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メルデウスの御竜士  作者: 霧原真
第3話 海の彼方にあるものは
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3.歩むべき道

 どうやって自室に帰り着いたのか、はっきりと思い出せなかった。

 室内は薄暗かった。アルスは壁際に置かれた机の前に歩み寄る。

 机の上には学習に使っている書字板が置かれていた。


(ああ、今日の課題、やってしまわないと)


 家庭教師は毎日容赦なく課題を課してくる。こつこつ片付けていかないと後で大変な目に会うのは自分自身だ。そんなことは承知していたが、今はどうにも気が向かなかった。


(……こんな勉強、続けて何になる)


 別に勉強なんて特別好きなわけじゃない。けれども将来のために必要だと信じて毎日取り組んできた。目下は御竜士候補生の試しに合格するために。さらにはその先、海の上で船の位置を正しく割り出したり、異国の商人とまともな取引ができるようになるために。


(だけど御竜士にならないなら、勉強したって意味がない)


 御竜士となって竜と絆を結び、自分の竜とともに船出して、異国の港を訪ねて回る。そういう人生を歩むのだと思っていた。小難しい数学も天をめぐる星座の配置も、船乗りに必要な知識だと思えばこそ、時間をかけて学んできたのに。

 けれども状況が変わった。自分のあずかり知らないところで、抗いようもなく、世界自体が変化していく。


「……どうして」


 思わず声が漏れた。


 ――どうしてこんなことになる。


「アルス?」


 衝立の向こうから、ささやくような声が聞こえた。


(あ……)


 アルスは部屋を二つに分けている衝立に歩み寄り、兄に割り当てられている空間を覗き込んだ。

 マグヌスは寝台に横たわっていた。だが衝立の隙間から顔をのぞかせているアルスに気づくと、上半身だけ起こして、手招きしてアルスを呼び寄せた。

 アルスはそっと兄のそばに歩み寄る。


「何かあったのか」


 静かな声でマグヌスは問いかけてきた。


(顔色、だいぶよくなってる。でも……)


 熱は引いたようだ。呼吸は落ち着いているし、以前に比べれば顔色もそんなに悪いわけではない。だが、やつれた感じはいまだ消えておらず、まだ完全に回復したわけではないことは少し見ただけでわかった。


「なんでもない……ごめん、起こしてしまった?」

「いや、目は覚めていた。横になっていただけだ」

「そっか」

「どうした? なんでもないって顔じゃないな」


 兄に話すべきだろうか。

 幾分元気になったとはいえ、まだ見るからにぐったりしている。余計な心労を与えて煩わせるべきではないだろう。

 けれども兄は聡い。適当な思いつきでごまかせる相手ではない。きちんと話したほうがかえって心配をかけずにすむのではないか。


「父上に呼ばれた」


 意を決して、アルスは話し始めた。


「エルディアス帝国が海を手に入れたって、そう聞かされた。それで俺に、御竜士になるのを思いとどまるつもりはないかって」


 マグヌスの表情が変わった。いや、表情が消えた。

 深く嘆息してうつむくと、兄は絞り出すような声で呟いた。


「俺は父上に見限られたか……」


(しまった。言葉が足りなかった)


 自分は廃嫡される、そう兄は捉えたのだろう。無理もない。自分も父からこの話を聞かされた時、まっ先にそのことを考えたのだから。

 アルスは慌てて言い足した。


「違う、そうじゃない」


 マグヌスはゆっくりと顔を上げると、問いかけるようなまなざしをアルスに向けた。


「兄貴を廃嫡する気はないって、父上ははっきり言ってた。ただ、兄貴の体が心配だから、荒事は俺が代わりに引き受けるべきだと。そのためには御竜士にならないほうが望ましいって。御竜士はただ一頭の竜に縛られてしまう。でも、それだと海の竜と真水の竜を使い分けられなくて不都合が多い。だから……」

「アルス」


 矢継ぎ早に言葉を繰り出すアルスを制するように、マグヌスはそっと訊ねかけてきた。


「お前自身はどうしたいんだ?」

「俺は……」

 アルスは答えに詰まる。

「……わからない」


 長い沈黙の後、ようやくアルスはそう答えた。

 アルスが答えるまでマグヌスは急かすことなくじっと弟を見つめていたが、弟の答えを聞いてわずかに目を細めた。


「そうか?」


 静かな声でマグヌスは問うた。

 思わず顔をそむけたアルスに、マグヌスはっきりとした声で言った。


「アルス、俺は御竜士になりたかった。いや、本当は今でも御竜士になりたい。年齢的には、そうだな、まだ可能性が完全になくなってしまったわけじゃない。だけどまず無理だ」


 御竜術を用いて人間と竜を結びつけられるのは、成長期の間だけだと言われている。その上限はおよそ二十歳とされており、それ以上の年齢に達した人間に御竜術が用いられることはない。

 そして候補生の試しを受けられる年齢は十四歳から十七歳までと定められている。たいていの場合、候補生になることを希望する者は十四歳になるその年に試しを受ける。マグヌスは今十七歳。今年の候補生の試しはもう終わっている。よほど特別な事情がない限り、御竜士となることはないだろう。


「だから俺は、アルス、お前が羨ましかった。御竜士になるのを当然のこととして夢見ていられるお前が、妬ましくて仕方なかった」

「兄貴?」

「俺は父上から借りて竜珠環を使ってみたことがある。あれは……すごかった。

 竜珠環を通じて竜の知覚を得ると、世界そのものが違って見える。たとえば水の中。竜の目を通してみた水底の世界は、とても鮮やかで明るい。音とか匂いとかも、もっとはっきりしていて、もっと……そう、生々しくて豊かだ。ずっとあの感覚を持ったままでいられるなら、代償に命を差し出すのもそう悪い取引じゃない」


 マグヌスの声は大きくはなかった。少しかすれてもいた。だが、湧き上がる熱気が圧縮されたような、そんな力強さがあった。

 兄はアルスを正面から見つめ、問いかけてきた。


「できるとかできないとか、すべきとかすべきでないとか、そういうのを全部取っ払って、本当のところお前はどうしたい?」


 厳しい声ではない。むしろ穏やかで優しい声だ。

 けれども逃げたりかわしたりすることを許さない、容赦のない問いだ。

 弟の答えを待たずに、マグヌスはさらに続けた。


「今の総領は父上だ。けれどいずれは俺がマルキウスを引き継ぐことになる。そう、アルス、お前の世代の総領は俺なんだ。その俺が言う。父上の考えておられることはわかる。だけど、父上の思惑に縛られる必要はない。

 たしかに俺は言うほど丈夫ではないが、極端にひ弱なわけでもない。与えられた役割はきっちり果たしてみせるさ。だからお前は、お前の望むままに歩むべき道を決めればいい」


 兄が何を言わんとしているのか、アルスは理解したと思った。

 父の思惑もアルスの逡巡も、実際に起こりうる事態もすべて考え併せた上で、兄はアルスの背中を押してくれているのだ。

 ならばその言葉に応えなくては。誠実に、ごまかすことなく。


「兄貴……俺は、御竜士になりたい」

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