2 命の恩人と精霊術
目をゆっくりと開くと、まず最初に目に入ったのは木製の天井だった。
「……生きてる、のか?」
天国なのだろうか? とは思わない。
ある程度和らいではいる物の、確かに纏わりついている激痛がまだ自分は生きているのだろうという憶測を掻きたてる。
「ってて……」
寝かされていたベッドからゆっくりと体を起こす。
八畳程のその部屋は、来客用の寝室とでも言わんばかりに派手な装飾もなく、落ち着いた印象を受ける部屋だった。少なくとも病院の病室などでは無い。
「此処は一体……」
「僕の家ですよ」
声と共に部屋に一人の青年が入ってきた。
右手に漫画なんかに出てきそうな刻印を刻んだ、赤髪碧眼の長身。海外のモデルですと言われれば信じるであろうルックスを持つ彼は、心底安心しきった様な様子で俺に言う。
「とりあえず、無事に目を覚ましてくれて良かった。森で見掛けた時はもう駄目かと思いましたよ」
森で見掛けた……つまりこの人が俺を助けてくれたのか。
「あなたが助けてくれたんですよね……ありがとうございます」
素直に礼を言うと、青年はニコリと笑いながら言う。
「いえいえ。困った時はお互い様ですから。何も気にしなくていいんです」
その浮かべられた笑みからは、所謂裏側というものを感じさせない。
この状況を見るに、救急車も呼べなかったようなあの状況で、死にかけの重傷を負っていた俺をただ純粋な善意で救ってくれた。そう感じさせる様な笑みだ。
……どうやって?
「すみません、一ついいですか?」
「なにかな?」
あの状態の俺は、素人の民間療法でどうにか出来るレベルの怪我を優に超えていた。なのに……俺はどうして生きている?
「あの状態の俺を、一体どうやって助けたんですか?」
「どうって、精霊術ですよ。流石にアレ無しで治せる状態ではありませんでしたから」
「精霊術?」
何なのか分からないその単語を聞いた時真っ先に思い付いたのは、意識が途切れる直前に何度も目にしている魔法陣。
そこまで考えた所で、青年は俺が精霊術を知らないと判断したのだろう。
「どうやら少し記憶が飛んでいる様ですね。流石に精霊術を知らないというのは、普通の状態じゃありませんから。だとするとそこまで修復出来なかった事を謝らせてほしい。済まないね」
「あ、いえ……」
青年が謝るタイミングでは無い事も理解しているし……そもそも俺が記憶喪失なんかしていない事も理解している。
何一つ抜け落ちずに、今に至るまで見てきた事は記憶している。だから精霊術なんて呼ばれるものは、忘れたのではなく端から知らなかった筈だ。そして俺が知らないとなれば、それは多分世間一般的に知られていないという事になる。
だとすれば、知らない事は普通じゃないというのはどう言う事なのだろうか。
考えられるとすれば、知らなくて当たり前だった所から知っていて当たり前の所に飛ばされた。そしてそれはもしかすると、池袋から地球の裏側にある森へと飛ばされただとかそういう次元では無く、文字通りの違う世界。所謂異世界という奴にだ。
そんな物の存在を呑みこめるかといえば否となる。だけどこの目で何度も超常現象を面にしている時点で、俺の常識が真実かどうかは分からないし、なにより俺を死の淵から呼び戻した様な無茶苦茶な力、精霊術なんてのが実際にあって、それが当たり前に人に知られているのならば、例えそれが地球の裏側の事であったとしても、その力は不定期に報道機関のニュースなどで報道される。それが全く及ばない所となれば……もう、そういう無茶苦茶な仮説を立てたって仕方が無いだろう。
「修復できなかったといえば、まだキミの治療も済んでいないんだ。僕はその続きをする為に此処に居る」
そう言った青年は俺に右手を翳す。
次の瞬間、青年の足元に今まで見てきた物と同形の黄緑色の魔法陣が展開され、俺を中心に光の粒子が立ち上り始める。
「これが精霊術です。思い出せましたか?」
「あ、いや……すみません」
「そうですか……まあ良いでしょう。例え思いだせなくてもいずれ目で、耳で。自然と脳に知識は刷り込まれて行きますから」
そう言いながら青年は精霊術と呼ばれるものを行使し続ける。
それは言わば魔法の様な物だった。つまるところ、今使われているのは回復魔術といった所だろうか。
