる。芸術家の聖地であるここはさすがに黒字だろう。
今も入館受付には長蛇の列が並んでいるが、慣れた係員たちは手際よく来場者を捌いている。あれなら今から並んでも、そこまで待ちはしないだろう。
……問題は、待ち合わせの時間をとっくに過ぎても相手が来ないことなのだが。
そもそも、僕は芸術とは縁遠い存在だ。素晴らしい絵や彫刻を見れば凄いもんだなと感じることくらいはあるが、自ら美術館に足を運ぶほどの興味はない。人間には向き不向きがあって、そこには趣味嗜好の傾向も含まれるのである。つまりこういう分野は誰かに任せておけばいいのであって、場違いな僕がわざわざ立ち入る必要は無い。
と思ってたのだが、僕と同じくらい場違いな男が好奇心いっぱいの笑顔で行きたいと言って、奢ってくれたら話の続きをするとまで言うなら仕方ない。なんなのアイツほんとに。
「よ、悪い悪い遅れた。待ったか?」
「一時間ほどな」
昼なので火のついていない篝火の支柱に寄りかかって空を見上げ、素数を数えて時間と不必要な感情を潰し、それにも飽きてなにしているんだかなぁと哲学にふけっている最中にやっとかかった声に、答えてから振り向く。
特に悪いと思っていない、この蒼天のような笑顔をした魔族は、いつものボサボサ髪と薄汚れた軽装でシュタッと手を挙げた。
「いやー、興味はあったんだが入館料が高くてよ。やっぱ芸術の国とか言っても、こういうのは中流階級以上の娯楽なんだろなぁ」
「ここにあるのは一級品ばかりな上、歴史的価値があるものも多いからな。保管費、修繕費、警備費なんかもかかるとくれば、高くつくのは仕方ない。逆に言えば、この値段でも入る価値があるってことだろう」
列に並んで中に入れば、館内は広かった。……とりあえず暗黙のドレスコードとかなくてよかったな。薄汚れた半袖野郎が通れるかドキドキだった。
玄関ホールの天井は高く、それそのものが芸術作品で、人族の原種たる神の腕たちが描かれた壮麗な天井画が入館者たちを見下ろしている―――実に素晴らしくてこれだけで感動できるな。ミケランジェロが天井画描いたとき、無理な姿勢だから絵の具が目に入り続けて視力が極端に落ちたり、身体のあちこちがおかしくなったりしたとかいう豆知識がなければ、もっと純粋に楽しめそうだ。……これ描いた人、大丈夫だろうか。
「はっはっは、誰が誰だかぜんっぜん分かんねぇ。お前分かるか?」
早速展示へ突撃していった連れの前魔王が、楽しそうにはしゃいでいる。こういうのをモチーフも分からないのに楽しめるのはもはや才能だな。そっち方面やらせたら意外と大成するかもしれない……無理か。瘴気で細かいとこダメにしそうだもんな。
入り口近くにまず展示されているのは石像で、規則正しく並んでいるそれはすべて違う種族のようだ。外見の特徴や衣装、持っている道具や共に表現される奇跡などを観察すれば、僕にもそれなりに分かる面子が揃っている。
「ここにいるのは多分、みんな神の腕だな。一番前の耳長女が水と植物の創り手。ずんぐり男が火と鉱物の創り手。といった具合だ」
「ああー、こいつらがそれか。そっか、だから全員ちょいと違うんだな」
違う、というのは、今の人族と、という意味だろう。
今のエルフも華奢だが、石像の耳長女はもっと細く鋭利な印象を抱くように掘られている。ずんぐり男は肌が岩のようで、小さな者など足が羽のようだ。角と毛皮を持つ者にいたってはほぼ獣である。どれも神秘的な印象を受ける美しい存在でも、現在の子孫とは似て非なる姿をしていた。
かつて魔術の大元たる天上の音階を操った、人族のオリジナルたち。世界創造の権限を分与されたモノ。
「まあ、これは創作だけどな」
「あん?」
「神の腕は与えられた役割こそ個々で違ったが、外見については何の伝承もないんだ。というか熱心な学者たちからしてみれば、原種たる神の腕にはここまで分かりやすい個性などなかった、とされる説の方が有力でね。そもそも人族における種は神の腕から枝分かれしていったものなのだから、枝分かれ前のこの時代に各種族の原型ができているなんておかしい、と……」
「おう、すっげーどうでもいい」
そう言うと思った。
「史実がなんだ。伝承がなんだ。間違っていたとしても、この作品はここにある。なら俺たちがすべきはなんだ、リッド・ゲイルズ」
「作者の無知さ無学さを肴にしつつ、造形の裏から滲み出る種族差別意識や身勝手なイメージを炙り出して茶化す?」
「性格悪いよなお前!」
こういうモノに対する感受性が薄いからな。
実際、こういった石像だの天井画だのを見ても、僕はそこまで感動していない。素晴らしいモノだろうとは思うのだが、それがどれほどの価値をもつのかまでは理解できない。
感動しにくい性質なのだろう、と最近までは思っていた。
けれど今では違う気がする。
心が震えた瞬間を、何度も経験してきたから。
「まあいい。次だ次。この美術館広いから、入り口で立ち止まる暇なんかねぇぞ」
立ち止まってたのはそっちだろうに、と口に出さず思いながら、やれやれとついていく。
展示は特に決まった順路などはなく自由に見て回れるようで、ちょっと混雑気味だ。ただ人気のある展示とない展示の差は顕著で、人と人の間を縫うようにしないと歩けない場所もあれば、ほとんど誰もいないガランとした区画もある。
前魔王は迷うことなく人混みの方へと足を向けた。
「なんでわざわざ混んでるところに行くんだ?」
「人が集まってるなら、目玉の品があるってことだろ?」
………………あれ? 一理あるな。
僕なら比較的空いているところから足を向けるが、そういう人気のないものはいわゆる通向けだ。見たところで分かるかどうかは自信がない。逆に一般人にも分かるレベルのものだからあんなに人が集まっている、と解釈するなら、確かに僕らが目にすべきはあちらにあるのだろう。
うわ、人混みが嫌すぎて、そんなことにも気づかず今まで生きてきたのか僕。
「なんでそんな難しい顔した? というかリッ君よぉ。あの絵なんだ? 何の絵?」
「いや、思わず今までの人生を振り返るような天啓があって……。というかリッ君ってなに?」
「お前のあだ名。俺のこともゴアちゃんって呼んでいいぞ」
「……いや、というかそもそも、僕は君の本名知らないんだが。名前あったのお前?」
「あるわ名前くらい。え、レティにも姫さんにも聞いてない? ていうか俺名乗らなかったっけ?」
「何も聞いてない」
前魔王の男は、そうだったかー? と記憶を探っていたが、やがて名乗ったかどうか思い出すより改めて自己紹介した方が早いと考え直したのか、満面の笑みで僕に向き直る。
「ゴアグリューズ・バドグリオス・ハイレン・マドロードゥニウスだ。ゴアグリューズ、だけ覚えればいいぞ。フルネームは俺もたまに忘れる」
……いや、忘れるなよ自分の名前。




