3. 蒼穹
薄暗い竜舎の片隅で、ラルは膝を抱えて座りこんでいた。
竜舎はがらんとしていた。日の高いうちは竜たちは牧に出ている。ただ一頭、アリエラの青い飛竜だけが、一番端の房で体を丸めて休んでいた。
次兄マルセルの言葉は、ラルにとって受け入れがたいものだった。
姉の選択は五竜家の娘としてはあまり例のないものであり、必ずしも歓迎されているわけではない。そのことは知っていた。だが、それが自分の未来を左右するものであるなどとは、考えてすらいなかった。
自分の竜を得ること。竜とともに生きること。
五竜家に生まれた者にとって、御竜士を目指すことは生まれながらの権利であるとともに、課せられた義務でもある。だから、姉アリエラが自分の竜を得たのは喜ばしいことだし、自分もいつかきっと御竜士になる。
そう信じていた。疑ったことなどなかった。
なのに今、それが覆された。
アリエラ姉さんは好きだ。その気持ちは変わらない。けれど、姉さんのせいで、自分やマルセル兄さんは御竜士になれないかもしれない。
どうしたらいいのだろう。
ラルは顔を伏せ、膝がしらに額を押しつけた。
「ラル?」
頭上から呼ぶ声があった。
「アリアス兄さん」
長兄アリアスが目の前に立ち、怪訝な表情で覗き込んでいた。
父と同じ名を持つこの兄は、ラルより十二歳年長の二十歳。三年前に御竜士として認められ、銅種の飛竜レウィシアの主となっている。
「どうしたんだ、こんなところで」
「……なんでもない」
「またマルセルにいじめられたのか?」
「……ううん」
次兄マルセルの言葉がきっかけになっているには違いない。だが、今回はいじめられたわけではなかった。
「兄さんは、どうしてここに」
「レウィシアと翔ぶつもりで竜翔口に来た。ついでにアリエラの竜を見ようと思ったら、お前がいた」
「うん」
「何があった?」
「マルセル兄さんが言ってた。アリエラ姉さんは恥知らずだ。長老たちは怒っていて、だから僕やマルセル兄さんは御竜士になれないかもしれないって」
「マルセルがそんなことを……」
「ねえ、ほんとなの」
「うん?」
「御竜士になった女の人は、ええと……竜にさかりがついたときに大変なことになって、だから、恥知らずって呼ばれても仕方ないんだって」
アリアスは顔をしかめ、横を向いて軽く舌打ちした。
「……マルセルめ」
「アリアス兄さん?」
「ああ、いや、すまない」
アリアスはしゃがみこみ、ラルの左肩に手を添えて話し始めた。
「ラル、よく聞きなさい。
マルセルの言ったことはまったくのでたらめというわけではない。だが、かなり大げさだし、実際とはだいぶ違っている」
「そうなの?」
おずおずと問い返す弟に、アリアスは大きく頷く。
「最初の御竜士が誕生してから、もう三百年以上経っている。その年月は、ただ無為に過ぎ去っていったものではない。さまざまな経験と、さまざまな工夫を重ねてきた末に今があるんだ。
繁殖期の竜への対処についてもそうだ。竜の心に引きずられておかしな行動をとらないように、ちゃんと対策されている。困ったことになんて、まずならない」
「でも、女の人が御竜士になるようになったのは、ちょっと前からだから」
「そうだな。とやかく言う者がいるのはある程度仕方ない。新しくはじまったことを受け入れるのは難しいから」
「マルセル兄さんは、本当のことはどうでもいい、噂のほうがこわいからって」
アリアスの動作が一瞬止まる。そして何とも言いがたい表情を浮かべ、無言のままラルの顔をじっと見つめた。
「確かに……な」
大きく息を吐き出してそう呟いてから、アリアスははっきりした声で続けた。
「だが、噂を打ち消すためには、真実を積み重ねる必要がある。そのためには行動し、実証していかなくてはならない」
「僕、候補生になれるのかな」
「なれないはずがない」
間髪をいれず、アリアスは答えた。だが、そう答えた後で、思い直したように言い足した。
「ただし、きちんと学び、体を鍛え、準備を整えておく必要はあるが」
「うん」
