賽を振る者
その男は神聖王国フロヴェルスに、現国王の第一子として生を受ける。
産まれたその日より王位継承権は第一位。
王が急逝でもすれば、赤子であろうとも王座に身を置かねばならぬ責務を負っていた。
幼き日より厳しく育てられ、文武に励み、礼節を身につけ。
次世代を担う王子として、その身にかかる期待に応えながら健やかに成長していった。
けれど、男が十五歳のころ。
可愛がっていた実の妹に、もう一人の妹共々殺されかけたという経験は、彼を酷い人間不信に追い込む。
怪我が治っても部屋に引きこもり、誰も近寄らせず日々やつれていく男の姿に、家臣たちの視線は翳りを見せた。
次の王は、本当にこの男で大丈夫なのか、と。
第二子であり継承権第二位の王女が早い復帰を遂げたのも大きかった。彼女は王族としては凡庸ではあったが、誰にとっても意外だったことにその精神は逞しかった。
男は優秀ではあったが繊細で、脆かった。……もちろん、王位継承権第一位という責を負う者にしては、だが。
その男の不幸は、王族の第一子として産まれたことだろう。
あるいは、五つ違いの妹が悪夢のような精神を持っていたことか。
才覚も人柄も備わっていた彼だが、その事件から次期王位を疑問視され始め、家臣の間では王子派と王女派で派閥が作られ、王家は軋む音もたてずひび割れていく。
―――僕がレティリエからその話をじっくり聞いたのはつい最近のことなのだが、エストってホントろくなことしねぇな、という率直な感想が漏れたのは言うまでもない。
「―――と、このように。皆様方が賭け終わったらツボを開き、二つの賽の和が偶数か奇数か……ここでは丁か半かと言っていますが、その結果で勝敗を決めるのです」
テーブルと椅子を動かし、いつもの通りに丁半の場を作ってから、僕は床に座ってツボを振り、開いて見せた。出目は三と五。グサンの丁。
いつも通りに座っているのは、メリアニッサ、ヘイツ、スズ、そしてミルクスの四人だ。
普段客達の間で賭け額を計算しているモーヴォンと、給仕役のレティリエは壁側に立って控えている。
カヤードとラスコーは立っていた。自国の王子が立っているのに座るわけにはいかないからな。
同じ理由で、宮廷魔術師の女も。彼女はここに来てから一言も話していない。
「単純ですね。ですが意外にも奥深い。この遊戯は出目を当てる行為そのものより、多人数で賭け額を合わせる過程に魅力があるように感じます。違いますか?」
ナーシェラン王子は立ったまま僕を観察し、そう言ってみせる。
……一目で看破するか。あるいは、事前に調査して予測立ててきたか。どちらにせよ油断のできない相手なのは間違いない。
「さすがのご慧眼。ただ丁か半を当てるだけであれば、こんなものは児戯にも劣ります。みなと和気藹々に楽しむからこそ楽しめるのです」
「この町の人々は魔族の恐怖と戦いの緊張感に耐えてきました。この娯楽はそういった民や兵の心を和ませてきたでしょう」
「ナーシェラン殿下にそう言っていただけるなら、恐悦の至りでございます」
僕は片膝をついて深々と頭を下げる。……すると、王子様は困ったように言った。
「どうか、ナーシェとお呼びください。自国の民でもないあなた方にまでそうかしこまれてしまっては、こちらも肩肘が張ってしまうというもの。敬語も必要ありません」
いや無理だろ。自国でも他国でも王族には最上級の敬語使うわ。
「そう。それで、ナーシェも遊びに来たの? 今日は人数が少ないからやめるところだったけれど、四人が入ってくれるなら始められそうね」
ミルクスこの田舎者!
