1.『金のわだつみ号』の帰港
波止場は大勢の人間でごった返していた。
アルセニウス・マルキウス――アルスは爪先立ちになり、待ち人の姿を求めて彼方の海を見やった。
港湾都市エディテリアは外洋へと船出する商船が集まる王国随一の港町である。
今は秋。追い風に乗って異国に出ていた船が戻ってくる季節だ。
今日はいつも以上に大勢の人間が立ち働いている。昨日、アルスの叔父ステファヌスが率いるマルキウス一門の商船団が、長い航海を終えて入港してきたからだ。
(どこだ、叔父上は)
正午に波止場で落ち合いたいと、叔父のよこした伝令は言っていた。
だがアルスはまだ叔父の姿を見つけられていない。
港は広く、しかも今日は常になく混み合っている。見逃してしまった可能性は捨てきれない。
(まいったな……)
アルスは軽く息をつくと、ふと空を見上げた。
遥かな高みに、青空がひろがっている。
明るく澄みわたりながらも、かすかに藍色がかった、深い青。太陽の光には盛夏の鮮やかさはすでになく、わずかな翳りが感じられた。
いかにも秋らしい空だ。なのに今日はいやに暑い。
隣に立つ兄がかすかに身じろぎ、小さく息を洩らした。
アルスは額に浮かぶ汗を手の甲で拭いとると、そっと隣に立つ兄を窺い見た。
(兄貴、やっぱり顔色悪いよな)
兄マグヌスもやはりアルスと同じように額に汗をにじませていた。その顔は心なしか青ざめているように思える。暑さで上気しているのではなく、気分の悪さに耐えかねているのではないか。
昨日まで兄は床についていた。風邪をこじらせ、十日あまりもの間、寝込んでいたのだ。だが、叔父の船団がエディテリアの港に入ったとの報せを受けると、多忙な父に代わって挨拶に向かうことを自ら買って出た。
(無理してなければいいんだが)
兄の状態が心配だった。
マグヌスはアルスより四歳年長の十七歳、マルキウス一門の宗家の嫡子として、去年からはさまざまな仕事の差配を任されはじめている。
異国での商いを終えて帰ってきた叔父をねぎらうのはたしかに大切なことだ。だが兄は、世継ぎとしての責任感からこの任を申し出たのではないのかもしれない。
無理を押してでも港に行きたい。港で異国帰りの船を出迎え、帰国したばかりの叔父と言葉を交わしたい。
そう強く望むからこそ、兄は病の癒えきらない身であえてこの場に足を運んだのではないか。
「待たせたな」
呼びかける声を耳にして、アルスは振り向いた。
壮年の男が手を振りながら人ごみを抜けてこちらに歩み寄ってくる。
がっしりした体格の、背の高い男だ。明るい金髪も、夏の海のように青い瞳も、アルスやマグヌスと同じ色合いだ。だが南方人と見まがうほどに日焼けした肌は甥っ子たちとは大きく違っていて、この男が海上で太陽の光と潮風に長く身をさらしてきたことを示していた。
「叔父上!」
アルスが声をかけるよりも先に、マグヌスが一歩踏み出して叔父に話しかけた。
「ご無事のお戻り、なによりです。今回の航海はいかがでしたか」
作法にかなった、だがすこしばかり堅苦しい様子で問いかけるマグヌスに大きく頷くと、叔父はよく通る声で答えた。
「昨日連絡したとおりだ。いささかの遅れはあったが、道中つつがなく終えることができた。取引もおおむね上々、よい航海だった。そちらは変わりなかったか」
「ええ、とりたてて申し上げねばならないようなことは何も」
「そうか」
マグヌスに相槌を打つと、叔父はアルスに向き直り、気さくな調子で笑いかけた。
「アルセニウス、お前も来ていたのか。相変わらず仲のいい兄弟だなあ」
叔父の言葉に、アルスは一瞬戸惑う。
それほど兄弟仲がいいとは思っていなかった。だが傍目からはそう見えるのだろうか。
「久しぶりに『金のわだつみ号』が見てみたかったんです。それにできればディリッサも」
その言葉に叔父はぱっと破顔して、豪快な笑い声を上げた。
「目当ては俺の船と俺の竜か! 相変わらずだなあ」
子供っぽいと思われてしまっただろうか。
恥ずかしさのあまり思わずうつむいたアルスの耳に、続く叔父の言葉が届いた。
「ああ、いや、すまん。そうでもないな」
顔を上げると、叔父は穏やかな表情でアルスを見つめていた。
「声変わりしたんだな。背もずいぶん伸びた。半年会わなかっただけなのにな」
声変わりも急激な身長の伸びも、実のところアルスにとって大きな出来事だった。だが自分にとっては大きなことでも、他人から見たら些細なことに過ぎない。なのに叔父はそのことに気づき、声をかけてくれた。
