ウルグラへの道程
レティリエとネルフィリア。神聖王国にとって最重要人物であるこの二人がいる状況で、フロヴェルス軍の駐屯する町に寄りつけば……面倒なことになるだろう。
できれば国境を越えるまで町に近づきたくない。だから、保存食を用意してくれていたのは助かった。
「ミルクスさんが十分な量の食材を確保してくれましたので。魔族の襲撃で逃げる可能性もありましたし、備えはするべきだ、と思って用意しました」
国境までの道のりを歩きながらそう微笑む黒髪の少女は、少し物憂げだ。理由は……まあ、聞かなくとも分かる。
「ネルフィリアの弟子入りに反対なのか?」
前を歩く三人を見ながら、僕はそう聞いてみる。一番前をミルクスとモーヴォン、その次にネルフィリアで、後尾を僕とレティリエ。
見通しのいい街道で奇襲の心配がないためか、ミルクスとモーヴォンはおしゃべりしながら歩いているが……まだ二日目だというのに、ネルフィリアは早くもお疲れ気味だ。長距離を歩くことに慣れてないんだろうな。
国境の町からは馬車の旅にするつもりだが、あと一日くらいは歩きだ。最悪、レティリエにおぶってもらうことになるかもしれない。
「弟子入りは反対……なのだと思います」
「歯切れが悪いな」
改めてレティリエを見ると、その表情には困惑の色が濃く見受けられる。彼女自身もどう受け止めたらいいのか分からないのかもしれない。
「姫さまが魔術を学ぶのはいいのです。反対の理由はありません。ただ……リッドさんに弟子入りというのは、その……ご迷惑ではありませんか?」
なんだ、そんなことを気に病んでたのか。
「初級でも魔術が使えるなら、僕にとっては十分助手として有用だ。そういう点では、迷惑というほどではない。……問題は何を教えるかで、そこが頭を悩ませるところなんだが……むぅ」
呻ったのは、その先を言うべきかどうか躊躇したからだ。
王女様相手にかなり不敬な話だからなこれ。それをレティリエがどう解釈するか、少し怖い。
「師匠が弟子をとる理由は、四つある。ネルフィリアには三つしか教えなかったが……一つ、自分の術を継がせる。二つ、弟子が名を上げることで師の名も上がる。三つ、助手や小間使いとして使う。そして―――四つ、実験台にする、だ」
「じっけっ……!」
驚きに声を上げるレティリエ。まあそんな反応するよなぁ。
「別に薬品投与でマウス代わりにするって意味じゃないさ。いや、そういうことをしてる導師の存在は否定しないが。……魔術師なら誰もが考えることがある。もし自分の専攻する術の方向が、ほんの少しだけズレていたら。自分はこっちに来たが、あっちに進んでいたらどうなったのか、ってな」
魔術師ならずとも、生きていればもしもに想いを馳せることはあるだろう。そして、そういう妄想は根強く心に居座るものだ。
「もし僕が魔術師になっていたのなら」
前を行くネルフィリアの背中を見ながら、僕は静かに有り得なかったもしもに耽る。
実現しなかったこそ、手を伸ばしても掴めなかったからこそ、その輝きを諦めた挫折の味はどうしようもなく胸に残っている。
「どうせ僕は魔術なんて満足に教えられないんだ。なら、僕が魔術でやりたかったことをやらせる、とかな。そういうことをしていいなら、おもしろい実験台ではある」
「……意外と楽しんでいますか?」
「かもな」
思えば―――セピア・アノレ師匠は誰にも術を継がせる気はなかったし、すでに十分な名声を得ていた。弟子に仕事を振ることはたまにあったが、基本は放任主義だ。
きっと、師匠は僕らの成長を面白がっていた。各々のやりかたで特化していく偏った才能たちを眺め、無責任に酒の肴にでもしていたのだろう。
それは実験に近かったはずだ。あの紙一重たちがどこまで行けるか、果たして己の予知を超えられるのか、期待しながら放置していた。
アノレ教室とはそういう場所だ。最初からマトモに育てる気はない。そして、マトモなだけの術士など最初から用はない。
だから僕の弟子を名乗るネルフィリアは―――
「ナーシェランさまは、リッドさんに責任が派生する報酬を押しつけたがっていました」
