信者と学徒
サァ、と。脳内で草原に爽やかな風が吹く。背の高い草たちが波うつ。
青い空には白い雲とまぶしい太陽があって、高くを鳶が鳴きながら飛んでいた。
間抜けな爽快感が首筋を吹き抜けていく。タンポポの綿毛が柔らかな輪舞を踊る。穴蔵から出てきた背高帽の兎が、二足歩行でヨチヨチ駆けていく。
世界は広く。
なんとも度しがたい。
「新たな……魔王?」
耳を疑いながらなのだろう。呟くように、レティリエが聞いた。それで僕も現実に引き戻された。
そう、魔王だ。新しい魔王の話だ。今はそういう話のはずだった。
酷い―――あまりにも酷い世迷い言。
囚われの王女様を、新たな魔王にしただなんて。
「それについては、私がお答えしましょう」
己の胸に手を当てニコニコしながらそう応えたのは、褐色肌に銀髪の青年だった。
「まずは自己紹介を。私の名はルグルガン、新しい魔王さまの補佐のような立場とお覚えいただければ幸いです」
聞いてもいないのに、彼は名乗る。
ルグルガン。聞いたことの無い名前だが、人族らしくない響き。人の良さそうな笑みを浮かべているが、僕でも感じる圧はターレウィム森林で相対した魔王のそれにも匹敵するのではないか。
実際にどれほどの力量かは分からないが、まず間違いなく上級魔族だろう。そんな強い魔族が、新しい魔王さま、と敬称をつけた事実が苦々しい。
「元王女にして、新しい魔王さま……ネルフィリアさまは、捕虜という立場で前魔王に連れてこられ、ここに監禁されていました。このロムタヒマという都を占拠してすぐのことです」
男は蕩々と、懐かしむように語り始める。
ネルフィリア。それは確かにフロヴェルスの第三王女の名に違いない。
「実のところ当時の私にとって、それはあくまで前魔王の気まぐれの行為であって、さしたる意味を感じていなかった。前魔王は確かに魔族の導き手として一角の存在ではありましたが、奔放な自由人でしたので突飛な行動をなさることも多かったものですから。ああ、またか。とその時はそう思うくらいでしたとも」
魔王……今は前魔王か。アイツ、部下にもそんな感じの目で見られてたんだな。
まあ椅子に座ってじっとしてるようなタイプじゃないか。
「ですが思いがけないことに、私はすぐにあの御方に頼ることとなりました。ええ、はい。もしかしたら道中で目にしたかもしれませんね。人族の統治です」
王女の石像に群がり祈る、生き残りたちを思い出す。
神か何かのように崇められるその光景は、異様にすら見えた。
「私の血族は前魔王に、この都の人族の管理を任されていたのです。が、そんな経験はもちろんありません。人族というのはとても脆いですが、しかし侮れば痛い目を見る毒虫。正直なところどう扱っていいのかさっぱりでして。捕虜に助言を求めるのもどうかと思ったのですが……さすがは人族の王族。こちらが舌を巻くほどの知恵を披露されまして、気づけば頼り切りになっていました」
……そう、順序立てて説明されれば納得できなくはない。人間の集団の管理なんて魔族にできるはずないからな。
とりあえず、王女さんが魔族の中で重要な立ち位置を確保した経緯は分かった。
けど、それからどうして魔王になんて頭のおかしい事態につながるんだ?
