邂逅
強い雨の日だった。
窓の外に道を行き交う人の姿もなく、ザアザアと雨の音がする以外に音はない。
『制作、開始』
魔力が乱れぬよう部屋内に結界を張った僕は、床に敷き重ねた羊皮紙の魔術陣を連鎖起動させる。術式用に細かに調整配合されたインクが時間差で、順番に魔力を通していく。
「狂気の沙汰ですね」
結界の外から投げられるのは、モーヴォンからの辛辣な批評だ。
「起動から終了まで全てを術式にするのは、ゲイルズさんの特性を考えれば仕方ないと考えますが」
「おはようからおやすみまで書かないと正常な動作しないからな、僕の場合は」
「にしても細かすぎます。凄まじく分厚い本にでもするんですか、って思ってましたよ。その数を繋ぎ合わせ一つの連鎖術式にするなんて、もはや職人芸です。インク濃度でよくそれだけ正確に時間差できますよね。そこまで必要ですか?」
モーヴォンの指摘は、魔術師の立場からすれば当然の質疑だと推測できる。
この世界において魔術は体系化されており、よほど才の無い者以外なら誰もが習得できる学問として成立している。……まあ、普通は年単位の修行が必要なのだが。
しかして、魔術の行使については各個人のセンスに依るところが大きいのだ。
たとえば、明かりの魔術。
モーヴォンの行使する明かりは純白に近く、ミルクスが使う明かりは山吹色をしている事が多い。また、体調や精神状態によっても若干影響が出る。
同じ魔術式を使用しているにもかかわらず、だ。
たとえば、モーヴォンに意識的に違う色の明かりを作れ、と言ってみたら、彼は少しばかり手こずった後でそれに成功するだろう。
魔術式を全く変えないで、魔力の操り方でそれを成し遂げるだろう。
この世界において魔法とはそういうものだ。
十の項目があったら、一と五と八だけ入力すれば結果が得られる。
構造など知らなくとも、蛇口をヒネれば水が出るように。蛇口の固さや水の勢いの良し悪しなど、多少のブレは誤差として処理される。
僕の術式はそれを許さない。
一から十まで全て記載するのは不可能だ。人族はそこまで魔素の解明には到っていない。
だが、可能な限り細かく過程を指定し、ブレを嫌う。
占星術師という、どこまでもブレを取り除いたその先を見通す専門家の師匠にすら呆れられるほどに。
だってバグには散々手を焼いてきたからな!
「モーヴォン、魔術師としての君に聞こう。この世界はおおらかだと思うか? それとも大雑把だと思うか?」
僕は床に座り込んだまま、床に重ね置きされた羊皮紙に記されるたくさんの魔術陣の連鎖を見守る。
羊皮紙はそれ自体が図形を描くよう、床に並べられていた。重ね方にも細かな計算がしてある。
術式は内へ、内へ、中央に置かれた一対の素材に注がれている。
ガルラの眼球。今回の本命。
「それは同じものだ、と答えるしかないですね。質問にするなら、おおらかか、窮屈かではないですか?」
返答には、思わず笑みが漏れた。まったくもってその通り。反論の余地も無い。
愚問だったな。僕の所感が完全に出てしまった。
「以前、フロヴェルスの神学者と知り合う機会があったんだがね。彼は勇者が神の腕ではないか、という自説を持っていたよ」
「……ああ、だからあのとき驚いてなかったんですね?」
モーヴォンが言っているのは、エルフの里での話だ。ゴブリンの群団を撃退した翌日、彼は勇者が神の腕の力を持つと僕らに告げている。
サリストゥーヴェの後継であるこの少年は、その辺りのことはすでに知っていた。
「レティリエには言う機会を逸していてな。君が言ってくれて助かったよ。……で、だ。その神学者に、僕はこう聞いた。神の腕がまだ役割を終えていないのなら、この世界はまだ創られている最中なのではないか、と」
モーヴォンが息を飲む気配がした。
