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人の身にして精霊王  作者: 山外大河
五章 絶界の楽園
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9 心地よい違和感

 契約の精霊術を発動した直後、左手に焼き付くような痛みが走った。

 この痛みの事はよく覚えている。忘れる筈がない。忘れられる筈がない。あの森の中でエルと契約した際に感じた痛みだ。エルに差し伸べた手を取って貰えた瞬間の痛みだ。

 そして今その痛みが走るという事は。そして反撃もされないという事は。即ちそういう事だ。

 まだ全てが終わった訳では無いけれど……それでも安堵せずにはいられない。


 ナタリアを助けられた。それで安堵しない訳がない。


 手を握り返される感覚を感じながら、ナタリアの体を引き寄せて抱き抱え、そのまま道路を越えて反対側の低めの建物の屋上に滑るように着地する。

 動体視力も身体能力も、まるで別人になったように変わっていた。言ってしまえば先程までのエルを剣にしている状態よりも高い水準を保っている。


 考えてみれば二人分の出力を得ている事に加えて、ナタリアは元々契約して力が底上げされているエルと同等かそれ以上の力を持っている精霊だ。更に契約によって力が底上げされれば相当なものになる。

 今までの状態にそんなナタリアの力が加われば、素の状態でもエルを剣化している時の出力を超えてたっておかしくはない。


 まあ何はともあれ、その出力のおかげてあの速度でも容易に着地できた。それがなければ俺もナタリアもコンクリートに叩きつけられていた可能性もあるわけで、それで死ぬような事はなくとも本当によかったと思う。

 折角これまで誠一達が殆ど攻撃を喰らわせずに止めていてくれたんだ。最後の最後でそんな苦痛を味会わせる訳にはいかない。

 そんな事を考えていた時だ。


「……おい」


 抱きかかえていたナタリアから声が聞こえてきた。


「よかった、意識も戻ったか。大丈夫か?」


 俺は半ば反射的にそう問うが、視線を外したナタリアから帰ってきた言葉はその問いに対する回答ではない。


「……とりあえず離せ」


「あ、悪いッ!」


 慌ててナタリアの体を開放する。冷静に考えれば凄い恥ずかしい事になってなかったぞ今。


 ……まあそれはさておきだ。とりあえずさておこう。


 ナタリアは俺からやや逃げるように少し距離を置いたナタリアに俺は改めて問いかける。


「えーっと、それで……大丈夫か?」


「そうだな……はっきり言って良くわからない。一体大丈夫ではない状態というのがどういう風だったのかを知らないからな」


「何も覚えていないのか?」


「何もではない。だけど気が付けばお前に手を握られていたと言っていい程に、それ以前の記憶というか意識は朧げだった。だからまあ、殆ど何も覚えてはいない」


 だが、とナタリアは改めてこちらに視線を向けて、とても言いにくそうに言う。


「それでも……なんとなくではあるが、お前に助けられたという事は理解できている。その時の記憶は朧げだけど、お前に意識を引きずり上げられたという事は理解できたつもりでいる。だから、その……なんだ」


 そこまで言ってから、ナタリアは完全に此方から視線を外してそっぽを向いてしまう。

 そして数秒程経った所で、言葉の続きが聞こえてきた。


「……ありがとう」


 その声量はとても微かなもので、簡単に掻き消えるだろうし簡単に聞き逃す。それ位のものだ。

 だけど確かに耳に届いた。届いたならばそれでいい。


 それは届いたのならば、俺はきっとこの痛みにも耐えられる。


 俺がそんな風に軽く歯を食いしばっていると、ナタリアがふと何かに気付いた様に自分の手の甲に視線を向ける。

 そしてそのままゆっくりとこちらの手の甲へと視線を向けて、改めて自分の手の甲を見る。

 そんなナタリアはそのまま手の甲に視線を落としたまま、こちらに問いかけてくる。


「……これはどういう事だ」


「色々あってお前を助けるには契約を結ぶ必要があるって結論に至った。それで一か罰か……って、ちょっと待て、今気づいたのか? その刻印に」


「ああ、そういう事になるが……で、刻印が刻まれているということは私は……え?」


 やや状況を呑み込めていなさそうな所を見ると嘘を言っているわけでもなさそうだ。どうやらナタリアは本当に今その事に気が付いたらしい。

 ……だとすればさっきのはなんだ。ナタリアが素直に礼を言ってくれたのは、契約の刻印が出たことによって俺が味方であると証明できていたからじゃないのか?

