1 森の中の邂逅
「……ッ」
視界に移る極黒と言ってもいい様な黒は、直感的な死を連想させた。
連想した瞬間に体が浮遊感に包まれる。
「う……ッ」
まるでバンジージャンプでもさせられた様な浮遊感に、思わず食べた物をそのまま吐きだしそうになる。それを堪えていると……目の前の黒が茶色に移り変わった。
正確には、土が目の前にあった。
そう認識した時には、俺は地面に叩き付けられる。
「いった……ッ」
それ程の高さではなかったのだろう。痛いと言ってもそれ程痛かったわけではない。
そう……痛みを感じられた。つまりはまだ生きていた。
「ってて……」
ゆっくりと体を起こして当たりを見渡す。
その光景はさながら森の様だった。
「……森?」
……ちょっと待て。
散々色々な事があったが、俺の居た所が池袋だった事は間違いない。間違いない筈なのに……なんだよこの四方八方に生い茂る樹木は。
「一体何がどうなってんだよ……」
都会のど真ん中に居たのに気が付けば森の中なんて……一体何をどうすればこうなるんだ?
だけどどれだけ考えてもその答えは出てきやしない。
それもそうだ。
そもそもこの状況を招いた、あの大通りでの一件。
その中で起きていた事の全てが全くもって理解できていないのだから、俺がこんな所に居る理由なんてのが分かる筈も無いのだ。
だけど分からないからといって、この場でただ呆然としている訳にもいかない。
とにかく状況を把握する為に人を探す。考えるのはそれからだ。
俺はゆっくりと立ち上がる。
整備されていない周囲の地面を見る限り、そもそもあまり人が立ち入る様な場所では無いのかもしれない。だとすれば一体どの位歩けば人に出会えるのだろうか。
それが分からなくても歩くしかない。
そんな思いで第一歩を踏み出そうとしたその時だ。
背後から草木を分けるガサリという音が聞えた。
俺は反射的にその音の方向に振り返る。
そうして視界にとらえた存在を見て俺は思わず言葉を失った。
そこに居たのは、白いフード付きのコートを身に纏った女の子だった。
年は俺と同じ位で、ショートヘアーの髪は染めているのか薄い青色に染まっている。顔立ちは非常に整っていて……文字通り言葉を失ってしまうほどに可愛く、そして神秘的な印象を醸し出していた。
だけどどうやら、そういう好意的印象を抱いたのは俺の方だけだったらしい。
同じくこちらに気付いた少女は、まるで何かに怯えた様に声を上げる。
「き、消えてください。そこから一歩でも私に近づいたら……命は保証しませんよ」
怯える少女から向けられていたのは明確な敵意の目。そして敵意と共に向けられた右の掌は、何かの道具を使っている訳ではないのに発光し……そして、少女の足元には魔法陣の様な物が展開されていた。
「……ッ」
フラッシュバックしてくるのは、あの時俺が助けようとした少女が展開させた同形状の魔法陣。
何もわからないと言っても、それが出現しているだけで危険な状況だという事は察しが付く。だとすると俺は今、出会ったばかりの女の子に凶器を向けられているという事になる。
そして凶器を向けられているこの状況では、言われた通りに大人しく消えるのが正解だというのは容易に理解できる。多分こうして猶予期間を与えられている時点で、引けば無事に生き延びられるだろうから。
だけどこの足は動かない。
別に怖くて足が竦んでいるとかそういう訳では無く……ただ単に、いつもの自分の悪い癖が出ていた。
「その手を下ろしてくれ。別に俺はお前をどうこうするつもりはねえよ」
安全に逃げる道を捨てて、目の前の女の子の怯えを取り去りたいなんて事を思ってしまった。
そもそも俺が怯えの原因だったら、俺が居なくなればそれで済む問題だろうけども……どう考えたって、俺は怯えられたり敵意を向けられる様な事は何もしていない。それなのに怯えられると言う事は……不特定多数の他人に怯えていると考えた方が信憑性がある。
だから会話をしてその原因を探る。探った結果本当に俺が悪いのであれば大人しく逃げるし、違うのであれば力になりたい。
そんな事を、俺は凶器を向けて来ている相手に思ってしまい、それだけならまだしも実行してしまっている。
……多分俺にどうこうできる状況じゃないのに。
「……信用できるわけ、無いじゃないですか」
その言葉は至極当然で、納得のできる言葉だ。
そもそも凶器を向けて脅迫をする様な心理状況に立たされている奴に、その怯えの対象がどれだけ優しい言葉を掛けたってまともに取りあってくれる訳が無いのだ。
だから俺はきっと今、隙間なく地雷が張り巡らされた道に足を踏み入れた様な状態なのだろう。
だけどそんな状態でも、ほんの少しだけ俺の無謀な人助けは前進する。
いや、前進して霧の中に突っ込んだ様な物で、実質的には後退しているのかもしれない。
「人間の言葉なんて……信用できるわけ無いじゃないですか」
それはまるで自分が人間じゃないとでも言いたいように思えた。
どう考えたって人間なのに。
……本当にそうか?
