壁越え
「もしかしたら、リッドさんは規格外の術士なのではありませんか?」
そんな疑問を投げられたのは、物陰を伝いながら壁へと向かう最中だ。
瘴気のもやで見にくいが、目視の限りでは壁の上に見張りはいない。僕らに気づいたような動きもない。
フロヴェルス軍の攻撃は魔族にとって予想外だったはずだ。壁に大穴が開いて軍隊が攻めてきて、それが陽動とは思うまい。
「まさか。今回はたまたま条件が合致しただけで、ただの石の壁だったら、ああはならなかったよ。あれは多量の瘴気属性の魔素を逆に利用してやった結果で、しかも術式はサリストゥーヴェのものだ」
僕は身を低くしながら答える。
壁と瘴気が邪魔なら、瘴気を消費して邪魔な壁を消滅させればいい。そんな反則技、香水の魔女の研究成果がなければ不可能だった。
「それに、あれをサリストゥーヴェは魔術と言ったからな」
―――この魔術をよく見ておきな、今代の。
そう言って、初代勇者の仲間だったエルフは僕の魔力を使用し、瘴気を凝縮して撃ち出した。
彼女はあれを、魔術と呼んだのだ。
魔法ではなく。
「サリストゥーヴェが……エルフたちの魔法を体系立てて魔術にまで昇華したエルフ魔術の始祖が、あれは魔術だと言い切った。―――なら、相当難易度が高いのは当然だが、余人でも習得可能だと保証したに等しいのさ」
だから、壁攻略の手柄はサヴェ婆さんで不動だろう。あの魔具はたしかに僕が造ったが、別に僕ではなくても造れたわけだからな。
さらにいえば……あの魔具に僕の力量が足りているかと言われると怪しいもんだ。自分の魔力を使用されて目の前で放たれたという体験がなければ、ここまで完璧には造れなかったに違いないしさ。
―――改めて、本当に……本当にサリストゥーヴェには、学ばせてもらった。
教えてもらったのはほんの短い時間だったけれど、見違えるほどに世界が広がった。
「いいえ、それでもリッドさんは、すごい術士だと思います」
どこか誇らしげに、レティリエはそう言った。
「あなたとなら、本当にあの魔王だって倒せるかもしれない。そんなふうに思えますから」
「……あまり期待しないでくれ。僕は錬金術師。元手がなければ何もできないんでね。ガルラの眼球はもうないぞ」
僕たちは焦らず、しかし着実に壁へと近づいていく。
かなり近づいても、壁方向に動きはなかった。まず間違いなく見つかっていない。いける。
しばらくして、異変を見つけたのは僕ではなくレティリエだった。
「リッドさん、あそこからまだらに草が枯れています!」
彼女の細い指が示した方を見ると、たしかに妙な具合に植物が枯れている。目をこらせば奇形も見つけられた。
間違いない、ターレウィム森林で見たものと酷似しているそれは……
「……瘴気の痕跡。レティリエ、ここからは長居したくない。突っ切るぞ」
聖属性の加護があれば瘴気の影響は受けないが、僕がその恩恵にあやかるにはレティリエのそばにいなければならない。そんな動きが制限される状態で敵にでも見つかったら目も当てられない。
壁の中の様子は分からないが、あそこには人族がいる。少なくとも王女様はいるのだ。
ならば瘴気がないエリアは存在する。多少見つかる可能性が上がっても、そこまで突っ切る方がいいと判断する。
「はい。それでは掴まってください」
「…………」
―――この作戦の重大な欠陥を発見した。
「……あの、リッドさん?」
レティリエが不思議そうに振り返ってくる。もう壁は目の前だ。見つかってないだろう今がチャンスで、この好機を逃す手はない。
だがしかし……それでもこれは致命的だ。今からでも他の策を考えた方が良いかもしれない。
僕は腕を組み、目を閉じて神妙に口を開く。
「……どうしよう、めちゃくちゃ恥ずかしい」
「言ってる場合ですか!」
一喝で一蹴され、右腕を捕まれる。レティリエは僕に背を向けて腰をかがめ、その細い首を抱くような形で僕の右手を自分の左肩に乗せた。ええ……めっちゃ近い。堅い皮鎧の上からでもドキドキするんだけど。
この作戦、レティリエに壁を駆け上ってもらうということは、それについていく僕は彼女に密着するということで、確かにこれで正しいのだけれど……気恥ずかしさが半端ないぞこれ。なんか良い匂いするし。
