十三、 ふじ
ほとんど寝付けなかった。レイさんよりも早く起きなければというプレッシャーからか、それとも上手く森から出らるかという緊張からか。理由は分からないけどとにかく眠れなかった。
そろそろ出なくては。私はそっとベッドを抜け出し、音を立てないようにレイさん仕込みの服を着て、靴を履いた。もうすっかり一人で着ることが出来るようになった。私はレイさんに書いた手紙を花瓶の下に置いた。気付けば花瓶には紫色の花が七本刺さっていた。私がこの森に来て毎日一本ずつ増えている。ここへ来てもう一週間以上たつのか。いつの間にか花の本数がカレンダーの役割を果たしていた。この匂い、この手触りも今日でお別れ。最後に一撫でして私は外へ出た。
外は薄暗く、まだ月が出ていた。壁の方へ傾いていたので、もうすぐに朝になると思った。
急がなければと思い、私は歩を進めようとしたその時、暗くて良く見えなかったけど、確かに人影があった。微かに鼻をくすぐる高貴な花の匂い。懐かしい、胸にこみ上げてくる。もしかして、この人。
「テト……すごく久しぶり」
「……」
何も言葉は発しないが、ぴくりと小さく体が動くのが見えた。私はゆっくりと近づく。月明かりの力を借りて見えた顔は間違いなくテトだった。手にはあの花瓶にあった花が一輪。毎日テトが持ってきてくれていたんだ。 「商店街」に行った日以来、テトが私の前に姿を現すことは無かった。ルモイさんが言ってたみたいに、テトが私に会うことで状況が悪くなるならば、会わなくてもいいと思っていた。
「答えなくてもいい、だけどこれだけは聞いて」
「……」
「毎日、綺麗な花をありがとう」
「……」
「これ、テトに生えている花だよね?私、この花すごく好き」
「……」
「匂いを嗅ぐと何故かおじいちゃんと森にいた時のような、懐かしい気持ちが蘇ってくるの」
「……」
「だから日に日に増えて香りも強くなって本当にしあわっ」
気付いたら私はテトに包まれていた。耳の横で息遣いが聞こえ、そのテンポにつられそうになる。そして、毎日花瓶から香っていた花の匂いが直に脳へ入ってくる。
思わず酔いしれてしまいそうだ。やっぱり懐かしいという言葉が一番合う。なぜだろう、昔どこかでテトの花を嗅いだのかな。
記憶をがんばって掘り起こそうとした矢先、テトは私の体を開放した。少しその体温が名残惜しかった。
その後、テトは私の右手を掴み歩き出した。このシチュエーション何度目だろうと思いながらも引っ張られるままついて行った。説明を求めてもきっと何も言わないんだろうな。
どんどん前へ前へ進んだと思いきや、少し止まって私の息が整うのを待ってくれるテト。さっきからずっとこの繰り返しだ。
「ねぇっ、テト。ちょっと……」
「何だ」
「これっ、どこに向かってるの?」
「今すぐ分かる」
やっと話したかと思えば短く言って、また手を引っ張られる。もう、私があなたよりも体力無いって分かってるくせに……
それにしても、本当にどこに向かっているんだろう。かれこれ数時間歩き続けている気がする。答えてくれないと分かっていたが、結構限界だった。日が出る前に連れて行かれたからお腹もかなり空いてきた。あと、汗がずっと出ているせいですごく、喉が渇く。
一歩ずつ足を動かしては息が苦しくなり、目の前に見える景色に陰りが走る。その度に足を止めて息を整える。周りには同じ様な形をした木が隙間無く生えている。だからどこへ進んでいるのか検討がつかない。
テトという案内人が居なければきっと私はここで朽ち果ててしまう。それ以前に私は一歩も前へ進めなくなる。そう思った瞬間、すごく怖くなった。
「ほら、行くぞ」
テトが私の手をまた引っ張る。私は、力を振り絞ってそれに応える。
「はぁ……はぁ……」
やっと、頂上らしき所にたどりついた。
「遅い」
「なっ、テトが、早い……だけ、でしょ」
「息切れすぎ」
「うー……」
テトは眉一つ動かさないで言い放った。私はもう立っていられなくなり、その場に座りこんでしまった。手は繋がれたままだ。どうして君は息一つ切れていないのさ。
改めて後ろを振り返り、さっきまで歩いていた道を眺めた。険しい道のりとはまさにこの事を言うんだなと思い知らされる。
