国境の町
国境の町は最初から印象が最悪だった。
「待て!」
最近補修されたらしい高い壁があり、狭い門をくぐって入国手続きを行う。僕らの他に入国手続きをしようとする者はおらず、並ぶ必要は無い。
五人とも文字は書けるので、口頭手続きではなく木簡に必要事項を書き込んで提出し、正規の料金を払って通り抜けようとすると、警備兵に呼び止められた。
「待て、待て待て! この門へ来る者は魔族の可能性がある。身の潔白を証明できるものがなければ、易々と中には入れられない。門をくぐりたいのならこちらの指示に従ってもらう」
槍を片手に威圧的にそうのたまう木っ端は、僕以外の四人を下卑た目で見回す。……下心を隠し切れていないイヤらしい目つきだな。個別に荷物検査と称して、不埒なことでもするつもりだろうか。
どうやらここの国境警備兵はあまり質が良くないらしい。
―――しっかし、モーヴォンも対象に入ってるのがアレだな。まあこの世界、地域によっては男娼の方が高く付くこともあるらしいが。ウルグラはどうなのか知らないが、芸術の国って変な方向性に走ってそうだしなぁ……。
「これはこれは兵隊さん、お務めお疲れ様です。僕らは旅の学士でして。これで身分証明になりますでしょうか?」
僕は彼ににこやかに近づき、懐から出したハルティルク魔術学院の認識票を見せる。
相手が僕だからだろうか、衛兵は明らかにむっとした顔で金属片を見て、鼻で笑った。
「ああん? ルトゥオメレン? 魔術師? こんなもの、何の証明にもならん……」
「いいえ、錬金術師です。ここに書いてあるでしょう?」
「む……」
ニコニコと作り笑いを振りまくと、相手はわざとらしく難しい顔を作って唸り、やがて頷く。
「そう……だな。うむ。確かに錬金術師のようだ。となれば問題ないだろう。通ってよし!」
左手を自分の腰の後ろに回して背筋を伸ばした衛兵は、槍の石突きをカンッと石畳で鳴らして道を譲ってくれる。
僕は後ろの四人を振り向いて、安心させるように笑って見せた。
「良かった。じゃ、入ろうか。ウルグラへ」
「驚きました。錬金術師は魔術師よりも信用されるんですね」
関門を抜けてから早足で横に並んできたネルフィリアの、そんな冗談ではなさそうな口調に、僕は微妙な顔になる。
教育に悪い、とか思っちゃったのアレだな。師じゃなくて保護者の視点だよな……改めねば。
「そんなことはない。地位で言えば魔術師の方が上だし、どっちにしろうさんくさいことに変わりはないからな。それに多分、あの兵士に区別なんかついてないよ」
「え、それではなぜあんなにすんなりと通してくれたのです?」
「錬金術師である証拠を見せたのさ。……彼の手の内に金を造り出してね」
「ええ! 師匠は金を造り出せるんですかっ?」
この娘、頭はいいはずなんだけどなぁ……。あと金を造る錬金術があったら、もう少し錬金術師の立場が見直されてると思う。
神聖王国たるフロヴェルスにはあまり不正がないのか、姫だからそういうモノから遠ざけられていたか。うん、後者だな。
あるいは―――僕の同郷は、現在のネルフィリアが理解することもないほどに恙なく、そういう事柄を淡々と処理してきた、という可能性もあるが。
「あのね、ネルフィリア。リッドはあの兵士にこっそり金貨を握らせたのよ。つまり賄賂ってこと」
狩人の目には見えていたのか、呆れはてたミルクスが直接的な物言いで教えてやると、ネルフィリアは目を見開いて絶句する。
「面倒だしちょっと大目にな。ナーシェランが当面の金を用意してくれたのはありがたかった。使い切ったらネルフィリアの名前で無心の手紙を送ろうか」
僕の言葉に目を白黒させる王女様。
他国とはいえ国境警備兵なんてエリートが汚職していることもショックなら、自分の師があっさりと賄賂を渡したこともショックなのだろう。清らかで純粋なことだ。ぜひともこのまま育ってほしいが、術士としてはこのまま育てるわけにもいかない。物事の裏側を覗かなければ真実は見つけられないし、悪意の食い物にされてしまう。