「いいえ、可愛いエルフのお嬢さん。その遊戯も無関係ではありませんが、本日は別件なのです」
い、いいやつだなナーシェラン王子。さらりと笑顔で返したぞ。
これが懐の深さってヤツか。
「別件とは?」
ミルクスにこれ以上喋らせないよう間を置かずに僕が聞くと、アッシュブロンドの髪を丁寧に整えた男は深い碧の目をこちらに向ける。
「主に、二つ。いずれもこの遊戯の発起人であり、高名な占星術師セピア・アノレの弟子であるリッド・ゲイルズ殿に」
この場の全員に注目される。
僕は僕を見る碧の双眸のみを見返す。
……知らず、手のひらに汗が浮かんでいた。
僕はこれでも、いろいろな人を見てきたと自負している。前世でも、今世でも。
だから分かる。
違う。と。僕は今まで、会ったこともなかったこの男のことを、甘く見ていたと。
彼の立場と置かれた状況を鑑みれば焦燥も苛立ちもあって当然なのに、それを全く感じさせない……全て包み込み受け入れて、無風の湖面のように落ち着いた深い瞳に、僕はガラにも無く戦慄していた。
王族。そうか、そうだよな。エストみたいなのは例外であって当然。
真っ当な王族なら……人間的に格上で当然か。
まあ、僕のような小悪党にとって、格下なんか探す方が難しい。
だから僕は僕として、やらねばならないことをするだけだ。
「僕に、ですか。この非才の身にできることであれば、なんなりとお申し付けください」
ナーシェラン王子は僕の慇懃な態度に困ったような顔を見せながらも、それ以上は改めさせようとしなかった。
この姿を当然だと思っているのか、本当に崩したしゃべり方を求められているのか、正直読み取れない。ただ、この方が楽なのだろう、と察せられたような気がした。
「一つは、今の丁半という遊戯の話。これを、我が管理下に置きたい」
ざわ……と空気がざわめくのが分かった。
「ちょっと、それは……」
「つまり、ナーシェラン王子の許可無しに開催できぬよう定めたい、と?」
ミルクスを遮って、僕はそう確認した。
おそらくこうなるだろう、と予想していた通りの要求である。全面禁止のパターンも考えていたが、それよりは軽い処置だな。
彼が指揮官である以上、丁半が兵達に、ひいては軍に悪影響を与えているのを見過ごすことはできない。けれどこの遊戯が町の人々の娯楽になっている面は無視できず、理不尽な理由で禁止令を発動するのは反感を買う。
ならば取り込むのが賢いやり方だ。
「ここはフロヴェルスの領土ではありませんが、法を定めますか」
「これは痛いところを突かれますね。ええ、はい。その権限はありません。ですがこれは善意と受け取ってください。実はこの遊戯は今、セーレイムの教えに反するかどうか、神に祝福されるべきものか否か……本国で議論を呼んでいるようで。人と人との間に不和をもたらしかねない、というところが論点のようですが、仮に悪性であると結論が出てしまった場合、当方としては遊戯に興じる者を処断せざるをえないのです」
訂正。軽い処置だなんてとんでもない。
本国での議論については嘘だろう。だが、向こうがセーレイム教の元首である限り、結論なんてどっちにでもできる。献上か、罪人かを選べと言われてるようなものだこれ。
完全な強奪だ。
……しかし、宗教を使ってきたか。たしかに法律ではなく教義ならば、国境を越えて制定できる。
「神に逆らう意志など毛頭ございません。ここに集まる皆のすべて、同じ心持ちでしょう。―――ですが、分かりました。殿下の許可あるまで、この遊戯は控えることとします。賽もお預けいたしましょう。……カヤード、これをナーシェラン様に」
僕はあっさりと了承した。勝ち目がないし、この対面が叶った時点ですでに丁半の役目は終えている。僕個人は何一つ惜しくはない。
惜しがるのは、他の面々だ。
僕に指名されたカヤードが全員の視線を受けながら進んでくる。ナーシェランに背を向けているからか、彼も複雑そうな顔を隠さない。
思えば、カヤードは一番このゲームに献身していた客だったように思う。
最初の日以外、彼は常に一番最後に賭けた。賭け額の足りない方へ、ゲームを成立させるために。
丁か半か当てる、という事に、彼は興味がなかったのだろう。それよりもこの場の雰囲気を好み、目立たないが欠かせない潤滑油として楽しんでいた。
それを見守るラスコーは悔しそうな顔だ。立場上、文句も言えないのが口惜しいのだろう。