「船か。ああいいぞ。見ていけ。甲板に上って存分にな。ただ、うちの連中の邪魔にならないように気をつけてくれ。ちょうど陸揚げで忙しくしているところだから」
そう言うと、叔父は再び兄のほうに向き直った。
「さて、マグヌス。お前の用向きだが」
「はい、父からの書状と伝言を預かっています。ですがどうせなら私も船に上がってみたいものだと」
「ああ、そう言うんじゃないかと思ったさ。ちびの頃から、いつもお前はそうだった」
******
『金のわだつみ号』はマルキウス一門の持ち船の中でも最大級の商船である。五年前、アルスが八歳の時に就航し、以来、マルキウスに多くの利益と栄光をもたらしてきた。
ステファヌス叔父はアルスの父方の叔父――すなわち、一門を束ねる総領の弟にあたる。同時に叔父は海竜ディリッサの御竜士でもある。
商いの荷を運ぶ帆船は戦には向かない。だから商船団には護衛の艦や海竜が随行する。御竜士である叔父が商船団の長を務めているのは、そういった理由があってのことだ。
アルスを甲板に残して、叔父と兄は連れ立って船室へと降りていった。ひとり残されたアルスは中央の帆柱の付け根近くに立ち、ぐるりと周囲を見渡した。
甲板では水夫たちが忙しく立ち働いていた。船倉からは次々に積荷が運び出され、どんどん船外へと降ろされていく。
長い航海を経て入港してきた船にはそこかしこに汚れや痛みが見うけられた。ひどい時化には遭わなかったと聞いているが、決して楽な航海ではなかったに違いない。だが修理を施して艤装を整えるよりも、今はまず、商いで得た荷を陸揚げすることを優先しているようだ。
帆柱に張られていた帆は、すべてたたまれていた。帆のたたまれた帆船はまるで裸に剥かれたみたいに見える。
(どうせなら帆の張ってある姿が見たかったな)
風をいっぱいにはらみ、青い空と海の間で光を受けて輝く白い帆。あれこそが帆船の一番素晴らしいところなのに。
物足りない気持ちだった。だが、格好いい姿が見たいなどというくだらない理由で帆を張ってもらいたいとはとても言えない。帆は貴重で大切なものだ。今はたたんでおくべきだと判断されたからこそ、このような姿になっているのだろう。
水夫たちは威勢のいい声を互いに掛け合い、次々に積荷を運び出していく。
陸揚げの邪魔になってはまずいだろう。アルスは外海に接している右舷へと移動して、船縁に手をかけて前方を見やった。
晴天のもと、海面はみごとなまでに凪いでいる。
右隅にうっすらと岬の輪郭が窺えるが、他に陸の影はない。沖合で、海と空との境目がほんのり淡く輝いている。
視線の届く限り、いや、目に見えている範囲を超えてなお、海は遠く広く、彼方へとひろがっていた。
ざぷん
近くで軽く波のはねる音が聞こえた。真下に視線を移すと、すぐ横の海面から海竜がひょっこりと顔を覗かせていた。
「ディリッサ!」
アルスは声を上げて身を乗り出すと、海中の竜に向かって手を振った。海竜はアルスに応えるかのように、頭を前後に動かす。
竜の顔はみなよく似ている。特に海竜は、色鮮やかな飛竜とは違って、鱗の色にあまり個体差がなく、なおさら見分けるのが難しい。たいていの海竜の鱗は、背の側は青みを帯びた鈍色、腹側は真珠の光沢を持つ白だ。
ディリッサもまた、いたって平均的な海竜である。
よくある色合いの鱗に体格もごく普通、海竜を見慣れていない者にはこれといった特徴を見つけ出せないだろう。だがアルスはディリッサを他の海竜と間違えるはずはないと確信していた。
ディリッサの鱗は他の竜よりわずかに色合いが淡い。瞳の色はやや緑がかった青色で、首の周りの鰭状の突起が心持ち大きい。
そういった細かな部分を最初から見分けられたわけではない。ただ、熱心に眺めているうちに、自然と他の竜との差異に目が行くようになってきたのだ。
そもそもディリッサはいつも自分からアルスに寄りついてくる。そのおかげでディリッサと他の竜を区別できるようになったのだろう。その昔、叔父によって最初に引き合わされて以来、ディリッサはアルスにとって特別な海竜となっていた。
「どうだった? 航海は」
竜に人間の言葉は通じない。少なくとも、おのれの御竜士でもない人間の言葉を理解したりするはずはない。そんなことはわかっている。けれどもアルスは竜に話しかけるのが好きだった。
ぴちゃり
ディリッサはかすかに頭を動かす。首を傾げているかのように。
「いい旅だったか。叔父上はそう言っていたけど」
今度は首を前後に軽く振る。
