宿場町の雨
「んー、寝てても移動できるのはいいけど、お尻が痛いわね。それに身体が固まっちゃいそう」
馬車から降りてまだ高い陽に目を細め、猫のようにしなやかなのびをして、ミルクスはそう不満を言った。
首都への中途にある宿場町は古いが、その古さが味になっている褪せたレンガ造りの町並みだった。
趣がある、というのだろうか。どこか暖かさと穏やかさに包まれたような感じを抱く町は、首都に近いせいか旅行者らしき姿がちらほら見える。
……行きか帰りかも判別しない旅行者たちの顔は明るくて、けれどそんな明るさを見ればロムタヒマの難民の陰惨さを思い起こしてしまうのだろう、四人の沈痛な表情が心に痛かった。
「今日はここで一泊します。また明日、日が昇るころに出発しましょう」
口髭を生やした中年の御者は看板が古ぼけてきた宿に案内してそう言い、母屋の隣にある厩へ勝手知ったる様子で馬を中に入れていく。……御用達の宿なのだろう。ここの代金は運賃に入っていたので、ギルドか個人かで契約しているのかもしれない。
「まだ日は高いですが、これ以上は進まないんですか?」
ネルフィリアが聞くと、人のいい御者はウンウンと頷いてから説明する。
「この先の宿場町は少し遠いからね。これから出発すると完全に夜になってしまう。どうしても急ぎたいんじゃなければここで休んでいくのがいいんだよ。あんまり急ぐと、馬たちも疲れちゃうしね」
御者にとって馬と馬車は商売道具であり財産である。損なえば破産してしまうため、できる限り大切に扱うのは当然だろう。
多少遠回りでも整備された安全な道を通り、遠回りでも獣や野党に襲われかねない野宿は避け、馬の体調に気を配りながら速度を決める。途中の休憩も乗客ではなく馬のためのものだ。
馬車馬のように働く、なんて言葉が前世にはあったが、こうしてみると大事にされてるよな馬車馬……。
それでも歩きより早いのだから、馬車は偉大である。しかも楽ちん。今までなんで使ってこなかったんだろうね。山とか森とか魔族の支配圏とか、馬車が通れるところ皆無だったからだよチクショウ……。
「そういうことでしたか。馬たちを疲れさせてはかわいそうですものね」
そう頷くネルフィリアの視線は、馬たちへと優しく注がれている。仲良くなったもんな、君。
この馬車を引いているのはでかい品種で、近づけば威圧感を受けるほどの巨体と重量だ。……が、この二頭は驚くほど大人しくて、よく人になつくようだった。
休憩中におそるおそる触りに行ったネルフィリアは、馬車に戻ると満面の笑顔でその瞳の優しさと毛並みの艶やかさを語っていた。……あれはもうお馬様のいいなりだな。アニマルセラピーに完全にやられている。
まあ、馬を大切に扱うことに異存はない。急かして怪我でもされたら損害賠償案件だし、後味も悪そうだ。それにウルグラは小国で領地が狭いしな。あと二日も馬車に揺られればもう首都に着いてしまうのだから、何の問題も無い。
はずだった。
「雨ですねぇ……」
「雨だねぇ……」
ふと裁縫の手を止め窓の外を眺めたレティリエのつぶやきに、テーブルに頬杖をついたミルクスが雑な相づちをうつ。
雲は厚く雨は強く、すぐには止む気配がない。御者は今日も運行中止を宣言し、僕たちは宿で呆と過ごしていた。
宿場町で足止めをくらって、すでに二日である。
「む、ぐぐぐ……」
彼女たちと同じテーブルで、ネルフィリアが自分で生み出した灯りの魔術に手を翳し、真剣な表情で呻っていた。
灯りは明滅を繰り返し、揺らめき、不安定に色が変わっていく。それでも持続はしているあたり、なかなかのものだ。あれが安定したら光度調整、位置操作、そして複数同時制御へと移行していく。
灯りの魔術による魔力操作は基本中の基本で、魔術師なら誰もが通る道だ。
そして、僕が実感を踏まえては教えられないことでもある。
僕は魔術式を用意することはできる。魔力を通すだけで発動する、魔術のスクロールのようなものでもこしらえることができる。
まあ効力は使用者の魔力量次第なうえ、普通に魔術を行使するより効率が悪いからそこまで大した術は使えないが……ネルフィリアに魔術を使わせることはできる。
けれど、それでは技術向上にならない。僕のやり方はスイッチを切り替えるだけで蛍光灯の電源を入れるのと同じだし、生み出すだけで操作はできないからな。
だから技術面でネルフィリアに教えられることって少ないんだよな、僕。教科書通りのことくらいだ。そりゃ、舐めてるのかってモーヴォンにも言われても仕方がない。
……ただ、それはネルフィリアも承知しているはずだ。彼女は僕が魔術を使えないことを知りながら僕に師事している。
それがどんな理由なのかは知らないが、ならば彼女に甘えは許されないだろう。経験の無い僕はその部分を教えられない。教えてはならない。そう割り切らないと事故につながる。
だから、彼女は師に頼らず術操作の感覚を掴まねばならない。
まあ、僕だって他の術士にヘルプくらいは出すけども。