レティリエの視線もネルフィリアの背中に注がれている。今の僕たちにとって彼女は渦の中心のようなものだ。
「ネルフィリアを弟子とすることが、僕を繋ぐ鎖になる、と?」
「はい。だからナーシェランさまはあんなにも簡単に許可したのだと思います」
すべて終わったらフロヴェルスに行く。ナーシェランとはそんな約束を交わしたはずだが、レティリエの推察どおりならそれだけじゃ不安らしい。
信用してくれないとか酷い話だ。心が傷つくね。術士相手に口約束とか鼻で笑うけどさ。
「別に問題ないさ。フロヴェルスに引っ越しするだけの話だろ?」
「ルトゥオメレンはいいのですか?」
「帰りたくないわけじゃないけどな。ま、いいだろ」
「軽いですね……」
ナーシェランがあそこまで譲歩するからには、もっとご大層な裏があると思っていた。が、僕の身柄程度であれば大した問題はないからな。熨斗を付けてフロヴェルスにくれてやればいい。
レティリエを殺そうとした国という点だけは腹立たしいが……彼女自身は故郷を憎んでいないし、ならば戻りたいだろう。僕が引っ越すことで彼女が故郷の土をまた踏めるのであれば、何も迷うことはないと思う。
「では、あの報酬を受け取るのも問題はないのでしょうか?」
「ああ……地位、名誉、富、領地、爵位だったっけ。フロヴェルスに永住する決意を固めるにしても、正直そんなの僕には……」
「姫さまとの婚姻の話です」
そっちの話か。
「リッドさんはあの話を聞いて、どう思ったのですか?」
隣を歩く黒髪の少女を横目で見れば、彼女は前を歩くお姫様の背中のみを見つめていて。
ああこれは、王女様のことを本気で心配しているんだろうな。
「頭おかしいんじゃねぇのかこのバカ王子、って思った」
「…………リッドさんはそういう方でしたね」
まあ、意外と考えた末の提案と理解して王子の評価は戻ったがな。けど、いくら何でもアレはない。
「縛り付けたいにしろ、僕に王女様はもったいなさすぎるだろうさ。というか、もしまかり間違って本気で結婚なんてしたら大変だぞ。是が非でも王族の夫にふさわしい振る舞いを要求されるに決まってる。間違いなく胃に穴が空くだろそんなん。あえて比較するなら、まだエスト選んで監視係してた方がマシだ」
「いえ、あの方も王族ですから、その点では変わらないかと」
そっかじゃあやっぱエストはねぇな。最初っから論外だけど。
「……というか、やはり気づいていないんですね」
ぽそりと漏れた独り言のようなそれは、横目で僕を見ながら。
なんだその目。……疑るような、叱責されるような。
「何を?」
「教えません」
主語を聞こうとしてきっぱり断絶された。その上でため息まで吐かれたのだけど……何だ? 何を呆れられてる?
レティリエには分かって僕には分かっていない何らかの見落としがあったのか? であるなら、それはいったい……。
「それでは……その……オルエン家との縁談の話は、どう思いましたか?」
思考はそんな、遠慮がちにされた質問に遮られる。
消え入りそうな声だった。きっとすさまじく気力を要したのだろう。オルエンはレティリエの家名だからさもありなんだ。
はたして、どんな表情をして言っているのか。目が合えば気恥ずかしさで赤面しそうなので、目を向けられなかった。
だから顔を向けぬまま、答える。
「やっぱり貴族だったんだな、と思って……―――」
あのとき、僕はどう思ったのか。
「―――それから、なんで教えてくれなかったんだろう、って思ったな」
少女が息をのんだのが分かった。
責めたつもりはなかった。育ちの良さを見てなんとなく察していたし、それがなかったとしても歴史と由緒ある神聖王国の王女の侍女なんて、まず間違いなく貴族の子女だろう。
なので驚かなかったし、そのこと自体は腑に落ちただけだ。
「……すみません」
謝られても困るんだが。
「単純に疑問に思っただけだよ。……ただまあ、君はあまり過去を語らないから、少しでも知れて嬉しくはあった」
「…………」
黙ってしまった。―――もしかして地雷だったか?
