ラスコー
―――今から考えると、僕はきっと、ほっとしていたのだと思う。
ラスコーのメリアニッサへの好意に裏があってくれて、心のどこかで安堵した。
そうして、どうかそれだけの話であってくれ、と願ったのだ。
ああ、けれど。けれど、けれどけれど。
人はただ一つの理由だけで生きるような、そんな単純な生き物で無いことくらい、僕はとっくに分かっていて。
息ができなくて。目の前の問題は、ともすればこれまでのどんな問題よりも天敵で。
……だれか、教えてくれ。胸の奥底の棘がジクジクと、ジクジクと痛むのだ。
「本気か、ラスコー?」
自分でも驚くほど喉が乾いていて、そんな単純な問いを口にするのにも時間がかかった。
「ああ、こんなこと冗談で言うものか」
フッと、キザったらしくラスコーは笑った。
どうでもいいけどこいつ、ちょっとナル入ってるよな。あの顎髭いつも整ってるし。どう見ても三枚目なんだが。
横を見ると、レティリエは気まずそうに目をそらし、モーヴォンは興味深そうに親指で顎を掻き、ミルクスはあちゃーと小声で半笑いしていた。
誰もが想定していない展開なのは明白で、だからどうするべきか、全員が正しい答えを知らない。
僕は脳内で状況をおさらいする。
ヘイツが嘘を言ったのか。
否。ドワーフが軽い気持ちでデマなど流すものか。確証か、それに近い確信があったはずだ。
では、これはさらなるメリアニッサ監視のための作戦か。
……否。そこまでする必要があるとは思えない。
僕が知る限りメリアニッサの活動範囲は広くない。この宿屋兼酒場を中心に、せいぜい近くへ買い物や散歩に出る程度。昼と夜の食事時にはほぼ必ず歌うため、その時間に帰ってこれないような遠出はしない。
だから仮に彼女に間諜の疑いがあったとしても、警戒するほど大した情報を握っているとは思えないのだ。
酷い違和感だ。裏側は見え透いているのに、やっていることが釣り合っていない。
どうにも納得できない。それどころか、背筋がゾワゾワするほどの拒否反応があった。
「冗談ではないなら職務か? 君は、メリアニッサと僕らの監視役なのだろう?」
僕の直球の言葉に、レティリエたちが目を丸くして驚く。……無理もない。こちらは警戒しているぞ、と相手に知らせる明らかな問題発言だ。
けれど、どうしても問わずにはいられなかった。
ラスコーはといえば、あからさまにビックリした声を上げる。
「うぇえっ、なんで知ってるんだ? 変な素振りとかしてなかったよな?」
ああ、メリアニッサへの求愛行動がわざとらしかったこと以外はな。
……実際、彼の振る舞いは上手かった。あのわざとらしさすら、今の状況で考えれば、の話だ。ヘイツの忠告がなかったら、僕は今も騙されたままのはずである。
「これでも占術師の端くれだからな。それくらいは見通せるさ」
「マジかよ、占い師怖ぇ……」
さらりと嘘を言うと、ラスコーはあっさり納得する。
便利だなこの設定。丁半の出目を当てたとき以来、わりと信じられてるし。……まあ、腹の内では疑っているのかもしれないが。
「あー……たしかに俺とカヤードは監視役だよ。黙っていて悪かった」
「いいさ。仕事だからな。その点で文句は言わない。……だが」
「その延長線上でメリアニッサに結婚を迫るって言うのなら、許すわけにはいかないわ」
割って入って僕の言葉を勝手に引き継いだのは、ミルクスだ。
彼女は過激派だったからな。確かめねば譲れない一線はあるだろう。
とはいえその口調は落ち着いていて、棘も感じない。
「いやいやいや、いくら仕事だからってそんなことはしないぜ。というかそこまでする理由も無い。メリアニッサもお前らも、ほとんど疑いは晴れてるんだからな。……まあ、上にはまだ怪しいと報告しているんだが」
「……どういうことですか?」
モーヴォンが聞くと、ラスコーは真剣に神妙な顔をして、テーブルの上に上体を乗り出す。