「力んじゃダメよネルフィリア。身体を強張らせても意味がないもの。自然体で意識だけに集中して。他は邪魔になるわ」
新米魔術師の向かいの席からミルクスがアドバイスを飛ばす。
あれでミルクスは灯りと聞き耳の魔術を習得している。エルフ魔術体系だが、魔力操作などの感覚的な部分はそうは変わらないだろう。
……モーヴォンだと、ネルフィリアがなぜこんなとこで躓いているか分からないとか言い出しそうだからな。天才に後輩育成させると、無自覚に才能の違いを見せつけて挫折させかねないのである。
その点、ミルクスなら安心だ。エルフとはいえ才能はない方らしいし、そもそも魔術に対して向上意識というものがない。だから視点がマジで初心者と同じ高度である。というか彼女自身が初心者である。
「頑張っちゃダメ。深呼吸して、リラックスして魔力を安定させるの。あなたの手の中にあるその灯りは、いつも共にある隣人のようなものと感じて。友達に接するように心を近づけて」
前半はともかく後半は聞いたことねぇなぁ……。やっぱ失敗だったかもしれない。
「……友達って、なんですか」
灯りの魔術が揺れる。彼女の心のように。
その表情は固く、険しく。意識は魔術の制御だけに向けられている。
「私はそれを知りません」
……そりゃまあ実質、このネルフィリアは産まれたばかりだし。しかも魔族に囚われた状態からスタートだしな。
そうか。そういえばこの少女には、本当に知人と呼べる者がいないのだ。肉親ですら初めましてと挨拶しなければならないのだ。
友人などいない。誰も今の自分を知らない。かつての自分が親しかった者には、かつての自分のように振る舞わなければならない。
それはなんと残酷な生まれ落ち方か。
「? あたしたちがいるじゃない」
本当に不思議そうに首をかしげて、ミルクスはそうのたまった。
灯りが揺れて、あっさり消えてしまって、ネルフィリアはエルフの少女を見る。
「あたしとモーヴォンはネルフィリアの友達だと思ってるわよ。レティは侍女のつもりかもしれないけど、あなたのことを大切に考えているのは変わらないわ」
「…………」
「あっちでひたすら何かやってる男は知らないけど」
僕は無視して羊皮紙に描き込まれた魔術陣の一部をナイフで削り、濃度を調整したインクで訂正する。
雨の音が強いからな。聞こえなかったってことでいいだろう。
「リッドさんも、姫さまのことは考えてくれているはずですよ」
そんな僕を見ながら、レティリエは苦笑した。
「実はとても優しい人ですから」
……本当に、あの勇者様は人を見る目がない。いつか詐欺とかに騙されるんじゃないかと心配になってしまう。
「子供を蹴る人が、ですか?」
声には、怒りが含まれていた。
やり場のない怒り。言葉で諭されても感情は納得できない様々な事情があって、それらに何もできなかった無力に打ちひしがれて、そのすべてにこみ上げる怒り。
振り上げることもできず、爪が食い込んで血が滲むほどに握りしめるしかないそれを、少女は三日たっても色あせないまま持ち続けている。
それは僕にはないものだ。
「あれはリッドさんではなく、わたしがやらなければならないことでした」
……彼女は元々、姫さまの直属の侍女で緊急時の護衛役だからな。そういう責任を感じてはいたのだろう。
しかし、なにか口出してやろうと思ったが、さっき無視した手前だ行きにくい。困った。テーブル一つ挟んだ距離って微妙だぞこれ。
「リッドさんにあの表情をさせたのは……二度目です」
雨粒が屋根を叩く音が強くなる。どうやらまだまだ雨は止まないようだ。
僕はナイフで羊皮紙を削って、削ったところに書き足して、術式の修正を続けていく。
「ねぇ、今まで聞いてこなかったけど、あんたたちはどんな……」
「ただいま」
間がいいのか悪いのか……ミルクスの言葉を遮るように宿の扉が開くと、彼女の双子の弟がちょうど帰ってきたところだった。
全身ずぶ濡れで。
「な……なにをやっているのですか、こんな日に外で!」
「畑を見に行ってました」
ネルフィリアが慌てて駆け寄ってハンカチで滴を拭き取るが、小さな布で取り切れるような状態ではない。
畑って。
「すぐにお風呂へ入ってください。着替えは後から持って行きます!」
僕が唖然としている間に、ネルフィリアはモーヴォンの手を引いて風呂場へと向かっていく。……お優しい王女様だ。あれが本当の優しさだよな。
「畑、ねぇ……」
二人にレティリエがついて行くと、一人残されたミルクスがこっちに寄ってきた。
「行かなくていいのか? 君の弟だろ?」
「いいのよ。せっかく女の子二人に世話焼いてもらえるのに、姉がいたら興ざめじゃない」
「ずいぶん弟想いな姉だな……」
「夏だしあの程度で風邪引いたりしないでしょ」
どうかな? 君と違ってモーヴォンはインドア系だから、そんなに身体強くはないぞ。
「ねえ、畑ってどんな風の吹き回しだと思う?」