「本当は一度で完治させたかったのですが、回復術は基本的に徐々に肉体を再生させていく仕様になっていますから……あなたをさっきまでの状態にした所で、昨日は僕も体力切れです」
青年の言う通りこの術の効果は徐々に効いて行くのだろう。
現に痛みの変化が分からない。痛い物は痛いままだ。でもきっと認識できない様な速度で治療は進んでいる。
そんな気の遠くなる様な作業を、自分の体力ギリギリまでやってくれた……本当にこの人には感謝してもしきれない。
だからこそ……これ以上の迷惑はかけられない。
「すみません。もう大丈夫です。多分体は動きますから」
「いや、でもまだ完治していませんよ? やるならしっかりと……」
「いいんです。命の恩人をこれ以上酷使したくありませんから」
「そう……ですか。まあ普段ならその好意も突っぱねて無理矢理にでも治療しようとしてると思うのですが……今日の所はお言葉に甘えさせていただきます」
精霊術を止めながら、青年は言う。
「実は今日、夕方に結構体力を使いそうな仕事が控えていまして」
……この人俺が止めなかったら、それを踏まえて治療しようとしてたのか。良い人すぎるだろ。
「ですがまあ、僕はキミを完璧に治療する気でいましたから。それをしないのであれば、他で埋め合わせをしましょう」
「埋め合わせって……」
これ以上迷惑は開けられないと思って取り止めてもらったのに、それじゃあ同じ事だ。
それに、別に助ける事は義務じゃない。Aという仕事ができないから代わりにBをするというならともかく……コレは埋め合わせとかそういう事をする様な状況じゃないだろう。
「うーん。どうしようか……仕事は午後からときたら使えるのは午前中……」
しかしまあ、目の前で色々と考えてくれているところを見せられると、突っぱねる気は無くなってくる。これは多分、迷惑にならない程度に頼らせてもらった方がいいだろう。
「そうだ。お腹すきませんか? いい店を知っているのでそこでお昼でも。ああ、当然こちらから誘ってるんで奢りますよ」
……すげえ。もうなんだろう……この人、いい人すぎるだろう。助けてもらって飯まで驕りとか。無茶苦茶申し訳なくなってくる。はっきり言ってお金が掛かるる事は断った方がいいのではないだろうかとも思った。
だけどまあ……腹は減っていた。
「あ、ありがとうございます」
誠一が挑むのを放棄したチャレンジラーメンの後は、食い物自体を暫く見たくないと思ったけれど、やっぱりなんだかんだで時間が経てば食欲は沸く。だけどまあラーメンはまだ食べたくない。
……行った店がラーメン屋だったらどうしよう。
コレ事前に確認取った方が良いんじゃないだろうか。行って喰えませんじゃ失礼すぎる。
……いや、聞くならばその前に聞いておかなければ行けない事があったか。
本来ならば、もっと早くに聞いておくべき事だ。
そしてその聞いておくべき事は、青年の方から尋ねられた。
「ところで今更になりますが……キミの名前は?」
そう、自己紹介という大事な事を行っていなかった。
「瀬戸栄治です。あなたは?」
「エルドです。以後よろしく」
よろしく、か。……これ以上よろしくしてもらう訳にはいかないし、何かしらの形で恩を返さないと駄目だなコレ。
そんな事を考えながら、俺はゆっくりとベッドから降りて立ち上がる。
立ち上がってようやく気付いた事だが、俺の着ている衣服は血塗れで、何か服を借りなければいけないし、シャワーも浴びないと行けない。寝ていたベッドだって血塗れだ。
だけどそれもエルドさんは許してくれるのだろう。
そんな様な善人だからこそ……尋ねづらかった。
あの森に居た女の子は、人間に激しい怯えと怒りを抱いていた。
そしてあの少女のすぐ近く。多分百メートル程しか離れていない所にいる俺を、エルドさんは助けてくれた。つまりはあの場所に何か理由があって訪れていた。
それが何ともない事であるならそれで良い。
だけど……あそこにエルドさんがいた事と、少女の怯えに関係性があるとすれば?
そういった事を尋ねるのは……まるで何かの罪を擦り付けようとするようで、少なくともエルドさん相手には出来なかった。
だからそういう話題に繋がる様な事……あの場で起きた事は伏せられたまま、俺はシャワーを借り服を借りる。
その後連れられる様に俺は家の外に出た。
そこまでだ。
エルドさんをただのいい人だと思えたのは、そこまでだ。