1. 姉の帰還
ラウレンティウス・ウォルシウス、通称ラル。八歳。
その日、彼は初めて竜に乗った。
館の見張り塔の最上部で、ラルは空の彼方に目を凝らしていた。
秋の空は雲ひとつなく晴れ渡り、高く遠く、澄みわたっている。
もうすぐ、あの空の向こうから、飛竜が飛んでくる。
その背にラルの姉を乗せて、青い飛竜がこの館に乗りつけてくるはずなのだ。
飛竜を見るのが初めて、というわけではない。父や長兄の飛竜なら、普段から目にしている。
だが、姉アリエラが飛竜に乗ってこの館に帰還するのは、今日が初めてだ。
姉の竜は瑠璃紺種なのだという。
瑠璃紺種は小型ではあるが、敏捷性に優れ、高い知能を備えた優秀な品種だ。よく見かける銅種の飛竜に比べると少し珍しい品種だから、今までは実物を見る機会があまりなかった。それだけに、姉の帰還は楽しみでならない。
ラルは竜の図鑑を眺めるのが大好きだ。七歳の誕生祝いにと祖母から贈られた『竜種全書』は、ラルの一番大切な宝物だ。鮮やかな彩色の施されたこの図鑑をラルは飽くことなく日々眺めていて、今ではさまざまな竜の特性をそらんじるまでになっている。
堂々たる体躯の金色種、色鮮やかな翡翠種、最も疾き翼を持つ天藍種……
一番好きなのは、何と言っても天藍種だ。いずれ自分が御竜士になるならば、絆を結ぶ相手は天藍種がいい。
御竜士――それは、竜の体内で育まれた『竜珠』を額に抱き、竜と心を通わせて生きる人間のことである。
魔術とも呼ぶべき特殊な方法を用いて、竜を意のままに従えることのできる人間を生み出す。『竜の島』と呼びならわされるこの島で、メルデウス王国が大きく発展し、その版図を拡げてきたのは、御竜士を生み出す術を発見し、独占してきたからに他ならない。
ラルの属するウォルシウス家は、メルデウス五竜家のひとつに数えられる家柄であり、これまでにも多くの御竜士を世に送り出してきた。
ラルの父も長兄も御竜士だ。そして二番目の姉であるアリエラも、今、自分の竜を得てこの館に戻ってこようとしている。だから、ラルが自分自身の竜についてあれこれ想像をふくらませるのはなにも突飛なことではない。
メルデウス王国に、それも五竜家の一員として生を享けた男児が、自分の竜を持つことを夢見ないはずなどないのだから。
空の果てで、白い鳥影のようなものがきらりと光ったのに、ラルは気づいた。
影はどんどんと大きくなってくる。こちらに近づいてきているのだ。
(姉さんの竜だ――!)