「さあ? エルフが農耕するって話は聞いたことないが、森の世話の参考にするんじゃないか?」
「だといいけど……」
よほど意外だったのか、ミルクスは存外に困惑しているように見えた。けれどそれもすぐに表情から消え、今度は僕の手元に目を向ける。
「ところであんた、さっきから何してるの?」
「ヒーリングスライムのバグ取り」
「ばぐとり……?」
「最近できることを増やしたからな。術式の不具合を探して訂正してるんだ」
「ふーん、趣味なの?」
……かもしれない、とか思っちゃった自分に嫌気がしたな。今。
「ゲイルズさんは畑の作り方を知っていますか?」
風呂から出てきたモーヴォンは、いの一番に僕のところに来てそう聞いた。知るかんなもん。
「小さな鉢で薬草の栽培をしたことがあるくらいだが……それくらいはサリストーヴェの研究室にもあったろう?」
「そうですか。では自分で調べるしかなさそうですね」
「いや、本気でガチな畑か? どこ耕す気だよ」
「ターレウィム森林」
僕の問いに、モーヴォンは端的に答えた。
「……なんで?」
「ナーシェラン王子には、あそこを領地として貰う話をしてありますからね。領民を迎えるには必要でしょう」
そういや、そんな話していたなお前。
「あのな、モーヴォン。自分が何言ってるか分かってるのか?」
彼が僕を壁として見ている以上、僕が意見を言ってもあまりいい結果にならない気もするが、言わずにいられないことだってある。
……が。
「ええ。分かってますよ。開拓は森を傷つける行為だってことくらい」
理知的な琥珀色の瞳を揺らがさず、エルフの少年はそう言った。
……驚いた。それは彼らにとって一番やっちゃいけないことだと思っていたが。
「ターレウィムのエルフの里は滅び、ボルドナ砦もなくなりました。それでも今、あそこの楔は結界で守られてはいます。……ですが、結界の効力はいずれ薄れますからね。誰かが守らねばなりません」
「それを君がやると? ミルクスと二人で?」
「ミルクスは森に戻る必要はありません。フロヴェルスから兵を借り受けることができれば、人手は足りるでしょう」
……だからナーシェランにああいうああいう交渉したのか。ターレウィム森林全土を人間の領地として認める代わりに、兵を出して管理しろ、と。
舌を巻くなコイツは。
「相応のメリットを出さないと兵を出させるのは難しいと思うが」
「リスク管理は損得度外視ですべきです。それに、交換条件のアテもなくはないですからね。まあ、そこはなんとかします。……ただ、兵士だけで人の営みは完結しないのはチェリエカで学び、食料に貧すればどうなるかは国境の町で学びました。人間の集団にエルフの生活は無理なのも理解できます。多少森を切り拓いても、人間の生活に適した場所を造らねばなりません」
エルフの少年は淡々と自分がやるべきことを口にする。
たしかに、エルフの里は実質滅んだ。人間の手を借りなければ彼の地の守護は無理だろう。彼の判断は正しい。ロムタヒマ攻略どころか、そのための軍備が整うのを待っている現状で考えるのはまだ早いようにも思うが、早くに考えておいた方がいい問題なのも確かだろう。よくも今の段階でそこまで考えて行動するものだと思う。
しかし……―――
「……あのさ、モーヴォン。そういうのって普通あたしに相談するべきじゃない? あと、あたしが要らないってどういう意味よ」
不満を口にしたのはミルクスだった。手を腰に当て、不機嫌そうに双子の弟を睨み付けている。
モーヴォンの考えは里の生き残りの責務として賛同するが、自分のあずかり知らぬところでどんどんと進められているのは気に入らない。
まあ、これはモーヴォンが悪いな。
「ミルクスは人間の町に住むだろ?」
けども、双子の姉だけに使う口調で彼はそう聞き返した。びくりと、エルフの少女が驚きを顔に出す……分かりやすいな。
「双子だから、見れば分かるよ。自分も人間社会はそこまで悪くないと思うけど、ミルクスほどには馴染めない。森に戻る方が性に合ってる。だから、好きにしてもらいたいのだけど」
「バカ言わないで。あたしだってあの里のエルフよ。防人の責務があるわ」
「そう? 自分は責務なんかであそこを守るつもりはないけど」
その言い方に、ミルクスが眉をひそめる。
ターレウィム森林の楔、魔界の浸食から人界を護ってきたエルフの責務を、なんか、などと言ってのけた少年は、瞼を閉じて彼の地に想いを馳せる。
「婆ちゃんがあの地にこだわった理由が分かるよ。あの地は護らねばならない。それはたしかだよ。けれど、それだけじゃない。あそこは瘴気魔術の実験場なんだ」
……瘴気が無ければ、瘴気を操る魔術は実験しようがない。
サリストゥーヴェがあの魔術に至れた理由は、まさにそれだろうが。
「里のためじゃない。人族のためじゃない。瘴気魔術の研究のために自分はあの地に戻る。これは自分のエゴだから、ミルクスは付き合う必要は無いよ」
ザアザアと、窓の外では雨がさらに勢いを増してきていた。