過去に何か悲惨なことがあって語りたくない、とかだったらどうしよう。土下座した方がいいかもしれない。
「わたしは、つまらない人間なのです」
そよ風にも負けそうな声だった。懺悔にも似ているように聞こえた。
「普通に生きて、それに満足していて、そして間違って勇者になってしまっただけの小娘です」
少女は長い黒髪に手を添え、空を見上げる。
「それを痛感したのは、フロヴェルスという国を離れてからでした。この旅を初めてから、出会った人はみんな凄い方ばかりで。自分が見ていた世界は本当に一欠片でしかなかったのだと思い知りました。……世の中にはこんなに凄い人たちがたくさんいるのだと、そんなことも知らず勇者になってしまった自分が恥ずかしくなるほどで」
レティリエにならって、僕も空を見上げてみる。思い浮かぶのは今まで関係してきた人々の顔だ。
ルトゥオメレンで結成された遺跡探索隊の面々。
バハンで遭遇したタチの悪い冗談のような顔ぶれ。
ターレウィム森林では伝説そのものと魔王に出会い、同行することになったエルフの双子は若くして驚嘆すべき実力を手にしている。
チェリエカで会った者たちだって大概だ。あいつら全員、僕らをワケありと察した上で受け入れたお人好しだった。別に勝負などしてはいないが……僕らはあの町で、誰にも勝てていない気がする。
いろんな出会いがあった。浮かぶ顔のどいつもこいつも、舌を巻くような手合いばかりだ。レティリエの言いたいことはよく分かる。
彼らに比べれば自分なんて、なんて矮小で語る価値のない……―――
「特にリッドさんなんて凄すぎて、眩しいくらいで」
振り向けばそこには、それこそ眩しいほどの微笑みがあった。
「やめてくれ。世辞を真に受けるほど純粋じゃない」
「そうおっしゃると思いました」
レティリエはクスクスと笑ってから、ふと遠い目をする。
「ルトゥオメレンより、フロヴェルスの方が歴史があるからでしょうか。平民の方は、階級に厳しい意識を持つ傾向にあります」
きっとそれは、彼女にとっての傷だった。
「子供の頃、友達ができました。とても仲良くなって、毎日のように日が暮れるまで遊んでいました」
語り口は重い。もはや治ってはいても、古傷は何かの拍子に疼いて痛む。
そんな傷を開いて、中身を引きずり出して、彼女は己の過去を僕に晒す。
「けれど家の用事でしばらく王都へ行って、戻って久しぶりに会ったら、貴族への敬礼と敬語で迎えられました」
貴族と平民の間には明確に壁があり、それを壊すことはどちらからでも難しい。生物学上は何も変わらない人間なのに。
大人になってからならともかく、無邪気な子供時代にそんな壁を認識してしまったら、軽いトラウマくらいにはなるだろう。
だから貴族であることを隠していたのか。
「つまらなくて、下らなくて、どうでもいい話でしょう? わざわざ言う必要もないほどに」
それは彼女の言うとおり、ありふれた話なのだろうが。
「いいや、聞かせてくれて嬉しかったよ」
自分でも驚くほどするりと、本心からの感想が素直に口から漏れた。
「リッドさん」
僕の名前を呼んで、少女は立ち止まった。少し驚いて僕も歩くのをやめ振り向くと、彼女は真剣な顔と声で。
「わたし、今は貴族ではなく勇者としてここにいますから。だから……敬語なんて使わないでくださいね」
……それはまあ、今更君に遠慮なんてする気は無いが。
「貴族より勇者の方が偉くないか?」
そう言ってやると少女はむぅと眉根を寄せ、口元に親指を当てて考え込む。
けれどすぐにそれは解かれて―――少しだけ、悪戯っぽい笑顔に変わったのだ。
「でも、勇者の仲間であれば同格では?」
……まいったな。これはちょっと、一本取られたかもしれない。
この世界の夜は暗い。月がよほど満ちていなければ、伸ばした手の先すら見ることができない。
だから野営は早めに準備する。本格的に暗くなってからでは遅い。まだ明るい内に安全な場所を見つけて乾いた薪を拾い、獣除けに火をおこさなければならない。
歩きの旅は日が昇る時間に出発し、日が落ちる前に休むのが定石だ。
小さめの鍋に水を入れ、乾燥させた薬草を数種類放り込んでから、沸騰させない程度に煮込んでいく。薬効成分と魔素を抽出するためだが、煮立たせれば魔素が抜けてしまう。
ゆっくりじっくり、焦らず作るのが肝要だ。
火の番をしながら他の薬草をすりつぶし、目の細かい布で果物の果汁を搾り、花の蜜を溶かして混ぜ合わせる。