「大丈夫か」
「うん、なんとか」
「よし、じゃあ行くか」
「えっ、まだ……」
「もう少しだから」
もう体は限界だ。しかし、ここで置いていかれるのは嫌。私は震える足を押さえて立ち上がった。一歩ずつ、今度は降りていく。さっきまで登ることに神経を注いできたせいで感覚が何だかおかしい。二歩、三歩、四歩と進むにつれ周りに生い茂っていた木が薄くなり、視界が綺麗になってきた。
「着いた」
その言葉の直後に最後の一歩を踏みしめ、ようやく辺りの景色を確認できる余裕が生まれた。
「これは…………」
目だけでは収まりきれない被写体。ゆっくりと右左動かしてその全体像を把握する。広々とした裾野から徐々に斜め上へと辿って行くと最終的には天に突き上げるように聳え立つ山見えた。
「富士山だ」
「うわぁ……」
レイさんの家からはてっぺんしか見えなかった。けど、それだけでもすごく幸せだった。なのに今は全部見える。
多分おじいちゃんに貰った富士山の絵葉書よりも何倍も近くで見ていると思う。だってきっとここから写真とっても全部写らないから。さっきまで立ち上がれないほど疲れていたはずなのに、どこかへ行ってしまった。まるで富士山が全部吸い取ってくれてるみたい。
「テト、ありがとう」
「別に……」
ぷいと顔をそらされた。心なしか少し顔が赤くなっている気がする。もしかして、照れてるのかな。
「そういう時は素直に「どういたしまして」って返すもんでしょ」
「っ……俺はそんな」
「ふふっ、こうやって喋るの二回目だね」
テトの反応が面白くて思わず笑いが出てしまった。今度は日の光に負けない位赤くなっていた。
「あ、そういえば本当の名前まだ聞いてない。なんて名前なの?」
「テトでいい」
「えっ、何で?本当の名前じゃなくて嫌じゃないの?私はちゃんと名前で呼ばれたいけどなぁ」
「数えるほどしか呼ばれたことのない俺の名前に、意味なんか無い」
テトは寂しそうに富士山へ視線を移した。
そっか、テトはテトラの次期総帥。そういえばルモイさんや街の人たちみんな、テトのこと皇子とか呼んでた。あ、でもレイさんはクソガキって……あれはまた別か。
「分かった。じゃあ心置きなくテトと呼ばせてもらう!その代わり、テトの花の名前教えてよ」
「これのことか?」
「そう。レイさんのは弟切草って言うんだって。何か切れ味たっぷりな名前だよね」
「あいつにぴったりだな」
「でしょ!テトの花の名前も気になってレイさんに聞いたんだけど、そういうのは本人に聞いたほうが良いって言われて教えてくれなかったんだよね」
テトの視界に無理やり入り、眼をじっとみた。
「ね、教えて」
「藤」
「えっ、富士山?」
「違う。聞こえは同じだが、字が違う」
テトは地面に『藤』という字を書いた。そっか、この花は『藤』っていうんだ。
「すごい……『藤』と『富士』読み方一緒なんだね。そんな花が生えてるなんて、素敵!」
テトがこれでもかと言うくらい、目を丸くした。
「えっ、ごめん。私なんか変なこと言った?」
「いや、大丈夫」
言葉に反してテトの目からひと筋透明な線が流れた。もしかして、泣いているの?覗き込もうとしたら後ろを向いてしまった。
「見るな」
それだけ言ってテトは黙ってしまった。なんとなく声を掛けづらくて、私も何も喋らなかった。
富士山に太陽の光が強く当たり始め、鳥や動物達の鳴き声がそれを歓迎しているように聞こえた。風が汗を吹き飛ばしてくれてすごく気持ちがいい。あれから何分経ったのだろうか、テトがようやくこちらを見た。
「昔、同じ事を言った人がいた」
「それって、料理を作ってあげた子?」
「そうだ」
「そっか、テトはその子のこと好きだったんだね」
「なぜそう思う」
「なぜって、その子と同じこと言っただけで泣いちゃうんだよ?好きじゃなければなんなのよ」
「そうだな。そうかもしれない」
テトがそう言って優しく笑った。こんな表情始めてみた。楽しい頃を思い出しているんだ。なぜか、針が一つ私の心に刺さった。ルモイさんももしかしたらこんな気持ちだったのかな。テトが料理の子のことを想って泣いている。なんか心苦しい……って何考えているんだろう私。まるでテトのこと好きになってる人みたいじゃない!