僕は魔術陣から目を離さない。こんな会話は重要ではない。ただの雑談だ。術式に異常がないか見守る方がよほど大切である。
「僕に言わせれば、この世界はあやふやで、分からないことだらけなんだよ。そして、何かの拍子にがらりと変わってしまうようなことすら有り得る。……危ういんだ、凄く。だから魔法なんていう特にふわふわした事象をきっちり扱うには、術式は細かく、どんな脇道にも逸れないよう設定してやるべきだと僕は考えている」
「……けれど、それの元の魔術式は、そんなに細かくなかったでしょう?」
僕は思わず溜息を吐く。
「魔術師はな、適当な術式でいいさ。ちょっとの異常なら魔力を使って修正してやればいいんだから。……けれど、魔力を操れない僕はそうはいかない。僕でも問題なく使用できるようにするためには、異常が起こり得ないレベルまで術式を書き込む必要がある。なんにせよ、僕がやるならこの方法が一番だと思うがね」
エルフの少年はしばらく黙っていたが、やがて小さく溜息を吐く気配がして……今まで聞いたこともないような、沈んだ声を出す。
「なるほど。ゲイルズさんは、魔素を信用していないんですね」
「……魔素の何を信用するんだ?」
眉をひそめる。意味が分からなかった。理解ができない発言だ。
信用? 魔素を?
「エルフ魔術は魔素と親しむことが重要とされます。魔素を知り、どういう流れで動くのかを感じ取り、その意を汲みつつ協力してもらう。その感覚を研ぎ澄ませと」
「それは人間には無理だな。魔力に親和性の高い種族にのみできる魔力行使だ」
「ですが、ゲイルズさんのやり方は型に入れての強制です。魔素の支配と言っていいでしょう。それでは……」
「僕を先に裏切ったのは魔素だよ。何せ、僕は魔法が使えないんだから」
僕は魔法を行使することができない。
正確にはオドの意識的な属性変換および複雑な操作ができない。言葉に魔力を宿すことも不可能だ。一応、体内での単純な魔力移動と循環速度操作くらいはできるが、その程度。
僕はそれを、異世界転生者だからだと思っていたが……―――
思い出すまでもなく、脳にこびり付いている。
あの日、ボルドナ砦で遭遇した男。災害のような同郷。魔族に産まれた異世界転生者。
魔王は、魔法を使っていた。
「裏切られたから徹底的に支配し、自分の意にだけ沿うよう操りますか。それは心配ですか? それとも臆病ですか?」
エルフの少年の声には、隠す気もない棘があった。
いったい何に不機嫌になっているのか。僕が何かマズいことを言ったのだろうか。
魔素に対する向き合い方なんて、香水の魔女の後継エルフと落ちこぼれ人間では隔たりがあって当然だと思うが。
「今日はやけに突っかかるな、モーヴォン。何を苛ついているのか分からないが、文句や議論なら後にしてくれないか? 今は魔術陣に集中したいんだが」
「いいえ。別に。自分が信用されていたなら、自分はその結界の内側に居ただろうと思いましてね」
…………ああ、そうか。
彼は魔術師だ。そしてこの魔術陣の元になった術式も知っている。仮に魔術陣に不備があり異常が起きても、簡単なものであればその場で修正できるだろう。
普通の魔術文法を使っていれば。
「僕の術式は僕のオリジナルの文法を使っているからな。普通の魔術師じゃ役に立たないさ」
「自分にその文法を教えていれば、省略できた術式も多かったのでは?」
「サリストゥーヴェの弟子にこんな我流教えられるかよ……」
そもそも僕が使用してる文法の前提知識は前世のプログラム言語なんだから、この世界の者に教えるのは完全に無意味である。
前途と才ある術士にこんなの学ばせるの、さすがに申し訳ないぞ。