僕が錬金術師としての知識を身につける途上で驚いたのが、薬草なんて道ばたでも探せば結構生えている、という事実だ。さすがに効能の強さはまちまちだが、調べてみればその辺の雑草だって意外な薬効があったりする。道すがら集めただけのものでも、正しく調合すれば十分な効果が期待できるのだ。……これ、もしかしたら前世の世界でもけっこうあるあるだったかもな。
とはいえ、さすがに欲しいものが必要なだけ採取できるわけではない。元々の手持ちと旅中で集めたモノを頭でしっかり把握し、足りない素材は代用品を用意し、この場にない機材の工程は手間と工夫で乗り越え、本来のレシピをアレンジしつつ成分調整する。
そうして現状でできる最大効果の調合を模索していくのには……もう、大分慣れてきた。
「ゲイルズさんは、一人で何を作っているんですか?」
そう声をかけてきたのはモーヴォンだった。胡乱げな目で、僕が広げた調合素材を眺めている。
携帯保存食とスープの簡素な食事も終わり、もう後は明日に備えて休むべきなのだ。が、今日はネルフィリアの体力消耗を考慮し早めに野営の準備を始めたため、時間的には日が落ちたばかり。
空はもう暗いが、就寝には早い時間だ。たき火の向こうでは三人娘が仲良くおしゃべりしているくらいである。時折こちらをチラチラ見てくるので、悪口でも言われているのかとビクビクするね。
「大した物じゃない。ただの滋養強壮の疲労回復薬だ。明日の朝、ネルフィリアに飲ませようと思ってね」
問いに答えながら煮詰めた薬草の煮汁を容器に注ぎ、先ほど別に作っていた溶液と混ぜ合わせる。
僕も最近は疲れない歩き方ができるようになってきたのか、この薬の世話にならなくても結構移動できるようになった。だが旅慣れないネルフィリアはそろそろ限界だろう。
彼女の華奢な身体からして多分、研究室にこもりきりだったころの僕より体力がないだろうし。
「こんな場所で、専用の道具も無しにあり合わせの材料で? 雑なのでは?」
「そうだな。だがまあ、それなりのは作れるさ」
濃いめに淹れた食後のお茶の残りに砂糖を大目に溶かし、それも混ぜ合わせる。このお茶は僕のリクエストでカフェインが含まれているし、糖分には疲れをとる効果がある。栄養ドリンクってカフェインの入ったカロリーだよな。
「……なぜ弟子入りを許可したんですか?」
詰問口調が強くなったな。どうやら本題か。
「お姫様が気になるか? 美人だもんな」
からかってやると、少年は不機嫌をあからさまに隠さなくなる。こういうところはやっぱまだ子供だな。
実年齢はナーシェランと変わらないはずだけど。
「魔術を使えないくせに、魔術師の弟子をとるなんて何を考えているのかと」
「そんなに変か? 僕の師匠の専門は占星術だが、弟子の専攻分野は多岐にわたるぞ」
「舐めてるんですか、魔術」
ふむ。
瞼を伏せての問いかけに、僕は調合の手を一旦止めた。
魔術を舐めているのか。そんなことを聞かれたことはなかったし、聞かれることがあるとも思っていなかった。学院では錬金術なんてみそっかす扱いだったしな。
新鮮な問いかけだ。思わず自問してしまう。
僕ははたして、魔術を軽んじているのか。
「魔術の行使に危険が伴うことは知っている。その主な理由は分不相応に高度な魔術への挑戦と、魔力の過剰消費による心身への負担だ。これは注意すれば問題ないだろう」
「教えられるのか、と聞いているんです」
むぅ。そっちか。
「できるさ」
魔術とは技術であり学問だ。いくら魔力の扱いに長けていても、魔術式に疎ければ高度な術は使えない。そして魔術式なら、魔力を扱えなくても知識として教えることができる。
実際、技量はたいしたことは無いが知識はある、なんて導師も学院にはけっこういたし、むしろそういう講師の方が人気は高かった記憶がある。技量の高い術士はだいたい高慢だからな。
「それが舐めているって言っているんですよ」
「君はエルフだからな」
こちらを睨むモーヴォンを尻目に、僕は調合を再開する。
「魔素に愛されている君らは、魔術において理屈を重視しない。感覚で魔力を扱えてしまうからだ。だからこそ深奥に手が届く面もあるのだろうが、逆に非才な者へ習得させるテキストは持たない」
「当然でしょう。才の無い者が魔術を習得しても、大した術は使えません」
「だからエルフ以外にエルフ魔術が流行らないんだ」
