表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
人の身にして精霊王  作者: 山外大河
六章 君ガ為のカタストロフィ
265/426

65 リミット

 それは何の前触れもなかったのだと思う。

 思い返してみるとエルが初めて暴走した時もそうだった。

 それまで前兆の様に度々頭痛を訴えてはいたが、最終的に暴走する前に緩やかに進行するような症状はなかった。あの日も何事も無いように映画を見て過ごしていたんだ。


 だから前触れなんてのはなかった。

 徐々にではなく唐突に、事態は進行する。

 猶予期間を過ぎてしばらくして、エルを激しい頭痛が襲った。


「い……ッ!?」


 それまで山小屋の中で座って俺と話していたエルは、突然襲ってきた頭痛に頭を抱えその場に倒れこむ。

 そしてその瞬間に俺の刻印から伝わってくる感覚は、あの時。エルが暴走した時と同じものだった。

 悪寒が走る。この後エルに起きることが予測出来てしまう。


「おいエル! 大丈夫か! エル!」


 だから、その言葉は半ばすがりつく様な物になってしまう。


「はな……れてください……エイジさん!」


 エルが声を絞り出す様にそう言った。

 エルの右手はこちらを自分から遠ざける様に俺に向けて伸ばされている。

 だけど離れられる訳がなくて。それどころか俺には何もできなくて。

 気がつけば俺は伸ばされたエルの手を握っていた。

 このままエルの自我が掻き消えてしまわぬように。

 このままエルがどこかにいってしまわぬように。


 そして次の瞬間だった。


「……え?」


 刻印から伝わってくる悪寒が僅かに柔らいだ。

 完全にではない。だが確かにそれは柔らいでいるんだ。


 ……そしてエルの自我もまだ確かにそこにあった。


 エルは辛そうな表情で俺に言う。


「まだ私は……ちゃんと私のままです。そう……ですよね? エイジ、さん」


 そんな当たり前の事を確認するように。そうであることを願うように、エルは頭を抱えながら俺に聞いてくる。


「あ、ああ! ちゃんとお前だ! 消えてなんかいない!」


「……よかった」


 エルは痛みに耐えながら、それでも少し安堵したように、表情を緩める。


 だけど感覚で分かる。今……間違いなくエルは暴走しかけた。


 だがあの時、突然の頭痛と共に意思を奪われた時とは違う。今回は耐えられた。踏みとどまれたんだ。


 自らの暴走を、押さえ込めたんだ。


 ……そうできた要因として考えられるのが薬の影響だろう。

 それが本来期待された作用なのか副作用なのかは分からないが、その薬の投与がエルがSB細胞による自我の消失に抗う為のきっかけを作った。多分それは間違いない。でなければあの時の様にエルの意識は抵抗することもなく掻き消えていた筈だ。


