2. 来客
夏至祭が終わって数日後、ソールの住む館にひとりの客人が訪ねてきた。
「マルセリウス・ウォルシウス?」
客人を出迎えたソールの父――ロサリウス・エグランティウスは、不思議そうな声でその名を呼んだ。
「やあ」
気さくな調子で話しかける男の姿に、ソールは見覚えがあった。
あの夏至祭の競翔で優勝に輝いた天藍種の竜の御竜士だ。
「競技会ではろくにしゃべることもできなかったからな。改めて祝いにきた」
「祝われるべきはむしろ君だろうに」
怪訝な声で父は答える。
「俺はどうもうちの長老がたが苦手なんだ。昔馴染みの友達と話すほうがよっぽどいい。それにお互い、こんなときでもないと休みもろくにもらえないだろう?」
くだけた調子で天藍種の御竜士――マルセリウス・ウォルシウスは言った。
「相変わらずだな」
そう答える父の声も、いつになくうきうきしているように感じられる。
父とこの御竜士は友人同士なのだろうか。
あの夏至祭の日、マルセリウス・ウォルシウスは率先して父に拍手を送っていた。あれはそういった個人的な繋がりによるものだったのだろうか。
エグランティウス一門以外の人間がこの館に訪ねてくることは、ソールの記憶にある限り、あまりないように思う。そもそも父は忙しい人間であり、館でのんびりしていること自体が少ないのではあるが。
「ところで、その子供は君の子か?」
マルセリウス・ウォルシウスの問いに、父は頷いた。
「長男のソールシウスだ。八歳になる」
挨拶しなさい、と父に促され、ソールは眼前の御竜士に頭を下げた。
「ソールシウス・エグランティウスです。夏至祭の競翔、見てました」
「マルセリウス・ウォルシウスだ。よろしくな」
マルセリウス・ウォルシウスは腰をかがめて少年と目の高さを合わせ、にこりと笑いかけてきた。
気さくで人好きのする笑顔だ。榛色の瞳はいたずらっぽい輝きが宿っていて、父と同年輩の男性というよりはむしろ少年のような雰囲気がある。
「しかし実際のところ、どういった用向きなのだ。ウォルシウスの者が個人的にエグランティウスの宗家を訪ねてくるなど、あまりないことだ。少なくとも、君にとってはあまり都合がよくはないだろうに」
「個人的に旧交を温めにきた、では不充分か?」
「そうであれば……と言いたいところではあるが」
父は語尾を濁し、考え込むような表情を浮かべた。
「ソール、私はお客人と大切な話がある。下がって遊んできなさい」
ふと思いついたように父がソールに告げた。
「わかりました、父上」
ソールは素直に父の言葉に従う。
本当はこの天藍種の御竜士の傍にいたかった。だが、ソールにとって父の言葉は絶対だったし、一門を負って立つ総領の跡継ぎとして、こういった場面では聞き分けなければならないことを、すでにソールは理解していた。
父とその友人に一礼すると、ソールは客間を後にした。
ソールが向かった先は竜翔口だった。
御竜士マルセリウス・ウォルシウスはきっと自分の竜に乗ってきたはずだ。だとしたら、あの天藍種の飛竜が、今、この館に来ているに違いない。
竜舎を通り抜け露台へ出ると、空色の飛竜が座り込んでいるのが目に入った。
間違いない。あの天藍種だ。名前はフルメノスだと聞いている。
一番好きなのは父の竜アウルス。けれども、あの競翔で見たフルメノスは本当にすごかった。できれば近くで見てみたいものだと思っていた。
ソールは少しずつ飛竜に近づく。
フルメノスはアウルスよりもずっと小柄だ。より首が長く、全体がほっそりとしているように見える。
そのとき、飛竜が頭をもたげ、ソールに視線を投げかけてきた。
その瞳の色に、ソールは少し驚く。
アウルスは金色の瞳をしている。だがこの竜の目は深い藍色だった。
黄金の瞳は美しいが、どこか人間とは異質な生き物のような感じがする。だが、天藍種の竜の深い色の瞳は、より親しみやすく、優しげに思われた。
(こっちを見ているのかな)