だがまあ、汚濁に触れるのは僕の役目だろう。汚れ役は僕が引き受ければいい。
この四人にはわざわざ、泥を引っかけるような真似はしなくていい。
「そんなことより、いったいどうしたのっていうかね、この有様は」
僕は口をへの字に曲げてぼやく。通りを歩いていくと、少しずつこの町の現状が見えてきた。
町は濃い疲労のにおいがした。
陰気な雰囲気が漂っていて、そこかしこにぼろきれを纏った浮浪者の姿が目に付いた。座り込んでいる者たちが地べたに欠けた器を置いていたが、中身はほとんど空だった。
老廃物や汚物の匂いが鼻につき、誰も片付ける気力が無いのか死体が転がっていて、大きめの鳥がつついていた。
活気などなく、陰湿な視線が歩く僕らに集まる。
僕は空気を切り裂くように先頭を歩いた。
「華やかな芸術の国……なんですよね?」
後ろからレティリエがおずおずと聞いてきて、僕は頷く。
「魔族の侵攻で逃げてきた者たちかな。半年間以上たってもまだこれなのか。あるいは、時間がたったからこそこれか。……まあ、こんなこともあるんだろう」
「同じ人間の町でも、チェリエカとは全然違いますね」
モーヴォンの声は冷静だ。どんな感情よりも先に、まず目に見える情報を分析しようとしている。
「チェリエカにいたのは危険を承知で生活を手放さなかった者たちだが、ここにいるのは家財を捨ててきた者たちだからな。ロムタヒマとウルグラ間は街道がいいし、結構な数が亡命したと推測できる。……そりゃ、逃げた先で生活に困窮する者だっているさ」
僕らに今見えているものはおそらく、悲劇の全容からしたらほんの表層にすぎないのだろう。
悲しいことだが、魔族軍が攻めてきてから現在までにも季節は巡り、一冬越している。
この様子では凍死した者も餓死した者もいただろう。衛生状態からして疫病が発生したかもしれない。先ほど死体が転がっていたが、アレが最初の一人であるはずがない。
親戚や友人などのアテがあった者もいただろう。上手く働き口を見つけた者もいるだろう。だがそういった幸運が祝福したのは一握りのはずだ。
ここで朽ちるように疲弊している者たちは、見知らぬ地でどうすることもできなかった多数の生き残り。
さらに言えば……―――
「リッドさん、その……道に座り込んでいる方に、お金を少し置いていってもいいでしょうか?」
背中にかけられたレティリエの声は、懇願に近かった。
立ち止まって振り向く。黒髪の少女は眉を下げてこちらを上目遣いに見ていた。
彼女の隣を見ると、ネルフィリアはその意見に賛成のようで、何度も頷きながらこっちに期待した目を向けている。
「……他の里に逃がした同胞を思い出すわ」
ぽつりと響いたミルクスのつぶやきに、モーヴォンまで目をそらした。このエルフの双子はまさしく、故郷を魔族に滅ぼされている。同情するのも無理はないか。
「まあ、ナーシェランは結構な金額を用意してくれたしな。好きにするといい」
僕がそう答えると、ネルフィリアの顔が喜色に輝き、他の三人が意外そうな表情で驚く。
……なんだ、僕はそんなに血の通わない人間だと思われているのか? あぶく銭だし惜しむこともあるまいに。
「それで、誰に渡すんだ?」
その質問に、四人が固まった。
僕は視線を巡らせる。通りには多くの人々が生気の無い目で、旅人である僕らを見ていた。
「手持ちには限りがある。とてもじゃないが全員には配れない。小さな赤子を抱えた母親か? 右腕を怪我した中年男か? 歩くこともできなさそうな老人か? まだ動けそうな若者の方が、まだ無駄になる可能性は低いかもな」
僕は問う。
本当にただ、問うた。
「君たちはいったい、誰を選ぶんだ?」
四人は僕を見ていた。僕は四人を見ていた。
だから、僕には分かった。
「…………」
問いかけに答えられず黙っている四人を尻目に、無言で動いた。面倒で仕方なかったが、やらねばならないことだった。