「ほら、しっかり掴まってください。早く!」
「お、おう……」
強い口調で言われ、僕は意を決して覆い被さるようにした。左手も首あたりを抱くように回す……その腕をしっかりと掴まれた。
皮鎧の上からでも分かる、思った以上に細い肩の形。頬をくすぐる、黒く柔らかな髪。目の前の白い耳や首筋は少し上気して赤くなり―――
「あれ? レティリエももしかして恥ずかし……」
少女が、駆ける。
安全設備無しの絶叫マシーンに乗ったことがあるだろうか。―――恐ろしい速度で地面が流れる。うっかりとつま先が擦れただけで、そのままもげてしまうのではないか。
不規則なリズムでバウンドする、激しく揺れる乗り物で酔わずにいられるだろうか。―――地を蹴る一歩ごとに衝撃が伝わり、内臓がもみくちゃにされるような感覚に陥る。
風にはためく髪が顔に当たって痛い。とても痛い。目を開けていられない。
振り落とさないようにと掴まれた左腕が悲鳴を上げている。肉が潰れて骨がきしむくらいに固定されてる。ちぎれるかもしれない、と本気で心配した。
もう恥ずかしさとかなくて必死でしがみつく。前にもゾニに運ばれたことがあったが、段違いでこっちがキツい。そうか人間って乗り物に向いてないんだな初めて知った! 助けて! SOS出そうにも振動がひどくて喋ったら舌噛みそう!
ぐん、と一瞬のタメがあった。蹴り足に力を入れたのが分かった。
薄目を開ければ、どうやら濃い瘴気のただ中で。もはや壁は目前で。
ゾクッとする。スワッと魂が口から出そうになる。
こんな乗り物で垂直に近い壁を登るだなんて―――
「うぷっ……」
登り切った時に口元を押さえたのは言うまでもなく、吐かなかっただけ偉いだろう。
ガン、ガン、ガン、と。縦揺れで内蔵をかき回されるのはなかなか新鮮な体験だった。掴まっていた腕が痛いし、振り回された体も痛い。
以前に何かで見たロデオってやつを思い出したが、多分こっちの方がひどいと思う。
「やはりこちらには誰もいないようです」
壁の上から用心深く周囲を見渡して、レティリエがそう報告する。どうやら見張りもすべて西側へ向かったようだ。こちらから潜入してくるなんて思いもしてなかったらしい。
それは重畳だが、同時に拍子抜けでもあった。そして弱点の発見でもある。どうやら魔族軍は、軍隊としての規律に欠陥があるらしい。
特大の異常が起こったとはいえ、こうも簡単に持ち場を離れて誰も残っていないだなんて、役割の遂行という概念が欠如している。これでは翻弄してくれと言っているようなものだ。
「……まあ、見張りなんて暇な役割を位の高い魔族がやってるはずないか」
頭がいい魔族というのは、基本的に中級よりも上の力を持っている場合が多い。ゴブリンやオークという下位魔族は脳みその程度も低いものだ。
敵がほとんど来なくなった外壁の見張り役なんて、下位にやらせるに決まっている。きっと全員で競うように西へ行ったのだろう。
フロヴェルス軍の陽動は想定以上に効果を発揮している。
けれど、それはつまり……。
「ここがもぬけの殻ということは、西側にほぼすべての戦力が投入されるということ。対して、フロヴェルス軍は決して万全の状態じゃない。少なくともこのまま王都を攻め落とせる戦力はない……ウプッ」
やばい、ホントに気持ち悪い。けどまだ瘴気の中だからレティリエに密着したままだし、死ぬ気で我慢しなきゃ……。
「大丈夫ですか、リッドさん? すみません、わたし人を乗せて走ることに慣れてなくて……」
「うんまあ、普通の人は慣れてないと思う。馬じゃないんだし」
勇者に乗り心地を期待するのも、さすがにどうかと思うしな。
「フロヴェルス軍も陽動が主目的と分かっている以上、無理な戦い方はしないだろう。初手でなるべく派手に立ち回って、あとは被害を抑えつつ後退ってところか」
「ナーシェラン様なら、おそらくそんな用兵をなさると思います」
「つまり、魔族の戦力が多ければ多いほど、フロヴェルス軍撤退までの時間が早くなる。……急ごう」
「はい」