竜が何を考えているのかなど、ソールにはわからない。蜥蜴めいたその顔には、表情らしきものが現れることはあまりない。そもそも父の竜以外を間近で見たことはほとんどないから、細かいしぐさから何かを読み取れるほど竜に慣れているわけでもない。そしてその父の竜ですら、この館に滞在していることはそう多くはない。
なのに、ソールは目の前に佇んでいる竜の気持ちがわかるような気がした。
(もしかして、面白がっているんだろうか)
根拠はない。だがなんとなく、目の前の竜からはそんな雰囲気が伝わってくる。
父の竜からそういった印象を受けたことはない。アウルスはいつも父に忠実で、真面目くさっているような感じがする。だが、このフルメノスはもっと気さくで親しみやすい。端正で優美な容姿を具えているにも関わらず、思わず笑いがこぼれ出るような、そういった何かを感じさせるのだ。
(そうか、あの人と似てるんだ)
この竜の主である御竜士マルセリウス・ウォルシウス。
ソールは初対面の人間に馴染むのがあまり得意ではない。特に人嫌いというわけではないが、少し身構えてしまうのだ。だが彼の前ではそういった緊張をあまり感じなかった。父と同年輩の、競技会の優勝者でもある、英雄のような人物なのに。
(もっと傍に寄ったらいけないだろうか)
本当は竜に近づいてみたくてたまらない。御竜士と竜は通じ合っているのだから、主を持つ竜が人間に危害を加えるようなことはまず考えられない。それでも、よく知りもしない竜に不用意に近づけるほど、ソールは向こう見ずではなかった。
少し離れたところに座り込み、ソールは一心に竜の姿を見つめていた。
「フルメノスが気に入ったのかい」
背後からいきなり声をかけられて、ソールは驚いて振り向いた。
マルセリウス・ウォルシウスがひざに手をつき、ソールを覗き込んでいる。
「あ……」
突然の問いに、ソールは言葉を失う。
「ずいぶん長いこと、ここにいたんだろう。フルメノスがそう言っている」
自分ではあまり意識していなかった。だが、そうなのかもしれない。座り込んでいた尻の辺りが痺れているような気がする。
「フルメノスは、とてもきれいですね」
なんと答えたらいいのかわからず、ソールはとりあえず思っていることを口にした。
「だろう?」
マルセリウス・ウォルシウスは得意げな声で答えた。
(父上とはずいぶん違う人だ)
父ロサリウスならば、こういったときには謙遜の言葉を口にするに違いない。たとえ内心では、どれほど自分の竜を誇らしく思っていたとしても。だがこの御竜士は、あっけらかんと本音をそのまま口にする。
だからだろうか。ソールはずっと心に秘めていた問いを口にしていた。
「あのとき、なぜみんなは、父上を祝ってくれなかったんでしょう」
「あのときって……競技会のことか」
そう問いかけるマルセリウス・ウォルシウスの声からは、先ほどの明るさは消えていた。
「はい」
「そうだな……」
そう相槌を打ったまま、マルセリウスは黙り込む。
ソールの隣に腰を下ろすと、マルセリウスは考え込みながら語りかけてきた。
「『狂竜事変』、という言葉を聞いたことがあるかい?」
「……いえ」
耳慣れない言葉だった。だが、どこかでその文字の並びを見たような覚えもある。
――そうだ、本で見たんだった。
館の図書室で見つけた本だった。竜の描かれた口絵に惹かれて頁をめくったが、ソールには難しすぎて歯が立たなかった。内容を尋ねようと思って母に見せたら、そのまま取り上げられてしまったのだった。
あの本は今どこにあるのだろう。あれ以来行方がわからなくなっている。
「そうか……」
マルセリウスは考え込むような様子を見せ、そのまま黙り込む。
「あの……それは」
ソールはおそるおそる声を掛ける。
「父上と……エグランティウス家と関係のある言葉なんでしょうか」
競技会の表彰式で、聞こえてきた囁き。
――エグランティウス?
