3. 霜宿る窓
三年の歳月が流れた。
その報せがエグランティウスの館にもたらされたのは、冬至の近づいたある未明のことだった。
物音を聞きつけて、ソールはふと目を覚ました。
まだ夜も明けやらぬ刻限だというのに、ばたばたと走り回る音が聞こえてくる。ソールは枕元のランプに灯をともし、霜で凍りついた玻璃の窓から外を透かし見た。
そこかしこの窓に灯火が宿っている。みな目を覚まし、動き回っているのだ。
ソールは寝間着の上に上着を引っ掛けると、廊下へ続く扉へと向かった。
扉を開けたところで、召使いと行き合わせた。
「何が起こった?」
訊ねるソールに、召使いの娘は緊張した面持ちで答える。
「伝令の方が。旦那様に何かあったらしくて」
「伝令はまだこの館に?」
「はい。今は奥方様とお話しされています」
「場所は? 執務室か?」
召使が頷くのを確かめ、ソールは足早に執務室へと向かう。
扉を開けて最初に目に入ったのは、伝令を前にして蒼白な顔で立ち尽くしている母の姿だった。
父が亡くなったのだと、伝令は告げた。
任務先で火竜と遭遇し、他の者たちを生かすためにその場に踏みとどまり、犠牲になったのだと。
そして、共に任務についていたあのマルセリウス・ウォルシウスもまた、同じようにして亡くなったのだと。
報告は明瞭で簡潔、疑念を挟む余地はなかった。日の変わらぬうちにソールは旅支度を整え、父を補佐してきた叔父とともに、父の任地であった西方の辺境へと向かった。
遺体を確認して引き取ると、即日領地へと戻り、叔父の差配のもとに葬儀の準備に取りかかる。
母は気丈に振舞っていたが、無理をしているのは明らかだった。
今となっては自分がこの家を、いや、エグランティウス一門を背負っていかなくてはならないのだ。わずか十一歳の少年でありながら、ソールはそのことをはっきりと自覚していた。
小雪のちらつく曇天の下、葬儀はしめやかに執り行われた。
五竜家のひとつ、エグランティウス一門の総領だった人物の葬儀である。多くの者が弔問に訪れた。だがその大半は立場に従ってやってきた者たちであり、私的な繋がりによって訪れた人間はわずかだった。
そんな中でソールの目を引いたのは、ウォルシウス家に属するひとりの御竜士だった。
その壮年の御竜士はアリアス・ウォルシウスと名乗った。あのマルセリウス・ウォルシウスの兄だという。ややくすんだ色合いの金髪に榛色の瞳という取り合わせはたしかに弟と共通していたが、謹厳な表情の御竜士はマルセリウスとはあまり似ていないようにソールは感じた。
アリアス・ウォルシウスは言葉少なに弔意を述べた。その表情は硬く、感情を読み取ることは難しかった。だが、彼が深い哀惜の念を抱いていることは伝わってきた。その思いがマルセリウス・ウォルシウスに向けられたものであるのか、それともソールの父に向けられたものであるのかは、ソールには知りようのないことだった。
ただ、羽毛のような軽い雪の舞う中、静かに立ち去っていくその後姿は、なぜかソールの記憶に長く留まり続けたのだった。
叔父が後見人につくことを条件に、ソールはわずか十一歳でエグランティウス一門の総領となった。
これまでもソールの父ロサリウスは御竜士としての任務に忙しく、総領としての実務をこなしていたのはこの叔父であった。そういった意味では、エグランティウス家に特に混乱はなかった。しかし、自らが御竜士となることによって《エグランティウスの御竜士》の名に与えられた不名誉を拭い去ろうとした総領ロサリウスを失ったことは、大きな痛手となった。
そして、ロサリウス・エグランティウスとともにマルセリウス・ウォルシウスが命を落としたことが、思わぬ波紋を呼ぶことになる。
誰が言い出したことなのか、はっきりとはわからない。だが、ある噂が密かに囁かれ始めていた。
――マルセリウス・ウォルシウスが命を落としたのは、ロサリウス・エグランティウスのせいなのだ。
あるいは、それは真実の一端を示すものであったかもしれない。
二人が親友だったことは、広く知られている事実だ。
マルセリウス・ウォルシウスは情宜に厚い。ロサリウスの身に危険が迫ったとき、マルセリウスが無理を押して親友を助けようとして、そのまま自分の身をも危うくした。それは充分にありうることだ。
だが、噂は悪意に満ちた方向にねじ曲がる。
――ロサリウス・エグランティウスさえいなければ、マルセリウス・ウォルシウスが亡くなることなどなかったのに。
飛竜フルメノスとマルセリウスは、王国最速の竜と御竜士と呼ばれていた。明るく人好きのする気性も相まって、マルセリウスは多くの人々から惜しまれていた。ことにウォルシウス家にとっては、一門の誉れとでもいうべき存在だった。