まず森の世話を二十年、だったか。先日モーヴォンが言っていた修行法だが、魔素に親和性が高く寿命の長いエルフだからこそ、という感じだ。これでは他種族が習得するのは難しい。
「サリストゥーヴェがエルフ魔術を体系化したのは偉大な功績だ。が、残念ながらエルフたちの魔術はそこから一歩も進んでいない。才能と寿命にあぐらをかき、他の種族には使えないという希少性をありがたがった結果、何百年も変化せず時代遅れになった」
若葉色の髪の少年を中心に視覚情報が歪曲した。空気が物理的に重くなり、ぐっと濃くなる。渦巻き擦れ軋む魔力が、何の術式もなく小さな紫電を発生させた。
呪文も発さず、身じろぎの一つもせずに、ただの感情だけで周囲のマナを掌握しているのだ。
おそらくは、僕を跡形もなく吹き飛ばせるほどの量を。
「……宣戦布告ととってよろしいですか?」
さすがエルフの天才。扱える魔力量はドロッド副学長を超えるな。
僕は調合用の瓶を置く。わざと挑発するよう、ニィ、と笑ってやった。
「いいぞ。やってみろ」
予想だにしなかったのだろうか、モーヴォンが一瞬驚愕する。
まったく、その程度のメンチで僕がひるむとでも思ったのかね。前世のゴミどもの方がよほど上手かったぞ。
それでも、少年は誇り高きエルフの魔術師だった。挑発を挑発で返されれば後に退くことはできない。
整った顔に激しい怒りを宿し、周囲の魔力を操るために呪文を発して……―――
僕は彼の目の前で、パァンッ、と思いっきり手を打ち鳴らしてやった。
「たとえワンフレーズの呪文でも、これほど近ければ手を出す方が早い。そして魔術行使を中断されると体内で魔力が暴れるため、すぐには次の魔術を使えない」
至近距離で猫だましを受けたモーヴォンは大げさにのけ反って膝を突き、ビリビリと痺れている。制御しきれなかった魔力が体内で暴走しているのだろう。
戦いに慣れた者なら致命傷を負っても魔術行使を継続するが、モーヴォンは術士として優秀でも戦士としては経験が浅い。この程度で無力化してしまうのも当然だ。
ま、これくらいはすぐに治まるさ。今のネルフィリアにやったら二日くらい寝込むだろうけど。
「魔術師を相手にするなら接近戦。こんなこと誰もが知っているだろうに、この距離でケンカ売るとはな。……君は僕に魔術を舐めているのかと聞いたが、君は魔術を過信しすぎではないか?」
いったい何事かとビックリしている女性陣に軽く手を振って、僕は地べたに座り直す。瓶を手に取り、調合の終わっているそれを軽く振って蓋をした。
「…………―――」
回復したモーヴォンが膝を突いたまま、悔しそうに口を開いては閉じている。何か言い返したいが、あっさりやられたせいで何を言うことができないのだろう。
かわいそうに。頭がいい上にプライドが高いから、浮かぶ言葉のすべてに自分自身でカウンターを返されているに違いない。
「……それは、完成なんですか?」
結局、彼が再び口を開いて出てきた言葉は、そんな問いだった。うなだれているところを見ると、自分の劣勢が覆らないと悟ったか。
「これか? ああ。あとは活性化した内包魔素が馴染むまでしばらく寝かせるだけだ。明日の朝には飲めるだろ」
「そうですか。見せてもらっても?」
少年が手を差し出してきたので、僕は瓶を渡してやった。
たぶん錬金術製の薬品に興味があるのだろう。
錬金術といえば魔力を伴う物作り全般を指すが、錬金術製の薬はやはり効きが違う。しかし魔素は非常にデリケートな性質を持つため難度が高く、こんな栄養ドリンクでもけっこう気をつかって作成しているのだ。
「魔力が薄いように見えますが?」
お前、もしかしてケチ付けるために見せろって言ったの? どんだけ悔しいんだよ。
「ネルフィリアの身体はまだ魔力慣れしてない一般人と変わらないからな。あんまり強く造ると鼻血が出るだろ?」
「……ああ、なるほど」
納得して頷いた少年は、瓶の中の液体を睨み付けるようにしながら……呪文を唱える。
一節。それで何の呪文か分かった。
二節。瓶の中の液体が淡く発光する。
三節。緩やかに淡い光が消え、魔術の行使が終わる。
「中の魔素を馴染ませました。もう飲めるようになったでしょう」
どうぞ、と瓶を返してくるモーヴォン。僕はそれを見ながら、今何が起こったのかを考える。
魔術を使って、液体の内包魔力に干渉した。それは分かった。だが……なぜ?
