魔術と治癒術
「で、できました! これ、発動していますよね、魔法!」
「ええ、成功です」
無邪気に喜ぶネルフィリアに、僕は笑顔で頷いて見せた。
これで理解できた。
僕から分かたれた竜人族のリッドは、魔術を使うことができた。
転生者の魂を抜かれて肉体の主導権を得た真ネルフィリア王女も、魔術を扱うことができる。
つまり、肉体には何の問題もない。問題があるとすれば、それは……。
思わずため息が漏れたのは、僕の落ち度だっただろう。
「あ……すみま、せん……」
隠せなかった落胆に気づいて、ネルフィリアが不安そうに声を落とす。彼女もその意味を理解したのだ。
僕はおそらく、どれだけ努力しても魔法を使えない。きっと修練でどうにかなるような縛りではない。
魔法が無かった異世界からの転生者であるが故に、魂が魔法を使える構造をしていないのだ、と考えられる。
―――けれどそれは王女の責任ではないし、確信を得られただけでも感謝しかないのだ。
「いいえ、ありがとうございます。これで僕は一歩、真理に近づけました」
お礼は心から言えたし、ちゃんと笑えた。ちょっと肩が軽くなった気までする。
たしかに落胆はしたが、すっぱり諦めることができたのだ。これは前進だ。清々しささえある。
それに、これで……例外の考察がしやすくなったからな。本当に、姫様にはいくら感謝してもしたりないくらいだ。
「それなら良いのですが……」
「本当にありがたいのです。これで見えたことは本当に大きいので。……というか個人的な願いの上、そうとうな無茶を聞いていただいたのですから、そんなふうに恐縮されてしまうと立つ瀬がありません。普通、一度で成功はしませんよこれ」
「そう……なのですか?」
「ええ。姫様には魔術の才能があるかもしれません」
仮に僕と同じ程度の修練を積んでいたとしたなら、発動はそこまで難しいことではないはずではある。が……褒めておいて損はないだろう。いろいろワケありとはいえ、一国の王女様だしな。
それに嘘ではないのだ。だって、僕よりは才能あるだろうから。
「姫さまに素質がおありにならないなんて、おかしいと思っておりました」
すっかりネルフィリア王女のメイドと化し、彼女の右斜め後ろに立つレティリエが満足そうにウンウンと頷く。姫様が褒められたことが自分のことのように嬉しいらしい。
……ところで君、勇者だよね?
「姫さまは初代勇者フィロークの末裔ですから、魔力は普通よりもかなり多いはず。さらにフロヴェルスの王族は治癒術を賜ることも多く、何人もが偉大な術士として名を残される血筋です。姫さまに才能があるのは当然かと」
「治癒術か……アレは僕、専門外なんだよな。いや魔術も専門じゃないが」
治癒術は魔術では難しいとされる怪我や病気の治療が得意で、穢れの浄化なども行える術である。現在の理論で説明しきれないその性質から、魔術とは全く別物であるという見解が一般的だ。
……もっとも、根本では同一のモノである、と主張する者たちもいるが。
「へぇ、ゲイルズさんにも分からないことがあるんですか」
含みのある言い回しをしたのはモーヴォンだ。……あ、なんかコイツ機嫌悪いな。僕が何でもかんでも知ってるだなんて、露ほども思ってないだろうに。
やっぱさっきまでの話で、僕が隠し事してることを察したんだろう。
「治癒術は魔術とは違って、学問じゃなく信仰によって習得するんだ。つまり、神様への祈りだな」
モーヴォンが唇をへの字に歪め、理解不能という顔をした。……セーレイム教は人族ならどんな種でも知っているはずだが、エルフは神より自然を尊ぶ。つい先日エルフの里を出たばかりのモーヴォンは、治癒魔術についてはあまり知らないのだろう。
エルフ魔術は感覚重視の魔術だが、それでも祈りや信仰なんかで発動しない。サリストゥーヴェが体系化したそれは、そんなワケの分からないものではないからだ。
「厳しい戒律を守り、肉体や精神を清め、徳を積み、神に祈りを捧げ続けることによって発現するのが治癒術だ。もっとも敬虔な信者なら必ずしも授かるというわけではなく、今なお謎が多い術でもあるんだが。……まあ、そういう話はいい。とにかくその習得方法の違いから、治癒術士も魔術士も同一視されるのを嫌がってな。僕が所属している魔術学院には、治癒術科なんてものは無かったのさ」
二つの術の違いと歴史は根が深い。原種から分かたれた人族が、どちらの奇跡を先に発現したか、でいがみ合うほどに。
……というか、まあ、うん。そんな昔の話じゃなくても、犬猿の仲なんだが。
「いや、ここは正確に言っておこうか。正しくは、ハルティルク魔術学院には治癒術科も元々はあった。が、治癒術士たちとケンカ別れして消滅した……とな」
「なにそれ? 何があったの?」
ミルクス、つまらなそうに頬杖ついてたのに……。