「ほら、アレだよ。お前らが疑わしい、ってことにしとけば、俺らは大手を振ってこの酒場に来れるわけでな?」
ギルティ過ぎる。サボってんじゃねーよ不良兵士。
「いや、ホントはそろそろメリアニッサの監視から他に回されそうだったんだが、お前らが来てくれたおかげ居座る理由ができてな。感謝してるんだよマジで」
町に来た初日でいやに早く釣れたと思ったら、こいつにとっても渡りに船だったのか……。そりゃ食いつきいいわ。爆釣だってするよな。
「……つまり、メリアニッサさんについては、あの時点でもうほぼ疑ってなかったと」
こめかみを押さえつつレティリエが沈痛な面持ちで確認すると、ラスコーはウンウンと頷いた。
「酒場で歌ってるだけだしな。一人だし、特に怪しいヤツと交流があるわけでもなし。どっかに手紙を送ってる素振りもないんじゃ、監視なんてしてても意味がない」
だろうな。僕も彼女が間諜だという線は消していいと思う。
「そんで、お前らの疑いもほぼ晴れてる。俺らが何人兵士を呼ぼうが平気で丁半やってるからな。隠れて悪いことをしよう、って思ってるヤツらじゃないことは分かる」
そりゃそうだ。グレーの域を出ないから悪いことじゃないし、隠れてやる気もないからな。
「なるほど。つまり君たちはこの酒場に来る口実として、僕らのことが疑わしいと上に報告していたと。……そういうことで間違いないな?」
「ああ。お前らを使わせてもらっていた。気分は良くないだろうが、それはすまん」
そして、その話がフロヴェルス軍を出入りしているヘイツの耳に届いたと。
うーん殴りたい。その自慢の顎髭を炙ってチリチリにしてやりたい。
「だが、どうしてもメリアニッサに会いに来たくてな」
……正直なヤツだな。
僕らの監視役をバレずにこなしたり、自分たちの上司も騙してたりと、普段の様子からは想像できないほど器用なことをしていた。が、やはりラスコーはラスコーなのだろう。
「申し訳ありません……。わたしたちはメリアニッサさんに、ラスコーさんたちが監視役であることを忠告してしまいました」
良心の呵責に耐えかねたのだろう。レティリエが正直に口にして頭を下げる。
「げ……言っちゃったのか?」
「ああ、悪いが言った。それが君らの仕事なのは分かるが、友人が囚人として捕まるのは見たくない。君個人の事情なんて知らなかったしな」
ぐぅ、と唸る。……が、彼は怒りはしなかった。
額を押さえて困ったように顔を歪める。
「文句は言えねぇなぁ。隠れて疑っていたのはこっちだ。……が、そうか。それはキツいな……」
メリアニッサは警戒してるからな。求婚なんてしてもまず疑われるのがオチだ。
しかし、筋が通れば不利益を飲み込むか……。わりと度量もあるな。
いいやつではある。初日に大金賭けてたときは危なっかしいと思ったが、あれ以来に無茶な賭け方はしていない。妻帯者になればいい夫にだってなれるだろう。
こういう状況でなければ、僕だって少なくとも邪魔はしなかった。
「キツいなぁ……」
落胆し、呆然と天井を仰ぐラスコー。
気まずいな。なまじ普段元気のいい人物なだけに、こういう姿は見ていてツラい。レティリエはますます萎縮しているし、エルフ姉弟も沈痛な面持ちだ。
「すまない。結果的に君には迷惑をかけてしまった」
僕もレティリエに習って頭を下げる。
状況を鑑みて、彼のメリアニッサに対する想いは本物だ。そこはもう疑う気はない。
けれど、だからこそ現状は最悪だ。
彼がどれほど真剣に求婚しても、僕らの余計な入れ知恵のせいで、あの吟遊詩人は本気だと受け取るまい。
失敗は火を見るように明らかで、その原因の一端は僕らが担っている。
何が悪かったのだろうか。
仲間の身を案じたヘイツか?
深読みをしすぎた僕か?
上手くいくことを願い、悲しみを回避しようとしたレティリエか?
