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うたかたのきみ

作者: 七尾里緒

 あの日、空と海の境界がなくなってしまったあの時間。波が打ち寄せる砂浜で、私と彼は静かに歩いていた。当てもない夜の散歩は心地よく、何をしても、何を話しても許される気がした。だからだろう、私はそっと自分の願望を口にした。

「私ね、殺人者なの」

 月が見えない空は何ともまあ暗かったし、囁き声は波音に負けるほどだったのに、まるで私のことばが本物のように煌めいた。なにかがとても面白くって、くすくすと笑う私に彼はふわりと微笑んだ。作り物のように綺麗な表情だった。

「殺人者か、それは恐ろしいな」

 釣られたように彼もついに声を立てて笑い出す。実のところ、彼のことはほんの少ししか知らなかった。初めて会ったのはひと月前、同じ海岸の同じ時間のことだった。最初は慄いたし、警戒もしたけれど、でもこんな時間、こんな場所で出会うなんてきっと同じ性質の人間だろう。気まぐれの逢瀬は偶然にも重ね合わされ、今やこんな『秘密』まで共有するまでになっていたのだ。

「僕はね」

 彼が笑いを収めて、一言吐き出した。

「僕は死にたいんだ、君に倣って言うなら自殺志願者とでも言うべきか。でもね、僕には自分で死ぬほどの勇気、行動力…そんなものが欠けているんだ」

 微笑みながら、優しいまなざしでこちらを見つめながら、彼はそう吐き出した。

「ねえ、君は殺人者なんだろう? だったら僕を殺しておくれよ」

 そんな不吉で幸せに塗れた言葉を、私はほかに知らなかった。あまりにも尊くて、私はそれを冗談にすることができなかった。


 彼の殺人は数日後の同じ場所、同じ時間、つまり二人が出会った夜の海で行われることになった。正直腕力も何もない私にできるかわからなかったが、準備は彼の方でするとのことだった。

「僕にだって理想の死に方ぐらいあるんだ。でもなかなか踏ん切りがつかなくってね」

 私にできることなんてあるんですか、と訊いたときの返答だったと思う。毎晩海辺に訪れて、おんぼろの船を修理している光景はまるで死ぬ準備とは言い難かったのだ。

「僕の計画はこうだ。この船で海に出るだろう。そのときに水も何も持っていかないんだ。船に乗る前に大量の睡眠薬を飲んでからね。そうしたら僕は眠ったまま漂流し続ける。この船はいい具合にぼろいからね、ある程度流れたら沈没してくれるだろう」

 それはまるで夢物語みたいな、理想的な死に方だった。眠ったまま、おぼれて死ぬ。『うまくいけば』彼は息苦しさも渇きも何も知らないままに絶命する。

「君にはね、最初の船を押し出すところをやってほしいんだ。僕はそれまでに眠っておきたいから」


 結局、彼が満足する程度まで船が直されるには予定より時間がかかってしまい、一か月後にようやく執り行われることになった。

「よろしく頼むよ」

 死ぬ前だって言うのに彼はいつも通りの優しく微笑んでいた。手のひら大の瓶一杯に入っていた錠剤を飲み尽くした後は静かに船底に横たわっていて、まるで死んだ人だな、なんて思っていた。

「いくよ」

 別れの言葉は端的で、届くはずがない。果たして無力の私は、杞憂だった脆い船と眠る男性一人分の重みにぎりぎりで耐えられた。船全体が水に浮かべばあとは沖まで押し出すだけで、まるでこれが殺人だとは思えなかった。自分の腰が海に浸かった時点で船を力いっぱい押し込む。ゆらゆらと揺れて、波にさらわれる船を見送ることなく私は背中を向けた。

 そういえば最後まで彼は自分のことを話してくれなかった。なぜ自殺をしたいのか、なぜあの海岸に来ていたのか、なぜあの死に方だったのか。

「私はきっと踊らされていたのね」

 それは彼の掌で。彼の言葉で。

 彼は最初から、私が殺人者だって信じてなかっただろう。実際に殺す時も、彼が乗った船を海に放っただけで、準備も死ぬ過程も私は何一つ触れていないのだから。

 何も明かされることなくなされた一人分の死は、そっと波にいつの間にかさらわれて。殺人者の私もそっと海の底へ、泡となってしまった。


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