ケンカって言葉に興味をそそられたんだな。わかる。君はそういうとこある。
「治癒術の術理を学問で解体しようとしたんだ」
こめかみを揉みほぐしながら、僕は説明する。
魔術士に配慮とか尊重とかデリカシーとかを求めてはいけない。奴らはそんなものに価値を見い出さない。
「初代学長ハルティルクは勇者の仲間だった。彼は同じく勇者の仲間だった葉冠の聖女スプレヒルとの縁で、学院新設当時は教会の支援を受けていたんだ。そして、その関係で別種の魔術と言われる治癒術の専科も、創設当初から設けられた。……魔術学院として治癒術科を設けたのは画期的な試みで、教会は魔術師たちが信仰を深める場として、また教会と学院との友好の架け橋となることに期待した」
「けど、そうはならなかったのね?」
「その通りだミルクス。魔術師たちの興味は当然のように治癒術の習得ではなく、術理の解析に向いた。……つまり、治癒術が神からの賜りものである、という前提を疑ったんだ」
レティリエが露骨に眉をひそめる。ネルフィリア王女も、うわぁ、って顔になった。
信心深いフロヴェルス育ちのお二人からすれば、まあ論外だろうな。もちろん、当時の治癒術士たちにとっても同じだっただろうさ。
「一般に神から賜るものとされているが、本当のところはよく分からない、というのが魔術師の主張だった。あくまで祈祷によるトランス状態をきっかけとして、生体として最も根幹な属性である生命力の操作に目覚めるのではないか……という仮説が有力視され、だから神とか信仰とかホントは要らなくね? とか言われてたんだ。そしたら宗教家さんたち激おこだろ?」
「そうでしょうね……ええ、分かります……」
やはり人見知りさんの緊張をほぐすにはこういう小話がいいんだな。姫様、その相づちはちょっと素だろう。
彼女にとってレティリエ以外の三人は僕も含めて初対面だし、なんならレティリエとも自分の意思で話すのは初めてだ。ぎこちないのは仕方がない。
ただ……おそらく短い付き合いになるだろうが、せめて良好な関係くらいは築いておきたいものだ。
「そんなわけで、魔術師は信仰を介さない治癒術の習得に乗り出した。薬物や暗示によって意図的にトランス状態に陥った上で、様々な条件下に身を置き治癒術と同じ術が使えるようにならないか試したんだ。……結果は、芳しくなかったけどな」
「当然です。信仰心なしに神の奇跡たる治癒術を実現しようだなんて、いくらなんでもおこがましいでしょう」
バハンでもそうだったけど、レティリエって神様のことになると途端に強硬派になるんだよな……。普段おとなしいのに。
「それは当時の治癒術士たちも言ったさ。けど、魔術師たちはそうは思わなかった。彼らはね、セーレイム教の教えに目をつけたのさ。そこに術理が巧妙に練り込まれているのでは無いか、とね。そして解析は始まった。魔術師たちはセーレイム教の経典をバラバラに分解し、並べ直して繋ぎ合わせて、術式を探し出そうとした」
僕は肩をすくめて見せた。
術士は業の深い存在だ。目の前に謎があるなら解かずにはいられない。謎が無いなら見い出さずにいられない。そして解けない謎は、解けるまで許さないのである。
それは智をふりかざす傲慢だ。
「当然、そんなものは宗教への冒涜だろ? 神の教えは真っ直ぐ真摯に受け止めなきゃいけない。治癒術士はすごく怒ってケンカになって、もう出て行くって学院からいなくなった、って話だ」
「……それは、死人が出たのではありませんか?」
ああ、鋭いな、この姫様。
そこまで話すつもりは無かったが、言及されたなら仕方ない。ここからは悲しい歴史だ。
「ええ、出ましたよ。もちろん。魔術師も魔術師なら、教会も教会だ。治癒術の解体を試みた術士は神を疑った罪科で異端認定を受け、連行されて処刑されました。数は五人。主犯格のみの処断であり他は不問という形がとられましたが、それでも少なくない数が命をとられた。遺恨が残るには十分なほどに」
信心深いレティリエも、こればかりは賞賛しかねたようだった。声を失って愕然としている。
けど僕に言わせれば、それでも教会は寛大だった。
「これは悲しい勘違いから起きた悲劇です。魔術師はあくまでそれを、魔術師と治癒術士の論争と考えていた。だが治癒術士たちからしたら、魔術師はセーレイム教に仇なす不届き者だった。傲慢な魔術師は智を振りかざしたが、その相手は大陸最大の宗教組織だったってわけさ。……けれど血は流れたしケンカ別れもしましたが、それ以上酷い事態にはなりませんでしたから、必要な措置ではあったんでしょう」
その処刑がなければ、互いの仲は修復不可能になるほど険悪になったかもしれない。
実際に魔法のあるこの世界で、本当の魔女狩りが始まってもおかしくはなかったことを考えれば、五人という数字は少ないと言える。