失いたくないものを失ったとき、時として人は、怒りや憎しみを向けてもよい対象を定めて、自らの傷を癒そうとする。
意図して貶めたのではないのかもしれない。だが、《エグランティウスの御竜士》という言葉につきまとう不吉な印象は、この一件によってより強固なものへと変わったのだった。
ソールにとって、父とその親友の死は、悪夢以外の何物でもなかった。
ソールは父を尊敬していた。そして、マルセリウス・ウォルシウスを慕っていた。
あの夏至祭の競技会で、ただひとり、父の勝利を称えて拍手していたマルセリウス。
《エグランティウスの御竜士》の真実を、枉げることなくソールに伝えようとしたマルセリウス。
マルセリウスが何を願っていたのか、ソールは理解しているつもりだった。
それなのに、世間の噂はマルセリウスの願いとは真逆の方向に向かおうとしている。
いっそのこと、マルセリウスがもっと利己的で、父やソールのことなど気にも留めないような人物であったならば、こんなことにはならなかったのだろうか。
さらに時が流れる。
父が亡くなってから、もうすぐ二年が経とうとしていた。
その夜も執務室の暖炉の傍に椅子を寄せ、ソールと叔父はいつもどおりに雑々とした連絡を取り行っていた。日々の報告を終えたところで、ソールはその決意を叔父に告げた。
「御竜士を目指すというのか?」
当惑したような表情を浮かべる叔父に、ソールは頷く。
「来年には私は十四歳になります。候補生の試しを受けるつもりです」
「しかし……」
叔父はソールの顔を窺うように眺め返した。暖炉の火が作り出す影が、叔父の眉間のしわをくっきりと浮き立たせる。
「エグランティウス家の差配は叔父上にお任せいたします。ご迷惑をおかけすることになりますが」
「それはかまわん。だが、わかっているのか。御竜士は危険の中に身を置かねばならない。もしお前が失われるようなことにでもなれば、エグランティウスの嫡流は途絶えかねない」
ソールはゆっくりと首を振った。
「妹がいます。それに従兄弟たちも。家系の存続などどうにでもなるでしょう」
五竜家の者にとっては、子孫を残すことも重要な仕事のひとつである。御竜士となるべき《資質》は血によって受け継がれるものであるからだ。エグランティウス家があの《狂竜事変》を引き起こしながらも取り潰されることがなかったのは、その血脈の存続が望まれたからでもあった。
だが、ただ血を伝えるだけの存在に、どれほどの意味があるというのか。
「この七十年あまり、血脈と家名だけはどうにか存続させてきました。ですが、エグランティウスに必要なのは、真の五竜家として再び立つことです。御竜士なき五竜家には名誉も誇りもない。我々には《エグランティウスの御竜士》が必要です」
「……兄上と同じことを言うのだな」
「このままでは先細りになるだけですから。御竜士を出せないままでは、いまだ細々と続いている《竜の牧舎》との縁もいずれ完全に切れてしまうことでしょう。そうなっては経済面でも立ち行かなくなります」
「たしかに。だが、兄上が御竜士を目指した頃よりも状況は悪くなっている」
「だからこそ、です。今、ここで手を打たなければ」
「しかし、なにもお前自身が御竜士にならなくても」
「『困難なるを厭わない者にこそ、人は続く』、そうではありませんか? 私は範を示さねばなりません。総領たる私であるからこそ、意味があるのです」
「ソール……」
叔父はもの思わしげにソールの名を呼び、そっと首を振った。
「わがまま、と思ってくださってもかまいません。叔父上には、一番負担をおかけすることになるのですから」
「いや、そうではない」
叔父は姿勢を正して、ソールの顔を正面から見つめなおすと、沈痛な面持ちで続けた。
「お前は正しい。だが、そういった正しさを、まだ子供であるべき年頃の者に求めざるをえない。それが私には」
ソールもまた、叔父の顔を正面から見据え、はっきりとした口調で返す。
「与えられた状況で、最善だと思われることを為す。必要なのはそれだけです」
――そんな顔をなさっても、結局あなたは従うしかない。
そんな言葉が喉から出かかった。だがソールは口には出さず、すっと視線を叔父の顔から背けると、立ち上がって窓辺に寄った。
「今夜お話ししたかったのはそれだけです。詰めた話はまた後日に」
「……そうだな」
叔父が部屋から立ち去ると、ソールは窓の外に目を向けた。
窓の玻璃は霜に覆われていた。霜越しに透かし見える景色は暗く、外は闇に閉ざされている。明かりを宿した窓は、今は見当たらない。
深更も近い。みな灯火を消し、眠りについている刻限なのだ。
静かだった。暖炉で薪がはぜる音だけが、ときどき静寂を破る。
闇のしじまに身をひたし、しばらくの間、ソールはそのまま佇んでいた。
次回、第2話完結です。