彼は熱くなるが、後に引かないタイプだ。負けても次の日にはケロッとして笑っていた。
ヘイツと衝突した時も、次の時には肩を組んで酒を飲んでいた。
そのヘイツは不機嫌顔だが、不満はあっても声に出すことはない。
この厳めしいドワーフの爺さんは、声にこそ出さないが、この集まりを気に入っていたのだと思う。実は結構遠くに住んでいるはずだが、初日から今日まで一度も不参加の日はなかった。
今黙っているのは多分、ここで反発しては他の者に害が及ぶかもしれない、という一点だろう。この静かで頑固なドワーフがそういう気を回す爺さんなのは、この一ヶ月で誰もが理解している。
「もうできなくなるのかな……」
スズがぽつりと呟く。
「…………」
いつも騒がしいメリアニッサは、こんな時ばかり無言だ。
この二人とこの集まりは協力関係だった。
賭場の客は昼夜の食事時の客にもなるからな。丁半の集まりがなくなれば、足の遠のく客も出るはずだ。二人にとっては痛いだろう。
そして、それがなくとも純粋に……彼女たちはあのゲームと馬鹿騒ぎを楽しんでいたから。
ナーシェランは笑顔だった。
みんなの溜息のような落胆が聞こえてくる。
カヤードが僕の前にかがむ。僕が差し出す賽を受け取ろうと手を伸ばす。
その手が届く前に―――僕は賽をツボに投げ込み、カンッ、と音を立てて床に叩きつけた。
しん、と賭場が静まりかえる。一ヶ月やってきて、かつてないほどに。
「……なんのつもりでしょうか?」
一番最初に口を開いたのはナーシェランだった。気を悪くした様子はないが、その目は僕の処遇を検討しているように見えた。
反抗と判断されたならば、事務手続きのように処断が成されるだろう。王族の務めとして、まさしく正しい手続きを踏むがごとくそうするだろう。
「殿下は先ほど、こうおっしゃられました。この遊戯の発起人であり、占星術師セピア・アノレの弟子である僕に用がある、と。では、もう一つの話についても想像がつくというもの」
笑ってみせる。もはや猫など被らず、僕の本性をさらけ出す笑みを浮かべた。
きっと、演技は無意味だから。相手はガチな王族だ。僕程度の薄皮など簡単に見通してくるだろうから……いいや、違うな。そうじゃないな。
なんでだろう。今のすっごい鼻で笑えたな。なんだか相手が強そうだから仕方ないよねって、自分に言い訳してるみたいだった。
多分だけど、僕にこうさせてるの、コイツじゃないな。
「魔術大国ルトゥオメレンの術士として、彼の城壁の攻略に一役買え、と。そんなところでしょう。先ほどから一言も発さぬそこの女性……おそらくは宮廷術士殿の視線が熱くて仕方がありません。間違いなく彼女は値踏み役では?」
台詞をそらんじながら、チラリと視線を巡らせる。この一ヶ月で見知った顔が、みんな僕を見ていた。
ミルクスがキョトンとしていて、モーヴォンが驚いた顔で、レティリエが柔らかく微笑んでいた。
「一つ、勝負といきませんか? 貴方が勝てばそのお役目、快くタダで引き受けましょう」
僕の誘いに、神聖王国の第一王子は困ったように微笑した。
「ご慧眼ですね。どうやら期待以上のようです。……さすが、自ら売り込んでくるだけはある」
忠告と賄賂の意味が正しく伝わっているようで、とてもよろしい。
「ですがその用件に関しては、十分な額の報酬を用意しています。勝負の必要はないと思いますが?」
王族は賭け事をしない。
勝たねばならないからだ。普通とは違うということを見せねばならないからだ。
例え児戯であっても、負けられない。負けてはならない。
我が下ならば安心だ、と下々に示さねばならぬが故に。―――その威光には一点の曇りすらあってはならぬ。
「ナーシェラン・スロドゥマン・フリームヴェルタ様。殿下には欠点が一つあります。それを自覚しておいででしょうか?」
挑発的に言ってのける。
恐れることは何一つ無い。敬うことも何一つ無い。
僕は彼女の仲間になった時から、一つ心に決めていることがある。
英雄にはならない、と。僕がなるべきは、災厄である、と。
「この町を見ました。王都を囲む布陣を見ました。ここに到る経緯を耳にし、その手腕の結果に触れました。周囲の国や神聖王国の現状にも思いを馳せました。とても手堅く、細々と配慮されていますね」
僕は嘲笑する。憚ることなく。
「だから貴方はつまらない。それでは神ですら、見飽きて愛想を尽かすでしょう」