「長老たちがアリエラのことを快く思っていないのは事実だ。だが、ウォルシウスの人間は長老たちばかりではない。だからラル、あきらめる必要なんかない。未来のためにちゃんと備えておくんだ。お前には資質が備わっているはずだから」
「え?」
「お前が竜を見ているように、竜たちもまた、お前を見ている。そして品定めして、竜同士で話し合っている。
レウィシアは言っている。お前は竜から見て好もしい人間だと。うちの竜たちはみな、お前のことを好いていると」
「竜が、僕を?」
「そうだ」
「それからマルセルのことだが」
「うん」
「あまり悪く捉えてはいけない。マルセルは――不安なのだろう。
マルセルは今、十三歳だ。来年には候補生の試しを受けられる年齢に達する。
だが、試しを受けて選に漏れたら。いや、推薦をもらえず、試しを受ける資格すら得られなかったら。そう思えば不安にもなる。その不安を何とかしたくて、ああいったことを言う。無理からぬことだ」
「……うん」
「飛竜に乗ってみないか?」
唐突にアリアスが言った。
「え?」
「レウィシアと翔ぶためにここに来たと言っただろう。私たちと一緒に翔んでみないか?」
「……いいの?」
御竜士を多く抱えた家に育ちながら、ラルはまだ飛竜に乗ったことがなかった。乗らなければならないような局面に、今まで出くわさなかったからだ。
父も長兄も任務で家を離れていることが多い上に、どちらも少し話しかけにくいようなところがある。必要に迫られているわけでもないのに、ただ戯れに飛竜に乗ってみたいなどとは、言い出せるはずもなかった。
「怖いのか?」
「まさか」
まったく怖くないと言えば嘘になる。だが、憧れと好奇心は怖れをやすやすと組み伏せた。
「私はレウィシアを呼ぶ。お前は鞍をつけられるよう、手伝いの者たちに声をかけてくれないか」
「うん」
「よし。行こう」
そう言ってアリアスは立ち上がり、ラルに右手を差し伸べた。
太陽は天頂を過ぎ、西に傾き始めていた。
相変わらず空は澄みわたり、深い青が上天を支配している。だが日差しにはどこか陰りが含まれていて、地平線近くにたなびく雲には淡い金色の影がうっすらと宿っていた。
アリアスは竜翔口の中央に進むと、顔を空に向けて瞑想する。
やがて彼方の空に、小さな影が現れた。
影は見る間に迫り、飛竜の姿を取る。
赤みを帯びた褐色の鱗をきらめかせ、飛竜はまっすぐに舞い降りてきた。
アリアスが傍らにゆっくりと歩み寄ると、飛竜は長い首を曲げて頭を垂れ、ねだるように二、三度首を動かした。アリアスは竜の顔近くに自分の顔を寄せて、左手で竜の首筋を撫でながら、右手で竜の目と目の間の部分を優しく掻いた。
竜は目を瞑り、満足そうに小さく頭を動かす。アリアスが軽く首を叩くと、竜は頭をもたげ、竜舎の者たちとともに姿を現したラルに視線を投げかけた。
竜は激しく翼を羽ばたかせ、竜翔口の際で大地を踏み切ると、ふわりと空中に飛び立った。
そして羽ばたきを重ねて風をつかみ、翼を水平に保って滑空に移る。
風が激しく頬を打つ。
飛び立つ前は、風なんか吹いていないと思っていた。
いや、風が吹いているのではないのかもしれない。竜の速度によって生み出された風圧が、打ち据える風のように感じられるのではないか。
いったいどれくらいの高みにいるのだろう。好奇心に駆られ、ラルはそっと下界に視線を投げかける。
濃い緑に見えるのは、木々の連なりだろうか。規則正しく並んだ薄い緑や茶色の区画は、畑に違いない。ところどころに見える農家の屋根は、玩具のようにちいさい。牧で草を食む牛に至っては、まるで豆粒のようだ。
もっとよく見ようと目を凝らしたそのとき、くらりとした感覚に襲われた。思わず身を震わせ、ぎゅっと目をつぶる。
「頭はまっすぐに起こしておけ。あまり下は見ないほうがいい。慣れるまでは」
ラルの緊張を感じ取ったのだろう。背後から兄が静かに語りかけてきた。
ラルは声もなく、ただ頷く。
兄の言葉に従い、まっすぐに頭を据え、彼方に目を向けた。
果てもなく、遙かに続く蒼。
地上で見上げていた時よりもさらに広く、さらに遠く、空はどこまでもひろがっていた。
蒼穹は少年を圧倒し、奮い立たせ、そして――捕まえた。