目の前の少女の足元には、魔法陣が展開されている。
そんな超常現象を起こしている少女は……果たして本当に人間なのだろうか。
……そうでない可能性も、十分にある。
そしてもしそうであるならば……彼女の怯えの対象は、言葉通り人間という種族そのものという事になるのだろう。
だとすればこんな様な状態になるまで、一体人間はこの子に何をしたんだ?
俺はこの子の怯えを取り去る為のピース……情報を掴み取るためにそれを聞いた。
「なあ……なんでそんなに人間が信用できないんだ」
そのストレートな言葉を口にするという事は、きっと地雷原を踏み抜く様な行為だったのだろう。
少女の瞳から怯えに交じって怒りが溢れ出た。
「……なんで?」
俺はそこで、自分の言葉が如何に無茶苦茶な事を言っているかにようやく気付いた。
怯えている者に対して、その原因を作った奴が何も知らないかのように原因を聞く。
凶器を向けられる程の事をしていて、その原因を知らない筈が無いのに……知っている立場である筈の俺は、その事を聞いてしまった。
……罪を罪として認識していないと思われる様な言葉を吐いてしまったのだ。
吐いたからこそ、少女は怯えながらも叫び散らしたのだろう。
「あんな事をしていて、それで私達がどう思うかも分からないあなたの様なクズを、どうやって信用しろと言うんですか!」
そうして言葉と共に放たれたソレは、果たして故意によるものか、勢いによる暴発か。それは分からない。
だけど結果的に、少女が魔法の様な力を使った直後、俺の体は激痛と共に宙に浮いた。否、飛ばされた。
危険を感じ正面にクロスさせた腕が、強烈な突風の様な物の直撃で一瞬軋み、呆気なく折れ、あばら骨にまで損傷を受けている事は容易に理解した。
そしてそれを理解した直後には、痛みは全身に通る事になる。
「ガァ……ッ!」
勢いよく飛ばされた俺の体は、あの時の誠一の様に何度か森の土をバウンドして、最終的に樹木に激突する事でようやく勢いは止まる。
……何十メートル飛ばされたのかは分からない。生い茂る樹木でもう少女の姿を見る事は出来ないし、距離は掴めない。だけど体感では百メートル近く飛ばされている様にも思えた。
そしてそれだけ飛ばされていれば……体が無事で済む訳が無い。
「グ……アァ……ア……ッ」
全身に激痛が纏わりつく。
少女が見えなくなった俺の視界には変な方向に折れ曲がった右手と、俺の全身から流れ出た血液で赤く染まって行く林道の土が見えた。
当然、起き上がれる訳がない。
誠一が起き上がれたのは、きっと様々な奇跡が重なり合った結果だ。あんな真似は出来ないし、むしろまだ意識が残っている事が奇跡とも思える。
だけど俺の奇跡はそこまでだ。
数分前に光を取り戻した俺の視界は再び暗くなっていく。
そこでふと、あの路地裏での誠一の言葉を思い出した。
『馬鹿正直な正義感を振るい続けてたら、本当にどこかで潰れちまうぞ』
それが今なのだろうか。
こうなった事に後悔があるかと聞かれれば、後悔は死ぬほどある。
きっと俺のやろうとした事は間違いじゃない。だけどあの状況で、こうなるかもしれない事が分かっていて、なんでこんな事をしてしまったのだろうと、自分の馬鹿さ加減に反吐が出そうになる。
だけども、自分のやった事を否定する気には何故かなれなかった。
そうなれないまま、俺の視界は意識と共に再びブラックアウトした。