「まったく……それで拗ねてるワケか。たしかにそういう手法も取れたかもしれないが、僕はずっとこれでやっているから慣れてるってだけだ。こんな最上級素材で失敗するわけにはいかないしな」
「では、ゲイルズさんはミルクスを信用していますか?」
僕は魔術陣に注目せねばならないので、振り向くことはなかった。
「魔術師的な話ではなく、人となりの話でか? もちろん信用しているさ。真っ直ぐすぎて少し危なっかしいが」
「そうですか。まあミルクスはそうでしょうね。では、カヤードさんやラスコーさんは?」
あの二人か。監視役ではあったが悪いヤツらじゃないんだよな。
「彼らの仕事内容を知っている以上、警戒を怠る気はないが……信用していると言っていいだろう。彼らは心情的には僕らの味方だと思う」
「メリアニッサさんやヘイツさん、スズさんは?」
「信用していいだろうな」
常連三人の名前にも、僕は特に何も考えずに頷く。連鎖術式は正常に動作し、ガルラの眼球に術式を送り込む。
形状変化のくだりに移って、僕は薬品を垂らした。ガルラの眼球がドロドロにほどけて崩れる。
魔力の力場が外郭を作り、カタチを再構成させていく。
「では、なぜ彼らには打ち明けないのですか? 自分たちが、ロムタヒマ王都でやろうとしていることを」
……めちゃくちゃな質問だな。そんなことはできるはずがない。
だが、それでも真摯に答えるならば……こうなるか。
「信用していないからだな」
「だから騙すんですね」
違う、とは言えなかった。結局それが今回の真実だ。
「丁半なんてゲームをして、この町の人々に取り入りつつ情報を集め、ほころびを探し、自らもほころびを作り……あなたはそうやって、全てを騙す準備をしてきた。その大量の魔術陣のように、誰も信用することもなく。ですがそれは、全てを信用してぶっちゃけてしまえば、半分の時間で物事が進んだのではありませんか? 深夜の馬鹿騒ぎの時間も、術式の制作に当てられたのでは?」
「実力が無いからな」
あるいは……物語の勇者なら、全てを打ち明けるかもしれない。全てを白日の下にさらし、全てを任されよと堂々と、王都へ進出するのかもしれない。
けれど、レティリエはそんな勇者とは違う。僕にもそんな力は無い。
「僕らは歴代の勇者パーティでも最弱だ。弱者には弱者の戦い方がある」
「なるほど、己すらも信じられませんか」
「モーヴォン」
自分の声が苛立っているのが分かった。
このエルフの少年は問答を、僕が術式に集中しなければならないこの時を選んで持ちかけたのだろう。逃げられることがないように。
わざと挑発的に、脳天気な絵空事を口にまでして、やたら迂遠に詰ってくる。
よほど言いにくいことがあるのだろう。
けれど、魔術陣を見張らなければならない今は、そんなことにかまけてはいられない。
「端的に言え」
彼は少し躊躇したようだった。数拍の間があり、呼吸の音がした。
「みんなを、騙したくない……と感じています」
……そうか。そりゃ、言いにくいな。
これまでやってきたことを、できれば全て無に帰したいと。そう言いたいわけだ。
まだこの町に来て一ヶ月足らず。けれど、それでも情にほだされるには十分だったらしい。
「オルエンさんも、ミルクスも同じ気持ちでしょう」
「そうだろうな」
丁半に集まるメンバーはいいやつ揃いだ。酒飲んでゲームに興じて騒ぐのが大好きな、愛すべき馬鹿野郎たちだ。
そんな相手を嬉々として騙せるほど、レティリエもミルクスも強い精神を持っていない。ましてやモーヴォンなんて、もしかしたらその中の一人に―――。
「ゲイルズさんも、そうではないのですか?」
連鎖魔術陣が強い光を放つ。術式を内包したガルラの眼球が新しい形状で定着し、魔具として完成する。
『工程、終了』
カラン、と皿の上で転がった二つの新魔具を、つまみ上げてモーヴォンに見せた。