「あ……」
レティリエの肩に手の甲で触れてどけた。残念なことに、その目に映る感情の色は見逃さなかった。
ミルクスとモーヴォンが間抜けに目だけで僕を追う。森ならば姉の方は気づいただろうか? あるいは、気づきはしても気にかけてはいなかったのか。
「師匠……?」
目の前まで来てやっと、ネルフィリアが不思議そうな顔で僕を呼んだ。それを無視して、彼女へさらに半歩距離を詰める。
そして―――右足を上げて、靴底で思いっきり蹴りつける。
「ぎゃっ!」
小さな悲鳴が上がり、地面に倒れたのは……まだ十にも満たないほどの、子供だった。
「な……なにをするんですか、こんな小さな子供に!」
最初に声を上げたのは、一番近くにいたネルフィリアだ。衣服が汚れるのもかまわず地面に膝をついて、倒れた子供……顔が泥で汚れていてわかりにくいが、多分男の子……をかばうように抱える。
「リッド、説明しなさい」
「ゲイルズさん、いまのは……」
ミルクスがきつい口調で詰問してきて、モーヴォンが僕の意図を測りかねて眉をひそめる。
……まあ、悪者になるよなそりゃ。面倒くさい。
「その子供がネルフィリアに後ろから近づいて、肩から提げた荷物を引ったくろうとしていたんだ」
簡潔に説明すると、三人が息をのんで子供を見る。
注目された男の子はネルフィリアの腕の中で、反論もできず口ごもった。
僕が見たのは、狭い道でもないのに不自然に近づいてくる子供の姿だった。
盗みに慣れていないのか目はネルフィリアの鞄に釘付けで、緊張した悲壮な顔をしていたから分かりやすくて、いっそプロだったら気づかずにすんだのにと舌打ちしたくなったものだ。
「よくある話だ。生活に困窮すれば人心は荒ぶ。年端もいかない子供だって物取りになる。この一行は見た目若くて弱そうだから、目を付けられるのも当然だな。ああネルフィリア、肩掛け鞄は帯の上に上着を着ておけ」
旅慣れない弟子に指示すると、善意での忠告にもかかわらず彼女は反抗的な目を向けてくる。
「だからって蹴る必要はなかったでしょう」
厳しい口調。憤慨している声だ。自分の鞄を盗もうとした子供を本気でかばい、僕を叱責している。
それは彼女の純粋さだろう。あるいは美しさかもしれない。
けれど僕にとってその声は、妙に遠くで響いているように感じた。怒りを宿した瞳を向けられて、心の奥の棘が冷えていく。
……多分だけれど、この遠さは落差なのだろう。彼女が善なら、僕は悪だ。彼女は高みから物を言っていて、小悪党である僕は地べたに頭を擦りつけるような目線で口を開いている。
「罪を犯せば罰を受けるのが当然だろう」
簡単な理屈だ。誰もが知っていることだ。だから、やらねばならないことをしただけ。
しかもそれすらずいぶん軽い処置だ。この世界の盗難の罪は重い。この子を衛兵に突き出した場合、鞭打ちの刑で済めばいい方だろう。
ただ―――僕のその認識は、きっとこの四人とは共有できないだろうことも、分かっていた。
「子供ですよ?」
「そうだな」
「こんなに痩せてて、飢えてるでしょうに!」
「そのようだ」
「かわいそうだと思わないんですかっ?」
「情状酌量の余地はある」
ネルフィリアの訴えに、僕は相づちを打っていく。見れば分かることだし、僕だって子供に対する情くらいはあるから、これ以上痛めつけるつもりはない。未遂だしな。
けれど、これはケジメの話だ。必ず通過するべき儀式のようなもの。
「生きるために仕方なく罪を犯さなければならないことはある。けれど、だから罪を犯してもいい、ということはない」
罪は慣れる。何度もやれば罪悪感が鈍る。
待つのは緩慢な心の汚濁だ。一つ慣れれば、別の罪科にも手を出すだろう。
他ならぬ僕の前世が、そうだった。
「……私は、この少年を咎めません。他に生きるすべを持たないのなら、彼は罪人かもしれませんが、悪人だとは思いません」