「そろそろ戻るか」
テトがそう言って私の手を取った。しかし、今度はそれに従うわけには行かない。
「うん?どうした」
「戻れない」
「なぜ?」
私は口を一つに結んで首を横に振る。テトはため息をついた。
「ルモイだろ」
「え、何でそれを……」
「当たった、やっぱりな」
「もーっ、引っ掛けたな!」
「お前が単純すぎるんだよ」
「ぐっ……」
「で、どこへ行くつもりだったんだ」
「え、と……とりあえず、壁の外へ出ようと」
「で、そこから?」
「ノープラン……あはは」
「あほか。よくて死ぬぞ」
テトにばっさり切られ、私はへこんだ。分かっていたけど行くあてなんか無い。両親も信じられない。学校も……どの道私に行き場なんて無いんだ。おじいちゃんもとうの昔に亡くなっちゃったし。
「どうせそんな事だと思ったよ。お前はいつも考える事が雑なんだ」
「すみません……」
またテトに薄く笑われた。また馬鹿にされたよもう。
「こいよ」
「え、また?どこへ行くの?」
何も答えず、テトは坂道をぐんぐん下って行く。私も必死に付いて行くが、急すぎて手をつけながらゆっくりと降りて行った。どうしてそんなサクサク進むのか不思議でしょうがない。
時折落ち葉で足を取られて、ほとんど落下しながら降りて行く。富士山がまた森の中へ消えてしまった。木の隙間から覗かせる山だけを楽しみに遠くの方にいるテトを追いかける。
やっと平地になったと思ったら、遥か先にきらきらと光るものが目に入った。歩いて近づくにつれ、徐々に大きくなっていく。
「湖……?」
光の正体は揺らめく水に太陽が反射しているから。どんな宝石よりもこっちの方が断然綺麗。
木のカーテンがやっと終わり、空と湖、そして富士山が見える。湖がセットになるとより一層輝いてる。
「ここも綺麗だろう」
「うん。ほんと……」
「凜に見せられてよかった」
「へ、いまなんて?」
「なんでもない、乗れよ」
テトは湖の畔にあるなんとも珍妙なものを指差した。
「え、乗るって。これに?」
「ああ」
黄色い大きな筒。そして南区で見たことある。確かキリンだ。その首がちょこんと上に乗っかっている。直線上に尻尾も生えている。そして筒の下には小さな車輪が四つ。これに乗ると言うのか?