ラルはごくりと息を呑み、塔を下る階段へと向かう。
飛竜は竜舎の前に張り出した露台――竜翔口に舞い降りてくる。いち早く出迎え、誰よりも先に祝いの言葉を伝えたい。
姉が自分の竜を得たことは喜ばしいことであるはずだ。たとえ長老たちが、女の御竜士を一門から出すことを歓迎していないとしていても。
竜翔口には先客がいた。
壮年の男がひとり、悄然と佇み、一心に空を見上げている。
アリアス・ウォルシウス。ラルの父親で、この館の主でもある熟練の御竜士だ。
傍に駆け寄ろうとして、ラルはふとためらう。
父は常にも増して一段と近くに寄りがたい感じがした。空を見上げる父の表情は厳しく、何かを思いつめているように見える。
黒い影が太陽の光を遮り、風が巻き起こった。青い飛竜は目前に迫り、ラルのいる場所から三十歩ほど離れた地点に、今まさに着地しようとしていた。
(本当に、真っ青なんだ……)
ラルはぽかんと口を開け、ただただ竜に見入った。
腹側の鱗は白に近い淡い空色で、それが背に向かうにつれて濃い青に変わっていく。ちょうど逆光になっているせいで、竜の巨体は影をまとっており、正確な色を見て取ることはできない。それでも、その鱗が雲母のような光沢を帯びた深い青色をしていることは、はっきりとわかった。
飛竜は皮膜のある翼を大きく羽ばたかせながら、ふわりと露台に舞い降りた。竜の羽ばたきによって巻き起こる風が、離れて眺めているラルの衣服をはためかせ、髪を乱す。
飛竜の首の付け根あたりから小柄な人影が姿を現し、そろりと地面に足を下ろした。ラルの姉、アリエラだ。
竜は長い首を回して自分の御竜士を見つめる。自分の竜を見上げてその鼻面をねぎらうように軽く撫でると、アリエラは正面に向き直り、姿勢を正した。
この前、最後に姉アリエラに会ってから、ほんの三ヶ月しか経ってない。あのときの姉は、背が伸び、大人の体つきになってこそいたものの、ほとんど昔のままだった。
だが今、飛竜の横に立っている女性は、ラルの知るアリエラとはどこか大きく違っていた。
以前は後ろで軽く結わえていた亜麻色の長い髪は、堅く編まれて頭の周囲にぐるりと巻きつけてある。表情は引き締まり、緑の瞳に宿る光には戦士の鋭さが秘められている。
何よりも目を引くのは、額の中央に輝く深紅の宝玉だ。
竜珠――竜の体内で生成される神秘の石。この宝玉を通じて、竜と御竜士は心を重ね、常にともにあるのだという。
「父上」
アリエラは眼前に立つ父アリアスにそう呼びかけると、右手の拳を軽く左胸に当て、一礼した。
「ただいま戻りました」
「よく戻った」
アリアス・ウォルシウスは静かな声でアリエラの礼に応じた。
「報告は受けていたが……よい竜だな。名は?」
「サリアです。そう教えてくれました」
「そうか」
しばしの沈黙の後、父は口を開き、言葉を継ぐ。
「明日の宴には、一門の方々もお見えになられる。長老がたは、お前に含むところをお持ちだろう」
アリエラは固い声で、やや早口に父の言葉に反駁した。
「長老様たちのお考えは旧弊に過ぎると言わざるを得ません。女であるからといって、御竜士としての能力が男性より劣るとは、私は思いません」
「そうだな。私もそう思う。
だが、アリエラ、実のところを言えば、私はお前を御竜士にしたくはなかった」
「父上?」
「御竜士は戦場に生きるものだ。課せられた使命は重く、一度竜珠を得た後は、二度とその宿命から逃れることはかなわない。娘を、おのれ自身の娘を、そのような人生に送り出したくはない。それが親としての、私の本音だ」
「父上! それでも私は……」
「だが、一家の主として、そしてひとりの御竜士として、私はお前の未来を祝福する。だからアリエラ――」
そこで父は言葉を切り、アリエラの傍に歩み寄った。そして手を伸ばし、娘の額に埋め込まれた深紅の竜珠に軽く触れる。驚いたように見上げるアリエラにそっと微笑みかけると、父は傍らに座している竜に視線を移した。
「よい竜だ。美しくて、力強い」
青い飛竜は人間たちを見下ろして、頷くように軽く頭を上下させた。そのさまは、あたかも父の言葉を理解し、同意しているかのように見えた。
離れて眺めているラルには、父と姉の会話はよく聞き取れなかった。
たとえ聞き取れていたとしても、まだ八歳のラルでは充分に理解するには至らなかっただろう。それでもわからないなりに、ラルにも伝わってくるものがあった。
本当は父と姉に駆け寄り、祝いの言葉を伝えたかった。だがふたりを包む空気は深刻で、気軽に近づくことすら憚られた。
僕がここにいるなんて、たぶん気づいていないんだろうな。
父と姉に声をかけることなく、ラル・ウォルシウスはそっと竜翔口から歩み去っていった。