4.学び舎へ
一年近くの時間が流れた。
アルセニウス・マルキウスは御竜士候補生の試しを受け、無事合格した。
アルスが候補生となることに、父は最後まで乗り気になれなかったようだ。しかし叔父と兄の後押しもあって、アルスは晴れて御竜士の候補生となった。
候補生として学ぶ期間は三年間。最初の一年間は王都にある学び舎で基本科目を修め、二年目以降は将来絆を結ぶ竜の特性にあわせて、より専門的な事柄を学ぶことになる。
学期は秋に始まる。春に合格が決まり、今は夏の終わり。アルスが家を離れて候補生の学寮に入る日が近づいていた。
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荷造りの手を止めて、アルスは自分の部屋を見渡した。
身の回りの品をしまいこんだせいか、部屋はやけにがらんとしていた。学び舎の学寮には家具類が揃っているし、持ち込める私物も限られている。この部屋から持っていくものはごくわずかなのだが、馴染みのあるものを片付けてしまうと、見慣れた部屋がとたんによそよそしい空間に変わったような気がする。
「アルス」
部屋を仕切っている衝立の横から兄マグヌスが顔をのぞかせた。
「今いいか?」
「うん?」
「餞別というか……渡しておきたいものがある」
そう言ってマグヌスはアルスの横に歩み寄り、一巻の巻物を差し出した。
「兄貴……これって」
アルスは驚いて兄の顔を見上げる。マグヌスは頷き返して「開いてみろ」と言った。
きれいに片付けられた机の上で、アルスはそろそろと巻物を開く。
巻物は海図だった。精緻に描かれた地形図の上に幾筋もの線が放射状に描き込まれていて、左隅には装飾的な羅針図が描かれている。
この海図には見覚えがあった。六年前、『金のわだつみ号』が処女航海から帰還した記念に、ステファヌス叔父が兄に贈ったものだ。
あの年はいろいろなことが起こった。
春に『金のわだつみ号』が初めての航海に出た。当時八歳だったアルスは、新造の帆船が堂々と船出していく姿に強い憧れをかきたてられ、将来は海竜の御竜士になって叔父のように船に出るのだと触れて回った。夏には国王の成婚を祝って、王都で大がかりな競技会が開かれた。家族とともに見物に出かけたアルスは、今度は飛竜の競翔に魅了され、海竜の御竜士になるのはやめて飛竜の御竜士になりたいと、本気で願ったものだった。だが秋に『金のわだつみ号』が戻ってくると、やっぱり海竜の御竜士になって海に出るほうがいいと、あっさり前言を撤回した。
その時、兄マグヌスは十四歳。今にして思えば、あの頃、兄は少しばかり荒れていた。
十四歳は候補生の試しを受ける年だ。弟が飛竜だ海竜だと浮かれている傍らで、兄は御竜士への道が閉ざされるのを受け入れなければならなかった。ステファヌス叔父はそんな兄を慮ったのだろう。千金に値する最新の海図を、ぽんとマグヌスに贈ったのだ。
以来、マグヌスは繰り返し海図を眺めていた。アルスが望めば見せてくれることもあったが、決して触らせてはくれなかったものだ。
「いいのか、もらっても」
「少しばかり古い図だ。今となってはそこまで価値のあるものじゃない。それにたぶん、これからはお前が持っていたほうが役に立つ」
本当にいいのか……と言いかけて、アルスは言葉を呑み込んだ。兄がどれほどこの海図を大切にしていたかをアルスはよく知っている。感謝して黙って受け取ろう。託されたものを引き受けて、自分は海の彼方を目指すのだから。
「ありがとう」
「よく励めよ」
「兄貴も……体に気をつけて」
「お前こそな」
去年の夏には長く体調を崩していたマグヌスだったが、最近は健康に過ごしている。だが、ともすれば無理を押してがんばるようなところがあるので、社交辞令ではなく文字通りの意味で、マグヌスの健康は常に気がかりだった。
「候補生の生活は厳しいと聞く。だがお前ならやり遂げるだろう」
「そうだね。マルキウス宗家の名に恥じない成績を取ってみせるつもりさ」
「気負いすぎるなよ」
そう言ってマグヌスはアルスに微笑みかけると、ぽんと軽く背中を叩いた。
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第一学年の候補生たちが学ぶ『学び舎』は王都の郊外にある。学寮は学び舎と同じ敷地に建てられていて、王都近郊に住まいを持つ候補生も、特別な事情がない限りは学寮で生活するよう定められている。
受付で入寮の手続きを行うと、アルスは自分にあてがわれた部屋へと向かった。
(どんな奴と同室で暮らすことになるんだろう)
学寮は四人部屋だ。一年の間、今まで知らなかった人間と同じ空間で共同生活を送ることになる。
部屋割の方法についてはさまざまな噂がある。成績をもとに決めていく、あるいは、同じ家門の者同士は極力同室にならないように割り振られるといったあたりが妥当ではないかと推測されている。
(気の合う奴だといいが)
人の多い家で育ったので、他人と生活を共にすることに不安はない。とはいえ、身近で暮らす相手はなるべく相性のいい人間であるに越したことはない。
(ここか)
部屋の扉に掲げられた番号を確認して、アルスは扉を開いた。
部屋にはすでに人がいた。
くすんだ色合いの金髪を持つ小柄な少年と、栗色の髪のほっそりした少年が部屋の奥で歓談していたが、扉が開いたのに気づいてさっと振り向いた。
「やあ!」
金髪のほうの少年が、明るい声で挨拶してきた。
「この部屋の人かな? 僕らもこの部屋に割り振られたんだ」
「ああ、同室の者だ。アルセニウス・マルキウスという。よろしく」
「僕はラウレンティウス・ウォルシウス。よろしく」
金髪の少年に続いて、奥にいた栗色の髪の少年も名乗りを上げる。
「クラウス・セスティウスといいます。どうぞよろしくお願いします」
「こちらこそ」
(なるほど、噂どおりだな。みんなみごとに出身がばらばらだ)
ウォルシウスは空に舞う飛竜を司り、そしてセスティウスは大地を駆ける走竜を司る一門である。
「あと一人はどんな人かな」
ラウレンティウス・ウォルシウスが楽しそうにつぶやくと、クラウス・セスティウスが同意するように無言で頷いた。
悪くなさそうな奴らだと、アルスは思った。
明るくて屈託のないウォルシウス家の少年に、折り目正しくて癖のなさそうなセスティウス家の少年。あと一人がどんな奴なのかはまだわからないが、今いる連中とはうまくやっていけそうな気がする。とりあえず、そんなに居心地の悪い一年間にはならずにすみそうだ。
(一年か……)
最初の一年が過ぎれば、アルスは海竜の御竜士を目指す。同様に、ウォルシウスの少年は飛竜の、セスティウスの少年は走竜の御竜士を目指すことだろう。彼らとの付き合いはこの一年限りになる可能性が高い。
みな、御竜士を目指すというところでは共通の目的を持っている。だが、これまでどのような道を辿ってきて、この先どのような道に進むかは、きっとそれぞれ異なっている。
それでも今は同じ場所に集い、机を並べて学ぶ。これもまた縁あってのことだろう。なるべくよい関係を築きたいものだと、アルスは思った。