「そうして助言をもらっているうちに、私はあの御方の英知に惹かれるようになりました。……いえ、正しくは私たちは、でしょうか。最初にここに入り浸るようになったのは私の弟でしたので」
銀髪の魔族は上機嫌に語る。
「―――あの御方は、多くを。本当に多くの素晴らしい知識をお持ちでした。そして、あの御方はそれを惜しむこと無く魔族の私たちに語り聞かせてくれた。それを拝聴させていただくことが私の密かな楽しみとなるのに、時間はかかりませんでしたとも」
僕は彼の様子に違和感を感じていた。
いや、違和感というよりも、もっと奇妙な感覚だ。何かうっすらと察してきたような気がする。
なんか……こう。あれ? もしかしてコイツあれじゃない? 的な。
ちょっとドン引き一歩手前、的な。
あの石像に群がる信者に通じるものを感じる、というか。
「特に、神についての話は興味深かった」
その目はどう見ても陶酔するようで。その声はどう聞いても崇拝者のそれで。
神について、とか言い出して。
「神と言っても、私たち魔族ばかりをないがしろにするソレではありません。あの御方が語ったのはもっと大きく、残酷なまでに等しい神」
魔族は口にする。
「人族も魔族も一緒くたに、いつの間にか生していた苔ぐらいの存在としか認識していない、古く強きおぞましい者たち」
そんな、世迷い言を。
そういえば、と思い出す。ターレウィム森林で魔王は、魔族相手に勉強会を開いているとかなんとか、言っていた。
いあいあ、とか、ふたぐん、とか言っているとも言っていた。
頭痛がする。目眩までしだす。
それは邪教だった。確かそうだったはずだ。
僕でも少しは知っているくらいには有名なその神々は、僕の前世の世界において、最初から邪神として形作られたモノ。
「―――ああ、なんと喜ばしいことか。私は直感しました。この世界の真なる神は、そういうモノであるのだと! 私たちは忌み子ではないのです。私たち魔族は無価値だから神に祝福されず魔界に押しやられたのではない。神の失敗作では無い。なぜなら人族たちも元々無価値なのですから!」
レティリエが驚きに目を見開くのが見えた。王女が気まずそうに俯く。
そうか、と僕の胸の奥の棘が鈍く痛む。
それは嘆きだった。
魔族は……神の敵とされる彼らは、だからこそ神への信仰を赦されない。人族が神の威光を背に魔族と敵対するのなら、彼らはそんな神など存在しないと否定するしかない。
この不安定で、未完成で、危ういこの世界で、彼らは己の足で立つしかないのだ。
魔族は強き者に従うという。最も強き者が王になるという。
それはつまり、力以外に信じられるモノがない、ということではないか。驚くべきことに彼らは、純粋なほどに……それ以外の判断基準を持たなかったのではないか。
きっと彼ら魔族は今まで、そうやってやり過ごしてきたのだ。
そうだ。理解した。
彼らは理解している。自分たちのことを。人族と共存できない、神の創りたもうたとされる世界に仇なす者であることを十分に理解している。
それ故に、彼らは今まで―――信仰を持てなかったのだ。
「ならば、私たちは己の価値を示せる。否、奪い取れる。その権利を所持している」
魔族の青年は宣う。恍惚の声で。
「私たちは手違いで生まれ出たのではない。慈悲で生かされているのではない。理由も無く生まれ、己の意思で生きるのであれば! ―――真なる神を殺し、この世界を我らが魔王さまの手中に収めれば、勝ち鬨の声で証明できる。魔族の価値を! 私たちが生きる意味を!」
それは、喜色にまみれた慟哭であった。
神は人を愛すという。
僕はそれを、気持ち悪いと吐き捨てたかった。
なぜ神に愛されるのか。なぜ神に愛されている、と臆面も無く堂々と口にできるのか。
自分には愛される資格があるのだと、信じることができるのか。
その思い上がりこそが人の悪性だろう。
人に生まれていない者は、人ほど神の愛を受けられない。
簡単なロジックである。つまりは区別に見せかけた差別だ。
だから傍若無人に振る舞う。飼うし追いやるし殺す。どんな下らないものでも理由があれば、絶滅するまでやる。世界はそうやって改変されて人の手で更新していく。
神が創りたもうた尊き世界を、人は神に愛された特別な存在だからと、都合いいように作り替える。上書きする。完成された芸術品を踏みにじるように。
けれど大丈夫。神は赦してくれる。むしろ人の手で『改善』される世界を喜ばしく思うだろう。
なぜなら、神は人を愛しているから。
「神を、殺すのか」
僕は問うた。
「ええ。要りませんから」
青年はにこりと微笑む。喜悦の興奮だろうか、彼の周りには滲み出た濃い瘴気が漂っている。
魔族はその場に居るだけで瘴気をまき散らす生物だ。生きているだけで神の造形である世界を歪め、どうしようもなく壊してしまう。
