故に少女は剣を振るう
僕の敵は最初から居なかったように、けれど僕の罪を突きつけて消えていった。
後に残るは囚われの姫と、魔族の青年。特殊発動したまま壁に突き刺さっている槍状のヒーリングスライム。
「いやぁ、面白いものを見せてもらいました。人間の魔術師は興味深いですね。一見して攻撃魔術ではないのに、そこまでの殺傷能力を持つとは。戦闘がからきしな学徒殿はまあ当然ですが、私とて初見で正しく防げたかどうか。さすがに勇者の仲間ともなると容赦がありませんね」
にこやかにのたまうのは褐色の美青年だ。
たしか、ルグルガンと言ったか。転生王女の信者はヒーリングスライムの槍に歩み寄り、興味深そうに指先で触れた。
そうして―――ぽつりと本音を漏らす。
「……しかし、まさか本体ではなかったとは。ここで退場するのならそれでも良かったのですが、まんまと騙されてしまいました」
さっきピクリとも動かなかった理由はそれか。こいつ、わりといい性格してやがる。
「少し残念そうじゃないか。酷いヤツだな。仲間じゃないのか?」
「協力者ですが、志を同じにするわけではありませんし。……なにより彼女、危険でしょう?」
それな。
「完全に同意するよ。なんならそっちで始末しといてくれてもいいぞ?」
「そこが悩ましいところでしてね。居たら居たで有能なんですよ、やっぱり」
宗教家は基本、排他的だ。同じ思想を持つ者、あるいは改宗の余地ある者には寛大だが、明確な異教徒には壁を作る。
同胞か、そうでないか。
その高く厚い壁は、時に命の重さすらも裁量するほどに絶対だ。
あと……僕の敵さんはあの性格だからな。どうやら姿を現したのも勝手なワガママだったようだし、働きは重宝するが事故で死ぬならそれでもいい、ってくらいの扱いを受けたところで自業自得の気がする。
「ああっと!」
不意のことだった。
ヒーリングスライムの槍を珍しそうに触っていたルグルガンが、大げさに飛び退く。……なんだ? スライムには何も命令していないし、異常も起こっていないが。
僕の疑問符に応えるように、銀髪の褐色青年は人差し指を立てる。
見れば、小さな切り傷に少量の血液が滲んでいる。
「斬られてしまいました」
「不注意にもほどがある。忠告する義理はないが気をつけろ」
あきれてしまって、息を吐いた。肩の力みが抜けた思いだ。
特殊命令したスライムはもう戻せないので使い捨てるしかなく、多少解析されるくらいは仕方ないと思って触れるのも見逃していたのだが……それで間抜けに怪我などされると馬鹿馬鹿しくなる。
「攻撃されてしまいました」
しかし。
そいつはあろうことか、さらっとそうのたまう。
にこり、と銀髪褐色の男……ルグルガンは微笑んだ。蛇のように。
「困りました。姿を現したのはこちらの落ち度ですが学徒殿の独断ですし、彼女が攻撃されるのは同情の余地なき自業自得。ですがそれに巻き込まれてしまうとなると……おお、大変に不本意ですが、己が身を守るために反撃せざるをえません」
ぬけぬけと!
「それに……魔王さまに見逃せと命令されたのは、あくまでそちらの姫君と勇者のみですからね。―――貴殿も、学徒殿と同じほどに危険なのでしょう?」
僕は新しいヒーリングスライムを掴む。
敵の標的は僕一人。宗教家としてレティリエや王女さんには手出ししないだろう。
なら、この場は逃走一択。敵の攻撃を防ぎつつ隙を見て……―――
「では死んでください」
目の前に男の顔があった。息がかかるほど近く。どうやって距離を詰めたかも分からなかった。
大きく腕を振り上げていた。魔族らしい禍々しく凶悪な爪が見えた。一つ一つが短剣のような長さと鋭さ。
声を発する暇がない。スライムが間に合わない。とっさに後ろに跳ぼうとする。そいつの速さには全然勝てないのは分かっていた。
死ぬ。
僕は知っている。人はあっさりと死ぬ。
走馬灯など見なかった。けれどゆっくり流れる景色が、噂に聞いていたそれだろうか。
視界良好、色彩明瞭で、いつもよりもずいぶんいろいろなものがはっきり見えて。
少しだけ不思議に思って。
その一閃は、ゆっくりと流れる視覚ですら、捉えることができなかった。
―――剣を速く振るには、遅く振る練習をするべきだ。
そう教えられた少女は、愚直にそれを実行した。
毎日だ。日が昇れば庭で、雨の日は部屋で、眠れない夜は屋根に上って月の動きに合わせ剣を振るった。
力不足は分かっていた。それを埋めるためにすべきことは理解していた。
けれど教わったのは、酷く酷く酷くじれったい方法だった。
ナメクジが進むよりも遅く剣を振るえたとして、どんな魔族に勝てるというのだろうか?