テトの表情を見てもふざけている訳じゃなさそうだしな……
「ふざけた乗り物だろ」
「えっ、うん。かなり」
「でも大丈夫だ、保障する。開け」
テトの声に反応して、筒の一部が開いた。ちゃんと椅子がある。これも黄色い、ふさふさした毛が生えている。
私はテトの言葉を信じて、椅子に座った。思った以上にやわらかくて体が沈んだ。まるで家にいるみたい。
キリンの筒が閉じる。何の切れ目もなく元に戻った。一体これはどういう作りになっているのか見当がつかない。
テトは服の中から一枚の紙を取り出した。それをなんとキリンの口の中に入れる。少し経って焦げ臭い匂いがした。キリンの目が光りだす。
「テト今のはなに?」
「これから行く先を書いた紙だ」
「どこへ行くの?」
「着けば分かる。じゃあな、凜」
キリンの乗り物は私を乗せて湖の方へとことこ動いた。水の中へ入ってしまうと思いきや、そんな事は無い。徐々に高度を上げ、気付けば木よりも高いところへ居た。テトがすっかり見えなくなってしまった。
なにこれ、オートカーよりも早い。急激に高いところへ来たので耳が痛い。私は必死に唾を飲んで戻した。
進みながらぐんぐん高度を上げていく。しかしスピードは多少弱まった。もしかしたら気圧が急に変わらないよう気を使ってくれているのかな。
それにしても景色がすごく綺麗。うっそうと茂った森にダイヤのような湖。商店街はあの辺かな?レイさんの家は……
レイさん、無事かな。街の人たちともめてないかな。手紙読んでくれたかな。
せめて私に料理ができたら、力があったらレイさんに沢山お礼できたのにな。ずっと助けられてばかりだったな。
多くのものをくれた森は徐々に遠くへ行った。その代わり、葉っぱも何もついていない枯れた木。そして、山積みにされた「何か」が目に入る。
良く見ると、汚くなったオートカーや食べ残した容器。
私の背丈ほどある頑丈な鉄の缶も一緒に積み上がっている。ここは一体、何?ごみの山……そういうことなのだろうか。
私はその中で衝撃的な光景を見つけた。小さい子供が三人、私よりも首二つ小さな子と、更に小さな子、もう一人は一番大きい子に抱きかかえられている。その子達はごみの中を歩き、時々手にとって袋の中へ入れている。
服とは言えない位、ぼろぼろの布をまとい肌がむき出しになっている。体には植物が生えていない。もしかして、テラシティ出身の子なのだろうか。
一番大きい子が何かに気付いた。ごみの山の陰に三人身を隠す。私は視線の先を見た。顔は布で覆われていて良く見えなかったがテトや私が着たのと同じ、灰色のマントを羽織っていた。恐らくテトラの人だ。体の大きさからして大人……二人ほど居る。
テトラの人たちは周りを見渡している。恐らくさっきの子供達を捜しているんだ。
あっ、見つかった。子供達は必死に逃げたけど、テトラの人たちが持っている「何か」で撃たれ、そのまま倒れてしまった。テトラの人たちが子供達を抱え、森の奥へと消えていく。
私も下手したらこうなっていたのかな。きっとこの子達はテラシティの誰かが捨てたんだ。私がお母さんに毎日言われていた様に、きっと子供を育てることよりも自分達の人生が大事だったんでしょう?じゃあ何で生んだんだろう。無責任すぎるよ。
私はこれ以上ここの景色を見たくなかったので椅子に深く腰掛けた。見たら昔の事を思い出して泣いてしまいそうだったから。
灰色の巨大な壁が目の前に現れた。ゆっくりと、今度は真上に上がっていく。さようなら、レイさん、テト。
素敵な記憶をありがとう。守ってくれてありがとう。
壁は消え、雲の中へ入った。少し水平に動き、今度は地上へ下降する。そこからは速かった。すべり落ちる様に、空を下り、気付けば森の家の目の前に居た。
筒がまた開く。ここで降りろって事かな。私はゆっくりと立ち上がり外へ出る。すると、キリンの筒があっという間に小さくなり、手のひらに乗る位の大きさになった。乗りもにもなれて人形にもなれるなんてびっくり。指先でつついてみても、目は光らなかった。私は懐にキリンをしまった。玄関の前にあるカメラに顔を映すと、扉が開いた。私は家の中へ入った。
一週間ぶり。やっと帰ってきた。とにかくお風呂に入りたい。私は廊下を真っ直ぐ進みドアを開け、わき目も振らず、脱衣所へ入った。そして、マントを脱ぎ、体に巻きついている布を剥いだ。
風呂場の中の鏡を見て私の頭は真っ白になった。
右腕を左手で触った。確かにある。薄緑色の細いツルに丸い葉が三つずつついている。葉の間から白くて細かい花びらがの花が顔を覗かせている。
え、なんで。そんなはずは無いのに……。私はテトラじゃないのに。