それは神の敵であることの証明だ。神に愛される資格の無い存在であると認めざるを得ない証だ。
―――そんな原罪を持ってしまった者たちが、善悪や情愛、宗教概念まで持つほどの知能を得ていたとしたら。
ああ。たしかに。それは確かに……神は最初から誰も、何も愛していないという考え方は、救いなのかもしれない。
「神がいなければどうする?」
「いないと証明するまでのこと」
いい答えだ。敵ではあるが感心してしまう。
「神は……―――」
レティリエが口を開く。
「魔族を殺せと?」
けれど青年がそう遮って、少女は口をつぐんだ。
まあ、互いの宗教観的に相互理解は不可能だろうな。この世界に神が本当にいたとして、あっちのは確実に間違っているだろうが、それを正したところで意味は無い。どんな魔族でも神に従い自殺するより反逆を選ぶだろう。
だから、これは……たまたま彼らにとって耳に心地よい神話を、誰かが語っただけの話。
まあその誰かは、他ならぬ神聖王国の王女なんだが。
「……ああクソ、脱帽だ。僕の同郷がまた魔王になった。頭痛がする。救いに来た王女がまさかカルト宗教の教祖になっているとか、馬鹿馬鹿しいにもほどがある」
納得した。ワケが分からないが納得するしかない。
王女は囚われの身でありながら地道に魔族に干渉し、大きな影響力を持つようになって、ついには魔王になってしまった。何を言っているか分からねーと思うが、さすがは異世界転生者である。どうやらあちらさん、主人公街道まっしぐららしい。
こうなっては悪態しかつけない。
なんというかもう、全部が全部台無しだ。状況が錯綜しすぎてどこに着地点を置けばいいのかも分からない。
「なぜ本物のネルフィリア王女を解放する?」
けれど相手が手を出してこず、そして話ができるのであるなら……せっかくなので疑問点くらいは解消しとこう。
「魔王さまの意思ですので」
青年は肩をすくめ、そしてついでのように理由を追加する。
「それに、もう要りませんし」
ネルフィリア王女が唇を噛みしめる。―――彼女の立ち位置は、つまりそこから一歩も動かないのだろう。
新魔王の魂を取り出した後の、用済みの残り滓。それ以上の存在ではないからこそ彼女は無事なままここに取り残され、無傷のまま解放されようとしている。
「勇者は一度だけ見逃すように、って言ってたよ。うん、勇者のキミが必ず来るって信じていたみたいだね。なんともいじらしいことじゃないか」
白々しく感動したふりをしながら、白い少女がそう付け足した。
二人の話から推測する―――つまり、新魔王は本物のネルフィリア王女とレティリエの、両方の身を案じたのだろう。
いずれ自分を救いに来るだろうレティリエを、無事に帰すために。
自分と分離したもう一人のネルフィリア王女を、この地から逃がすために。
……つまり、だ。ということは。
新魔王は操られているわけではない。僕の同郷は人の精神を保持したまま魔王になった。
「もう一つだけ教えてくれ。僕の敵」
僕は白い少女を指名して、問いを投げる。
「どうやった?」
ニィィ、と少女は笑った。
「そんなの、もう分かってるんだろう? ボクの敵」
「…………」
「けれどまあ、解説をご所望なら披露しようか。そちらのまだ分かっていない勇者さんにも関係あることだし、時間なんてかからないからね!」
少女は楽しそう愉しそうに高らかに、己の所業を述べる。
「ざっくりと言ってしまえば、新しい身体を用意して、そこの王女さんの肉体から取り出した魂を転生させたのさ」
罪状を言い渡すかのように。
「転生の再現術式。ボクの敵が神の腕の力を利用して世界に承認させた、新しいコトワリを使ってね。―――ああ、そうだよ。その勇者さんに使った術式をパクらせてもらった。驚いただろう?」
神の創りたもうた世界を、軽々しく改変してしまった愚か者。
それが、この世界における僕の最大の悪行だと、突きつけるように。
「ああ、ああ! 転生、転生、転生とはね! なんて面白い、興味深い現象だろう! この未完成で不安定な世界のコトワリをいじって危機に晒したところは業腹だが、承認されてしまったなら仕方ない。大歓迎で使わせてもらうよ。今はまだキミの模倣に過ぎないが、いずれはもっと安定して、もっと効率よく、もっともっと有用な術式を構築してみせる! 死が終わりにならないシステムを作り上げる! くそったれの神の用意する冥界なんて時代遅れの概念にしてやるさ!」
学徒ククリクは、真っ直ぐに僕を見る。
不敵に笑いながら。喜びに身を震わせながら。
やっと見つけた、好敵手にするように。
「宣誓しよう。転生術式はこのボクが完成させ、魔族の新たな力として有効利用する。―――ボクはキミのいる場所の、先に行くと」