(頷いたんだ。そう思いたい。けど)
実際はどうなのだろう。
竜珠による繋がりがなければ、竜と人間は意思の疎通を行うことができない。幼い頃からそう教えられてきた。
それでもたまに感じることがある。細かな部分はわからなくとも、大まかなところではそれなりに通じあっているのではないかと。少なくとも、うれしいとか悲しいとか、相手が好きだとか嫌いだとか、そういった感情のひだのようなものはかなりきちんと感じとれるような気がするのだ。
もどかしさを覚えながらも、アルスは竜を見つめ、竜に話しかける。
竜珠の媒介を経ずして竜と人間が語り合えるわけがない。御竜士でもない身で他人の竜に話しかけるなんて、おおよそ意味のない戯れに過ぎない。だが――
(俺はいずれ本当に竜と言葉を交わす。御竜士の誓いを立てて竜を得て、そして自分の竜とともに海に出る。そう、叔父上のように)
アルスはこの夏、十三歳になった。来年には候補生の試しを受けられる年齢に達する。
マルキウス一門は五竜家のひとつに数えられている。アルスはそのマルキウス宗家の次男として生を享けた。御竜士候補生を目指すのは、定められた宿命のようなものだ。
(でも、御竜士になったとしてもディリッサの言葉がわかるわけじゃない)
御竜士が通じ合える相手は、おのれの竜のみ。
竜が体内で育んだ竜珠を移植することにより、人間は御竜士となり、竜珠の持ち主であった竜と強固な絆で結ばれるようになる。
ディリッサは叔父の竜だ。叔父の他にはディリッサと直接語り合える人間はいない。
そう思うと、うっすらとした翳りのような――あるいは寂しさのようなものが胸をよぎる。アルスが最初に求めた竜はたぶんディリッサだ。けれどもディリッサがアルスの竜になることはありえない。
(いいさ。俺には俺の竜がいる。俺だけの竜が、きっと)
アルスはおのれ自身にそう言い聞かせると、目の前で自分を見上げている竜に向き直った。
******
「アルセニウス」
背後から声をかけられ、アルスは振り向いた。
「叔父上」
「満足できたか。こちらの用事はさっき片付いたが」
叔父の背後に兄マグヌスが立っているのが目に入った。マグヌスの顔色は叔父と話し合う前よりもさらに悪くなっていて、今にも倒れ込みそうなところを必死で耐えているように見える。
(まずい)
兄は体が丈夫ではないが忍耐強い。自分から苦痛を訴えることはないだろう。放っておけば我慢した挙句に倒れてしまうかもしれない。一刻も早く帰途に着かなければ。
「楽しかったです。ディリッサも元気そうでしたし」
「だな。ディリッサもお前に会えて嬉しかったと言っている」
叔父の言葉は嬉しかった。けれども兄の状態に気づいた今、アルスはどうにも気が急いて仕方なかった。
「陸揚げは今日明日でおおかた片付きそうだ。二、三日もすれば館に顔を出せるだろう」
「そうですか。父にそう伝えておきます」
「ところで、帰りの足は確保してあるか?」
「はい。うちの馬車を町のはずれに待たせてあります」
マグヌスの言葉に頷き返すと、叔父はふと思いついたように言い足した。
「マグヌス、あまり無理はするな。お前は真面目でできる奴だが、ちょっと自分に厳しすぎる。もっと自分を甘やかしたっていいし、いっそ怠けたってかまわない。『金のわだつみ号』が見たいなら、また今度ゆっくりと遊びに来い。整備が必要だから、当分はこの港に留まることになるだろうしな」
「はい……」
(叔父上も気づいてる)
当たり前かもしれない。
兄の様子はどう見たって普通ではないのだから。
「早く戻ったほうがいい。馬車に揺られるのもきついようなら宿を取って休んでいくか?」
「いえ、大丈夫です。このまま戻ります」
「そうか、気をつけてな」
マグヌスは叔父に一礼すると、アルスに顔を向けてついてくるように促した。アルスもまた叔父に頭をぺこりと下げて、兄の後に続く。
「兄貴」
マグヌスに追いついてその横に並ぶと、アルスはそっと呼びかけた。
「大丈夫?」
「大丈夫だ。すこし船酔いした」
(嘘だ)
兄は船に慣れている。こんなに完璧に凪いでいる日に、しかも停泊している船に乗ったくらいで酔うはずはない。
だがアルスはそのことを指摘しなかった。ともかく今はこれ以上無理をせず、なるべく早く休めるような状況に持っていかないと。
(できるだけさっさと帰ろう)
アルスは兄より半歩ほど後ろに下がる。万が一兄が倒れるようなことになればすぐ支えられるようにと、その足取りに目を配りながら、ともに船の降り口へと向かっていった。