職務と私情を混ぜたラスコーは悪かったが、憎むべき悪行はしていないと思える。
メリアニッサの鈍感さはもはや数える気にならない。
全員、下手はあっただろう。そして見事にすれ違った。
その結果がこのざまだ。頭を抱えるしか無い。
「なあ、リッド」
ラスコーが僕の名を呼ぶ。
「こうなったのはもう仕方ない。だが、やはり諦められん。お前は占い師なんだろう? 恋占いに頼るつもりはなかったが……今は縋りたい。なにか、いい助言はないか?」
全員の視線が、僕に集まる。
ジクジクと膿むように、胸の奥底で棘が痛んだ。
他者の不幸を舐めて生きて、当然のようにどん詰まりで死んだ。
暗く淀んだ狭苦しい陰が住処で、大手を振って歩く誰も彼もを嫉んで妬んだ。
呼吸と共に悪罵を吐いて、生を嘆いて現実から逃げる毎日だった。
幸福というものを、僕はこの世界で知った。
温かで豪快な母。善き幼馴染みたち。めちゃくちゃな師や弟妹弟子までできて。
その幸せに脅え隠れるように、僕は研究室へ引きこもった。
「すまない、ラスコー」
贖罪ならしよう。
手の届く範囲で不幸を嘆く人物がいれば、マイナスの連鎖に歯止めをし、ゼロの近くになるまで引き上げる手伝いはしよう。
それは楽だ。だって分かりやすい。レティリエの時もエルフの里の時も、難度はともかくやるべき事は明確で、ちゃんと自分で選び取れた。
けれど、今よりも幸福になりたいと求める者に対し、僕ができることが思い浮かばない。
考えようとしても、まず先に忌避感が起きる。
……こんな僕が、他人の幸せに関わっていいのか? と。
己の幸福すら望めない惨めな人間が、他者の幸福に関与しようだなんて、そんな滑稽な話はない。
そんなものに何の価値がある、と鼻で笑いながら気休めの助言をするのか?
嫉妬と虚しさに押しつぶされそうになりながら、胸の奥底で訴える痛みを無視して、外面だけの祈りを口にするのか?
幸いを求める者に、僕なんかの腐食した手を差し伸べるのか?
―――資格が、無い。
「僕も君を騙していた。僕は占い師ではないんだ。占い師の弟子ではあるけれどな。……だから、君に助言できることはない」
ここまで引っかき回しておいて悪いが、僕に唯一できることは、これ以上関わらないことだけだ。
身を引いて、距離を取って、どうか頑張ってくれと無責任に放り出す。
それが一番いい。
「……なぜ泣くんだ?」
ラスコーのそれは、本当に不思議そうな声で。
僕は目元を指で拭ってみたが、濡れてはいなかった。
「何を言っているんだ? 涙なんか出ていないが」
僕がそう言うと、幾人もの人物を見定めてきた監視役の兵士は少し黙って、そして首を横に振った。
「ああ……そうだな。俺の勘違いだ」
彼は僕から視線を外し、レティリエを見る。さらにモーヴォン、ミルクスへとゆっくり視線を移す。
そうして、彼は再び口を開いた。
「実はな、お前らへの疑いなんだが……俺個人のカンでは、何かあると思ってるよ」
この男は侮れない。警戒に値する。
「だが、悪人じゃない。それだけは確かだと俺のカンが言っていて……しかし、新たにもう一つ、今この場で分かったことがある」
レティリエの顔が強張る。モーヴォンが目を細め、ミルクスが表情を消した。
僕は彼の言葉を待つ。
「いや、分かっておくべきだったことがあった、というのが正しいか。思えば……占い師って先入観と、歳に似合わない雰囲気に惑わされていた。―――リッド。お前は、未熟だ。年相応にな」
……………………お、おう?
いや、僕は前世分の経験値があるから、十六のガキ相応の未熟さとか言われるとちょっとショックなんだが? なんなら前世と今世を足せば君より全然年上なんだが? 義務教育とか受けてるから知識量的にも圧倒的に勝ってるしこれでも魔術大国首都の魔術学院に在籍してる術士なんだが? だが?
「お前らに頼ったのは間違いだったよ」
ジクリ、と胸の棘が痛んだ。
けれどそれでいい。僕なんかの手は邪魔なだけだ。
ラスコーは思っていたよりずっと理知的な人物だった。経緯を理解して、受け入れ、飲み込んでくれた。
彼とメリアニッサの間には壁ができてしまったが、彼ならば時間をかければいずれ、その隔たりを溶かすこともできるかもしれない。
だが、そこに僕が関わってはならないと思う。
だから……―――
「俺が、お前らを導くべきだったんだ」
いつものように、誰よりも楽しそうに笑って。
お調子者の顎髭の兵士が立ち上がった。
僕は呆然とその姿を見上げる。
「お前ら、ついてこい。男を見せてやる」