しかし、あれだ。話が大分それた上に重くなったな。笑わせるつもりだったんだが。
……いや、よくよく考えれば、こんな話で笑えるのは術士だけか。つまり僕も術士ってことだ。
「ところでモーヴォン、元は何の話だった?」
「ゲイルズさんが治癒術は専門外、という話ですよ」
こういうとき同じ術士はありがたいな。余計な感想は後回しにしてくれる。
「そうそう、その話だった。その事件の後、資料は燃やすか教会に寄贈されて、研究は明文化で禁止されたんだよ。だから学院で治癒術を学ぶのはほぼ不可能だった。資料室にも教典ひとつなかったくらいでね。そう、本当にあれは……」
資料室に出向いた時のことを思い出し……僕は頭を抱えてテーブルに突っ伏す。
「ガチで、本気でマジで最悪に迷惑だった……」
「なんで憎悪こもってるんですか」
「僕のスライムの正式名称を言ってみろ」
モーヴォンがぽんと手を打って理解を示す。
僕の操るのはヒーリングスライム。最近はあまり本来の使い方をしていない気がするが、その主な用法は生命力の移動による治療だ。
そう、あれの根本は、治療用の人工生命なのである。
「つまり、スライムに応用しようとしたけど調べることができなかったと」
「その通りだ。まあ、最初から大して期待してなかったが」
治癒術は魔術陣を使わないし、術式を書くことも無い。護符や聖印に魔力を付与する術があるくらいだが、その詳細は不明。
まさしく未開拓の分野で、当時の術士がこぞって研究したがった気持ちが分かったくらいだ。
「まあそんなわけで、僕は治癒術については一般人と大差ない知識しか持ってない、ってことだ。ほんと、どうなってるんだろうなあの術」
「よく分かりましたよ。一応調べようとしたことも含めて」
「そうですか、治癒術については分かりませんか……」
なぜか残念そうに俯いたのはネルフィリアだ。
彼女はテーブルの上の魔術陣を眺め、もう光の消えてしまった水の小皿の縁を指でなぞる。白く細い指がモーヴォンの明かりの魔術に照らされて、なおはかなげに見える。
「……あの、ゲイルズ様」
「様呼びはできればやめていただけませんかね……」
「ですがあの場所から連れ出していただいた御恩ある方を、気安くお呼びするわけにはいきません」
「いや、呼ばれ慣れないせいでとてもむず痒くて……」
僕の要求にアッシュブロンドの少女は困ったように目を伏せて、それから顔を上げた。
「……それでは、ゲイルズ先生と呼ばせていただいてもよろしいですか?」
「先生?」
呼ばれ慣れないのは同様だが、それは敬称ではなく役職を示すものだ。たしかに様よりはマシに思えるが……。
少女はどこか、思い詰めたように。
そうして、意を決したように。
「その……もしよければ、私に魔術をお教えいただけないでしょうか?」
「魔術を、ですか」
僕は確認のために聞き返す。
フロヴェルスの王族なのに、先人が名を残す治癒術ではなく魔術を学びたい、と。彼女はそう言ったのだろうか。
「はい。以前に学んでいたので、一応完全な初心者よりは分かります……と、思います」
ちょっと自信なさげだな。
多分だけど王女様、才能が無いと分かった時点で魔術から離れただろうし、大部分は忘れても仕方ないだろうが。
もう一人のネルフィリア王女が治癒術ではなく魔術を習得しようとした理由は、なんとなく分かる。
僕らが死んだかつての世界には、魔法というものは存在しなかった。しかし概念はあって、様々な物語でそれは使用されきらめくような奇跡を起こし、人々を魅了した。
だから……仮に前ネルフィリアが元々、魔法的な何かに憧れがあった場合……治癒術は習得できないと思ったのではないか。
治癒術は信仰によって授かるものだ。あくまで主目的は神に仕えることであり、術の発現は副次的な結果に過ぎない。術を得たいがために信仰をする、というのは酷く打算的で不敬な、本末転倒の話なのである。
そう、前ネルフィリア王女が治癒術ではなく魔術を習得しようとしてのは、僕個人の見解では自然な流れだ。そして諦めて離れたのもまた、自然な成り行きである。
しかしその経験は今のネルフィリア王女も覚えていて、現に魔力を言葉にのせることができた。
「……教えるのは、まあ、かまいませんが」
待ちを選んだ以上、時間はあった。そして今は特にやれることもない。
猶予時間的にどこまで教え込めるか分からないが、魔術の修行なんてフロヴェルスに帰ってもできるのだし、続けるなら無駄にはなるまい。
才能は、ある。少なくとも並程度には。僕のように全く使えない、なんてことにはならないと断言できる。
だから問題があるとすれば、こちらの方だ。
「知っての通り、僕は魔術を使えませんからね。習うなら僕よりモーヴォンの方が適任でしょう。モーヴォン、すまないが頼め……」
「お断りします」
まだ全部言ってないんですけどっ?