――いや、まさか
『エグランティウス』の御竜士が入賞する。
それは意外であると同時に、あってはならないことだった。
あの囁きの意味は、おそらくそういうことなのだ。
驚いたような表情を浮かべ、マルセリウスはソールを見つめた。
「……もっと大きくなってからのほうがいいのかもしれない。ロサリウスに任せるのが筋なのかもしれない。けれど、いずれ君は知ってしまう。いや、知らないではいられないんだよな」
呟くようにそう言うと、マルセリウスは静かに語り始めた。
*****
竜が体の中に持っている不思議な石がある。そう、竜珠と呼ばれているものだ。
竜珠を額に埋め込むと、人間はその竜珠の持ち主だった竜と心で繋がりあうことができるようになる。
こういった竜と御竜士を結びつける方法は、御竜術と呼ばれている。大昔の魔法をもとにしていると言われているが、よくわかっていない部分もあるらしい。
御竜術にはとても大切な決まりがある。絶対守らなくてはならないと、昔から言われていることだ。
まず、人間と結びついてもかまわない竜の種類は決まっている。
竜にはいろんな種類がいる。人間よりもずっと賢いものもいれば、獣と変わらない程度の知恵しか持たないものもいる。
御竜術を使う相手は、人間とちょうど釣り合うくらいの心と賢さを持った竜でないといけない。そうじゃないと、竜の心に人間の心が呑み込まれてしまうから。
そして、野生の竜ではだめだ。卵から孵る前から人間のところにいた、飼いならされた竜でなくてはいけないんだ。
御竜術ができあがったのは、三百年以上前のことだ。三百年の間にいろいろ変化したこともある。でも、この掟はしっかりと守られてきた。
いや、たまには掟を変えようとした人もいたかもしれない。だけどたぶんみんな失敗して、消えていったんだろう。
けれど今から七十年くらい前、御竜術の掟を破った人がいた。
人間と結びつけてもいいとはされていない竜に御竜術を施したんだ。
その竜は――火竜だった。
そう。人間にとっての一番の敵だといわれている、あの恐ろしい火竜だよ。
火竜と竜珠の絆によって結びつけられた人間は、リオニウス・エグランティウス。そして、このことを計画したのは、そのときのエグランティウス家の総領だった。
最初はうまくいったように見えた。だけど、駄目だったんだ。
火竜は人間の心で抑えられるような相手ではなかった。
火竜は暴れて、暴れまわって、本当にひどいことが起こった。
大勢のものが死んでしまった。普通の人も、火竜を取り押さえようとした竜と御竜士も。
そして最後に、リオニウス・エグランティウスと火竜が死んで、すべてが終わった。
これが『狂竜事変』と呼ばれる出来事だ。
そして、それ以来、エグランティウス家は重い枷を負うことになった。
向こう四十年、エグランティウス一門から御竜士を出してはいけない。
それが、御竜士評議会がエグランティウス家に下した罰だ。
その結果、今ではエグランティウスの御竜士は、ほとんどいなくなってしまった。
四十年経てば、また御竜士を出せばいい。そう思うだろう。でもそんなに簡単じゃないんだ。
御竜士の候補生になるためには、御竜士に推薦してもらわなくてはいけない。
けれど、事件から四十年後、まだ現役だったエグランティウスの御竜士はとても少なくて。
それに、世間のエグランティウス家に対する風当たりは、とても厳しいものになっていて。
エグランティウスの御竜士として生きるのは、この上もなく大変なことになってしまったんだ。
ロサリウス――君の父上は、それを変えようとしている。
普通、一門を取りまとめる総領は御竜士にはならない。
御竜士は換えのきく存在だ。けれど、総領はそうはいかないからね。
だけど、ロサリウスは宗家の跡取りでありながら御竜士になった。
それはとても珍しいことで、負担の重い、勇気の要ることでもある。
君の父上は、すごくがんばって、難しい戦いを続けているんだ。
*****
マルセリウスの声は淡々としていた。
慎重に言葉を選び、時に迷いながら、父の友人である御竜士はソールに真実を話した。
それは、ソールが今まで聞いたことのない話だった。聞いたことはないが、なんとなくどこかで知っていたような気がする話でもあった。
後になってからソールは知る。
ウォルシウス家はエグランティウス家と同じく飛竜を司る一門である。両家の利害は対立することが多く、ウォルシウスとエグランティウスの間に心温かな関係が築かれることは、そう多くはないのだと。
だが、マルセリウス・ウォルシウスはあくまでも誠実だった。彼の言葉にはおためごかしもなければ、少年を傷つけるような中傷もなかった。ただ真実のみを、少年にも受け入れやすい形で伝えようとしてくれていた。
もっと歪んだ見解や悪意に満ちた言葉が蔓延していることを、育つにつれてソールは知らされてゆく。そして、あの話を最初に語ったのがマルセリウス・ウォルシウスだったのは、自分にとって幸いなことだったのだと考えるようになった。
マルセリウス・ウォルシウスは、ソールにとって、本当の意味で英雄となっていた。
※作中のマルセリウス・ウォルシウス氏は、第1話のラルの次兄マルセル(マルセリウス)とは別人です。
第1話(1-1.~1-3.)と第2話(2-1. 2-2.)は、同じ年の出来事です。