けれど少女はやった。
理想は果てしなく遠い場所にあったが、地道にコツコツと積み上げる方法が性に合っていたし、なにより近道に心当たりがなかった。
逃げたくなくて、逃げていたのだと思う。
剣は重い。まずそれを理解した。勇者の力を使わなければ、たった一度振るだけで腕が上がらなくなった。
それでも回数をこなしたくて、ズルのように感じながら勇者の力を使った。魔力をゆっくりと制御するのが、どれほど難しいかを痛感した。実際に制御できなかったところが涙目になるほど痛んだ。
剣を振った翌日、朝起きると体中が筋肉痛と疲労を訴えた。魔力消耗による倦怠感も合わさって酷い状態だった。脂汗を流し歯を食いしばりながら、痛む場所がどうして痛むのか考えながら剣をゆっくり振るった。
勇者になどなりたくはなかった。自分がなると思ったことすらなかった。
この修練は、身体の動きの流れを掴むためのものだと、兵士は言う。
つま先から足首。膝。腰の回転。体幹はすべての軸だからしっかりとし、腕は余計な力を入れず身体の流れを剣に伝えるように。
ゆっくりと動けば、身体の声に耳を傾けて、一つずつ一つずつ理解していける。
それは、けれど半分だ。―――そう、少女は理解に達す。
勇者の力はズルのように感じながら使っていたが、違った。勇者の力も込みで自分の力なのだ。使いこなすべきであるのだ、と。
今まで、剣とそれを振る腕には魔力をのせていた。けれど、すべての動きに魔力をのせることにした。
いきなり普通の速度でそれをやろうとすれば、身体は流れる魔力に耐えられないだろう。肉の筋一つ一つに魔力を馴染ませながら、動きと魔力の流れを同調させていく。それをやろうと思えば……ナメクジよりもさらに鈍くしか動けなかった。
毎日ヘトヘトになるまで剣を振っていれば、余計なことを考えなくていい。
疲労と魔力切れで何度も発作を起こした。そのたびにエルフ姉弟に世話をかけた。そしてそのたびに、彼には秘密にするよう頼んだ。
負い目があったのだと思う。逃げていたから。
訓練に逃げ、自分は進んでいると自分で慰め、遙かな先にある敵から目を背けている。
自分は、あの魔王に勝てるか?
無理だとは思う。少なくとも勝てる気はしない。実際にまるで通用しなかった。
そんな弱気から逃げたくて、頭から追い出すように剣を振るっていた。血豆だらけの手の感覚がなくなるまで、毎日。
いつ頃からだろうか。なんでだろうか。
自問して、そのたびにいろいろな理由が浮かんだ。
遺跡で渡された剣の重み。山脈で頬を叩いた手のひらの痛み。森林で初めて助けを求められた時の、心臓の鼓動。チェリエカの町で出会った幸福であるべき人たち。
様々なことを思い出した。
なりたくなんてなかったはずだ。自分がなるなんて夢にも思わなかったはずだ。
一度は死を受け入れて、手放そうとしたほどだ。
けれど、今はもう。
―――勇者であることから、逃げたくなくなかった。
その一閃は、ゆっくりと流れる視覚ですら捉えることができなかった。
ルグルガンの腕が斬り飛ばされたという結果があって、やっと僕は何が起こったか理解したほどだ。
それをやった者は僕をかばうように立ち、剣を構えていた。
凜とした姿勢で、油断なく敵を向いて。
本物の、勇者のように。