「というか自分に任せると、まず二十年ほど森の世話から始まりますがよろしいので?」
「長寿種の気の長さヤベぇ……。というか、君は二十六じゃなかったか?」
「自分は半年で婆ちゃんに弟子入りさせてもらえたので」
才能! 魔法に秀でたエルフの中でも生え抜きの才能! くっそ、そういえばコイツは伝説の魔女の直弟子だったか。
というか、森の世話二十年って。それが魔術の鍛錬につながるなら、種族的な魔力との親和性が全然違うな。人間の狩人が生涯森で暮らしても、自然と魔法が使えるようになるなんて聞いたことないし。
多分彼らは、魔力の操作にはあまり理論を必要としないんだろう。頭のいい種族ではあるが、使用する魔術は感覚に依るところが大きいのかもしれない。
「となると、僕が教えるしかないか。まいったな」
「お願い……できませんか?」
そんなふうに目を潤ませて、小動物のようにこっちを見上げないでくれないかな姫様。貴女の背後にいるレティリエからの圧が凄いんだけど。子連れの母熊みたい。
「何度も言いますが、僕は魔術を使えませんからね。教えられるのは座学のみです。まあ、学院の魔術は学問ですので知識が無ければ始まりませんし、そういう意味で言うなら十分教えられるのですが」
「で、でしたらっ」
ガタッと椅子を鳴らして身を乗り出して、僕の手を縋るように握って……って、近い近い近い。手が柔らかい小さいビックリする!
「どうか、教えてくださいっ」
その様子に驚いたのは僕だけではないようで、レティリエは目をパチクリさせていたし、ミルクスも首をかしげていた。
なんだか……ちょっと不思議なほど、必死に見えたからだ。
「いいですね。自分も学院魔術の理論には興味があったところです。ご一緒に受講しても?」
「君はブレないなモーヴォン!」
「せっかくだしミルクスも聞くといいよ。ちょっとくらいはマシになるかもしれないし」
「えぇ、あたしも? 別にあたしは弓があるからいいんだけど……まあ、リッドがどんなこと教えるのかは興味あるか」
「あ、それでしたらわたしも……受けてみたいかも、です」
レティリエまで? なんだこの流れ。なんで僕の魔術講座を全員で聴く流れになってんの?
悪いけど暇だからってお手軽にお勉強してマスターできるようなもんじゃないぞ、魔術。
「はあ……まあ、いいけれど」
僕は観念して、姫様のお願いを聞くことにする。まあ他国とはいえ王族の頼みを無碍にできるような精神構造してないしな。
けれど……こればかりは断っておかないと。
「ただ、本当に何度も言いますが僕は魔術を使えません。なので教え方の幅も狭い。ぶっちゃけると、僕が所属していたアノレ教室式しかできません。それでもいいですか?」
「はいっ。ありがとうございます!」
元気いいなぁ。超嬉しそう。うーん、罪悪感が積もる。
けどまあ、アノレ教室式でいいって言質は取れたし、それなら請け負おう。……それがどういう意味かは、分かってないだろうけど。
「覚悟、してくださいね?」
ぼそりと言ったが、興奮して喜ぶ姫様にも、それを微笑ましく囲むレティリエやエルフ姉弟にも、届きはしなかった。