「情の入れすぎだ。他の生き方を知らないなんて、どうして分かる」
「見れば分かるでしょう!」
ついにネルフィリアは叫んだ。僕はやれやれと肩をすくめる。
この件で僕らは分かり合えないだろう。それはいい。術士の師弟として擦り合わせなければならない価値観でもない。
ただ、これだけは聞いておこうか。
「君は本来、裁く側の人間であるはずだが?」
神聖王国の、王女の顔が歪む。
王族であるなら、時にそういう立場になりうる。そのための知識だって彼女にはあるはずだ。
裁量は公平でなくてはならず、どんな理由であれ罪人は罪科に応じて罰されねばならない。―――その判断の責任を負ったことはなくとも、その重みと理念は知っている。
であるなら僕の言葉に納得はできなくとも、理解はできるだろう。そのうえで、はたして彼女がどう判断するか。
興味本位ではあるが、聞く価値はある。
「…………」
少女が次の言葉に逡巡したのが見て取れた。けれど反抗的な目は変わらず、やがて僕に挑むように問い返してくる。
「罪を許すことは、悪ですか?」
……それは。
「私は……この子が何をしようとしたのか見ていませんし、事実として何も盗られていません。訴えるべき罪に心当たりがありません」
先の問いに対して僕が答えあぐねていると、その沈黙をどうとらえたのか、ネルフィリアは僕から目をそらすように男の子を抱き寄せる。―――なるほど。たしかに物的証拠はなくて、彼の盗難未遂は僕の証言のみ。
これはやられたな。被害者が起訴しないのなら、僕が一方的に暴力を振るっただけとなる。非はこちらにあるだろう。
「レティリエ、それでいいか?」
ずっと黙っている黒髪の少女に確認する。彼女はしばらく俯いて口を引き結んでいたが、やがて頷いた。そうか。
レティリエは気づいていたはずだ。動かなかったのは、単に子供だったから油断して反応が遅れただけだろう。……まったく、凶器とか持っていたらどうするんだ。
「分かった。……悪かったな、少年。推定無罪だ。怪我はないか?」
僕が男の子にそう聞くと、怯えた様子で首を縦に振る。……まあ足の面で押すように蹴ったから、派手に転びはしたが酷い怪我はしていないだろう。
僕は頷いて背嚢を下ろすと、中から保存食の余りを取り出して渡した。……金だと最悪、今度は彼が襲われるかもしれない。
「蹴ったのは悪かった。少ないが食料で勘弁してくれ」
そう謝ると、男の子はじっと手の内の保存食を見つめてから、ネルフィリアの手を振りほどいて何も言わず小走りで逃げて行った。うん、あれなら大丈夫そうだ。
「……師匠は、賄賂は良くて、盗みはダメなんですね」
批難するような弟子の声。……純粋だな。産まれたばかりでもひねくれ曲がっていたもう一人の僕に爪の垢を飲ませてやりたい。
「いや、賄賂もダメだが?」
僕がそう言ってやると、彼女は端正な顔を歪めて絶句した後、振り払うように首を横に振って呟く。
「意味が分かりません」
「そうだな。そうなんだろう。……少し歩こうか。もしかしたら、君が見るべきものがあるかもしれない」
そう言って、僕は彼女の返答を聞かずに歩き出した。
四人ともすぐにはついてこなかったが、エルフ姉弟が早足で追いついて、やがて怒りにまかせた足取りのネルフィリアと、彼女を守るようにレティリエが追ってくる。
僕は耳を澄ませて石畳を鳴らすその足音を聞いていた。そしてその足音以外のものが聞こえはじめて、苦い想いで下唇を噛み締めた。
「世界は少なからず理不尽でできている」
目抜き通りに出て立ち止まり、僕はネルフィリアに向けてそう言った。
たくさんの人々がいた。芸術の国らしく色とりどりの服が眩しくて、客寄せの声や子供の笑い声や個別に聞き取れない雑談の群れがなす喧噪があって、道行く人の多くが笑っていた。
「だからまあ、どこかで折り合いはつけるべきだ」
この光景をおぞましいと感じるほど、僕は純粋ではなくて。
少しだけ、立ち尽くす四人が羨ましかった。