「飲んでみろ」
パチリ、と空気を含んでいたらしい木の枝がたき火の中で小さく爆ぜる。
僕はまだ思考もまとまらないまま、瓶は受け取らず、彼にそう命令していた。
「は? いえ、自分はまだ……」
「上手くできているかどうか、確かめるのも重要だ。飲んでみろ」
有無を言わさず再度命令すると、少年はむっとした顔をしつつも瓶の蓋をとり、少量を口に含む。
そして。
「ぐあっ、っか! ゲホッブハッ」
おいコラこっち向かって咽せるな。とんできたぞ汚ねぇ。
「もしかしてエルフの秘術かと思ったんだが、マジか。マジでこんな初歩を普通に失敗しただけか? 香水の魔女が薬品の調合を教えなかったはずないだろ?」
「な……なんで、こんな」
「灰汁たっぷりの野草を使ったレシピだぞ。せっかくギリギリ飲める味に仕上げたってのに、魔素反応の加速なんてさせたらえぐみが酷いことになるなんて考えて分かれ。……まったく」
涙目で嘔吐くモーヴォンから瓶を取り上げ、逆さにして中身を捨てる。液体が地面に染みこんでいく様を、少年は蒼白な表情で見つめた。
「材料を無駄にしたな、モーヴォン」
呆れて追い打ってやる。もったいないことしやがって。元日本人としてはこういうの地雷だぞ。あとでスタッフが美味しくいただきましたってテロップも入れられないくらいの失敗作じゃないか。
「や、薬効は……」
「同じだが、こんなものを僕の名前で出させる気か?」
額に手を当ててため息を吐く。なぜこんな間違いをするんだ、この若き天才魔術師さまは。
……いや、そうか。もしかして、才能がある魔術師だから、か?
「魔素に愛されすぎたな。大抵の魔術はすんなり使えるようになる君には、こんなふうにじっくり行う調薬なんてまだるっこしいんだろ?」
思い至った理由をそのまま口にすると、モーヴォンはあからさまにバツの悪そうな顔になる。分かりやすいな。
「魔術なら呪文を唱えればすぐ効果を発揮する。マナは君の味方で、友人だ。大体のことは思い通りになるだろうさ。……だから僕の作業は見ていてじれったいし、横着したくなる」
調薬のみならず、チェリエカで魔術陣を書き続けていたのも、彼にとっては有り得ない光景だったのだろう。こんな七面倒くさいことよくやるな、などと感じていたはずだ。
だってそんなことをしなくても、彼は魔術で簡単にそれを実現できるから。
才能に恵まれた者の傲慢。自分ならもっと上手くやれる近道があるはずだ、という若い勘違い。
「調合は苦手分野か?」
「……はい」
頷く少年は、悔しさで奥歯を噛み締めながら。
「なら、余計な手を出すな」
「はい……」
反論はすべて飲み込んで、自分の失敗に対する怒りに震えながら、彼はただ頷く。
エルフで見た目通りの年齢ではないとはいえ、モーヴォンは成人前だ。いかにサリストゥーヴェといえど、若き才能を伸ばすには時間が足りなかったのかもしれない。
はあ、とため息が出る。最近妙につっかかってくるが、今回は空回りも甚だしい。
初めて会ったときはこんな感じじゃなかった気がする。今の彼はどうにもらしくないように思えるのだ。
まったく……いったい僕が何をしたっていうのかね。