「できたぞ。どうだ、君は僕のやり方を否定していたが、終わってみれば悪くない出来だろ?」
「……センスを疑いますね」
おいおい、何言ってるんだ。僕にそっちの才能を求めるのは間違ってるぞ。
「あの素材と術式でその安っぽい形状、もはや背徳的ですらあるかと」
「ようし、見た目に関する文句はそこまでだ」
小言が延々続きそうだったので、僕はすっぱり拒絶する。
だって言い返せないし。
「モーヴォン。信じるということは、裏切られるということだぞ」
僕はやっと振り向いた。エルフの少年と目を合わせる。
彼は真っ直ぐに見返してきた。
「いいえ。信じるということは、裏切らないことです」
降雨は宵の内に入ってもやまず、それどころか雨脚は強くなって、屋内でも雨音がうるさいほどだった。
いつもの天体観測を断念し、四人で階下へ降りる。
丁半の日なのに酒場は珍しく人が少ない。宿の娘スズと、宿泊客のメリアニッサ。そして多少の雨など気にも留めないドワーフのヘイツがいるだけだ。
兵士達が来なくなってから、一般人の常連も少し足が遠くなった。賑やかだったのが急に寂れたせいだろう。元々が珍しい遊戯に寄り集まっただけのにわか集会だから、ああいうきっかけで容易くこうなるだろうことは、分かっていた。
「これは、今日は中止かな」
僕は後頭部を掻きながら、そう言うしかなかった。
さすがに人数が少なすぎる。丁半というゲームは集まってワイワイやるのが楽しいのであって、参加人数がミルクス合わせて四人ではすぐ飽きてしまうだろう。
「ま、こういう日もあっていいんじゃないかね。ご足労のヘイツ爺さんには悪いけどさ」
「かまわんよ。予想して来とるからの」
「じゃ、残念会として今日はお店がみんなに一杯奢るわ。リアさんも座ってよ、今日はちゃんと給仕やるから」
メリアニッサが僕に同意して、ヘイツが腕を組んで頷く。そしてスズが立ち上がって厨房へ向かおうとしたところで―――酒場の入り口が開いた。
入ってきたのは四人。
ガタイのいい三人と、細身の女が一人。いずれも雨よけのフードで顔が隠れているが、四人の内二人はもう歩き方だけで誰か分かってしまった。
「いらっしゃい、カヤード、ラスコー。その二人はサボり仲間の兵隊さん? あ、お酒はいつものやつでいい?」
二人が監視役とは知らないスズが、宿屋の看板娘として接客する。
他の面々は訝しみ顔だ。全員知ってるもんな。あの二人が仕事で来てるの。
「悪い、スズ。今日はそういうの無しなんだ」
「今日は酒じゃなくて茶で頼む。一番いい葉を使ってくれ」
フードを脱いだカヤードとラスコーが、泣きそうな顔で茶を注文する。
なんだか助けを求めて懇願するように見えるが、何か酷い目にでもあったのだろうか……なんて、すっとぼけたことをぬかすほどボンクラではない。
カヤードとラスコーが判別できて、残りは二人。
体格がいいのがフードをとり、それに習うように細身の女も顔を見せる。
細い女の方は最初からなんとなく見当がついていた。ルトゥオメレンで飽きるほど見た雰囲気を纏っている。―――術士の気配。
三十代くらいだろうか、フードを脱いだその女は陰気な顔を伏し目がちにして、影のように控えていた。
おそらくは、あれが宮廷魔術師。
そして、最後の一人は―――
「初めまして。ナーシェラン・スロドゥマン・フリームヴェルタと申します。皆様方には部下が大変お世話になっているようで、ご挨拶にまいりました。どうか、ナーシェとお呼びください」
アッシュブロンドの髪を丁寧に整えた青年は、存外に丁寧な挨拶をして酒場を見渡し―――僕に目を留めて、ニコリと微笑んだ。
まさか本人が直接来るとは思わなかったが……間に合って良かったな、本命が。