 とにかく、それは突然沸いて出た希望だった。


 その効果がなければ俺達はここで終わっていた。エルが暴走しそこで全て終了。

 そうなる筈だった未来がこうして強引に軌道修正された。必要なのが精神論なのかどうなのかは分からないが、エルが耐えさえすれば俺達は異世界へと到達できる。

 きっと絶望的に欠けていたピースが今偶然埋まったんだ。


 ……だがそれを素直に幸運と呼ぶ事はできない。


「エル、頭痛の方は……」


「だい……じょう、ぶ……です」


「……ッ」


 これほど分かりやすい嘘はなかった。


 絶望的な危機を回避する術を手に入れた。

 溢れ出てくる何かをなんとか一時的にでも抑え込む事が出来ている証拠に、刻印から伝わってくる悪寒は随分と収まっている。

 だがその余波はまるで収まらない。

 エルの体は薬の副作用とSB細胞が齎す頭痛に蝕まれ続けている。


 だとすればきっと幸運とは言えない。


 あと何時間あると思ってるんだ。

 今現在の時刻は午後2時。明日の12時まであと22時間もあるんだぞ。

 その長い時間を、暴走状態にならないように何かを抑え込みながら、こちらが目を背けたくなるほどに辛い症状に耐えつづけなければならない。

 ……なんだよそれって、そう思う。

 なんでこうなるんだって。理不尽だろって。そう思う。

 そして……今、目の前でエルが苦しんでいるのに。


 俺にできる事は何もない。


 その痛みを代わってやる事も、治してやる事も。それをどうにかしてくれるかもしれない誰かの所に連れていくような真似も。

 何も何も何も何も。今の俺にはできない。


 何も……してやれない。


 そう考えたけど……そこで、踏みとどまった。


「お願い……します」


 エルに手を強く握り返されて踏みとどまった。


「もう少し……だけ、手、握ってもらっていても……いいですか?」


 俺には何もできないかもしれない。

 だけど……もう、エルの隣に居られるのは俺だけなんだ。

 縋れるのは……俺だけなんだ。

 だったらこんな所で立ち止まってはいけない。

 数時間前とはもう何もかも違う。

 俺より辛い筈のエルに慰められるような情けない自分でいてはいけない。

 支えないといけない。俺が支えるんだ。

 だったら何度だって考えろ。今俺がエルにしてやれる事って一体なんだ。一体俺に何ができるのか、なんでもいいから絞り出せ。


 そういう風に必死に考えた。エルの手を握りながら、ただひたすらに考えた。


 結局何も見つからなかったけど。


 現実はそう簡単に打開策なんてのは用意してくれない。

 本当に、ただエルの隣りにいてやるという、何かをしたわけでもない当たり前の事しか俺にはできなかった。

 だから俺はエルを慰めるような言葉を掛けるだけで、根本的な問題解決の手段は見付けられず。

 ただ時間だけが過ぎていく。

 いや、その時間が中々進んでくれないんだ。


「……ッ」


 もう随分と時間が経ったと思い時計を見てもまだ10分ほどしか経過していなかったりという事が多々あって、体感速度というものは本当に理不尽なものだと思い知らされる。

 苦しい時間程、圧倒的に長く感じるんだ。


「……」


 とにかく早く時が進んでくれと、そう祈った。

 だけど祈りは届かず、本当に緩やかで息苦しい時間が流れる。


 やがて時刻は深夜0時。本来ならばもう眠っている筈の時間だ。


「寝なくて……いいんですか?」


 エルが俺にそう聞いてくる。


「お前も眠れないだろ。だったら俺も寝ない」


 眠れる様な精神状態ではないのもあるけれど、それよりも今のエルを一人にしておくわけにはいかない。

 起きていたからって何かできるわけじゃないけど。


「……すみません」


「謝んな。寧ろ謝るのは俺の方だ……悪いな、何もしてやれなくて」


「……隣りに居てくれるじゃないですか」


「そんなのは当たり前だろ」


「……その当たり前のおかげで、こうして耐えられるんじゃないですか」


 そしてエルは一拍空けて言う。


「……ありがとうございます、エイジさん」


「……おう」


 そんな事でいいのかは分からない。

 だけど俺が当たり前だっと思っていた事でエルの支えになれているのなら、それは本当に良かったと思う。


 そしてそれからも緩やかな時間が進み、夜が明けた。

 まだエルの自我は失われておらず、異世界へと渡る精霊術が使える様になった感覚もない。

 ……あと少し。

 ……あと少しですべてうまく行く。

 エルが今まで必死に耐えてきた痛みからも解放され、自我を失う心配も無くなる。


「……エル、あと少しだ。頑張れ」


「……はい」


 そして、午前11時半。その時は訪れた。

 この長い時間、エルは本当によく頑張ったと思う。

 具体的にどういう風に暴走を抑え込んでいたのかは分からないけれど、それは間違いなく苦しい物だという事は理解できて、エルが必死に耐えてくれたからこうして此処までエルの自我は保たれたのだと思う。

 だからこそ思うんだ。




 どうしてこの世界も、異世界も。精霊にとって理不尽しか振り下ろさないのだろうと。




 刻印から伝わってくる悪寒が増した。

 そう感じた次の瞬間。本当にただそれだけを感じた瞬間だった。

 横になっていたエルが勢いよく起き上がり、俺は咄嗟に肉体強化を発動させ、エルから僅かに距離を取る。


「……ッ」


 視線の先にいるエルに、自我が残っていない事が明確に理解できた。

 あの時俺の首を絞めた時の様に。

 他の暴走した精霊の様に。


 禍々しい雰囲気を纏ったエルがそこに居た。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