 俺がナタリアを助けようとした時の心理状態がこの世界に飛ぶ直前と変わっていないとすれば、結果も考慮して考えると、あの直前から契約が成立する程度にある程度俺を信頼しはじめてくれていて、それでもそんな言葉を掛けてはくれないような、そんな感じの間柄と思ったんだけど。


 ……今回の一件でもう少し信頼を寄せてくれたって事かな。だから素直にああいう事を言ってくれたのだろうか。

 他に思い当たる節は無いわけだし。


「……そうか。そういう事だったか」


 結局ナタリアは一人で何かを納得した様にそう呟く。

 一体何を納得したのかは分からないが、その表情を見る限りではきっと悪い事ではないのだろうと思う。

 そして悪い事ではないとすれば……流れからしても当然ながら、今もっとも考えるべきな辛い事とは違う。

 そして辛い事……答える事すら辛い事は、ナタリアが色々と納得するために一拍空けた後、改めて周囲を見渡して訪ねてくる。


「……それで、今、一体何が起きている? いや、そもそも何かが起きているのか?」


 ナタリアの身に起きていた事。皆の身に起きている事。この世界の事。

 これからナタリアとも共に行動するだろうし、時間は無いが最低限は話して置かないといけない。

 今の何も知らないナタリアに話すことで、どういう感情を向けられるかは分からないけど、それでも。


「この世界に……絶界の楽園にたどり着いた精霊が暴れている。皆も……お前も。皆自我を失って暴れているんだ」


「ちょっと待て……どういう事だ、それは」


 ナタリアが目を丸くしてそう返してくる。


「言葉の通りだよ。絶界の楽園はそういう所だった。お前の記憶に朧げな時間が生まれてしまうような、そんな所だった。とてもお前らにとっては楽園とは言えないような場所だったんだよ」


「……ッ」


 暴れている云々は覚えていないのかもしれない。だけど確かに自我を失う……自分の中で空白の時間が生まれていたという事はナタリアも理解している。だとすれば話を呑み込むのも早い。起きている現実を否定する様な言葉は飛んでこず、鬱々しく事を受け止めたようにナタリアは僅かに硬直する。


「……そうか。酷い話だな」


 だけどすぐに我に返って尋ねてきた。

 鬱々しく受け止めた上で、それを振り払ったように真っ直ぐに。


「それでも助ける手段も意思も、お前は持っているのだろう?」


「……ああ」


 不思議な気分だった。

 まさかナタリアからそんな言葉を掛けられる日が来るとは思わなかった。

 その言葉は俺を否定することなく、その視線には敵意もない。

 今までが今までだっただけに違和感の様な物を感じてしまうが、その違和感すらも心地良くて。その違和感にずっと浸っていたいとすら思った。

 思う事が出来る程に、俺は嬉しかったのだと思う。


「そうか……ならよかった」


 ナタリアは安堵するような言葉を述べた後、一拍空けてからこう続ける。


「お前には言いたい事が色々ある。そしてお前から聞きたい話も色々だ。これが終ったら言わせてくれ。これが終ったら聞かせてくれ。今度は耳を傾けるから」


 だから、とナタリアは俺に問う。


「教えてくれ。私は今何をすればいい?」


 俺も言いたい事は色々とあった。聞きたい話も色々あった。

 だけどそれは後でいい。逃げはしないんだ。違和感はいずれなくなっても、俺の目の前にいるナタリアは今もこの先もきっと居てくれる。心地の良い違和感を払拭して現実に落とし込めるだける時間はこの先に確かにある。確かに勝ち取ったんだ。

 だから今は皆を助けに行こう。

 エルとナタリアと共に皆を救うんだ。


「とりあえずエルと合流しよう。何をするにもそれからだ」


 だから色々な言葉を呑み込み、今はそういう言葉を紡いだ。


 その次の瞬間だ。


 俺達の立つ建物の屋上と屋内を繋ぐ扉。そこが突然開き、人間と精霊慌てる様に一緒に入ってくる。

 誠一と……そしてエルだ。


 ナタリアは誠一の登場で警戒した様子を見せるが、エルからはあまりそういう風な雰囲気を感じられない。思えばエルは一か月近く人間の中に溶け込んで生活していた訳で、此処があの世界の様に狂った価値観の持つ世界ではないという事をある程度把握していてくれれば、俺達がこの場に居る間にビルの下で起きた会話や行動次第では誠一との登場は十分に理解できる。


 だけど理解できないことがあるとすれば……それはエルと誠一の表情だろうか。

 うまくは言えないが……重い。目の前でナタリアを助ける作戦が成功したという事実が広がっているのにその表情が重いんだ。

 その理由は分からない。まるで分からない。

 分からないまま言葉を紡ぎだす。


「……どうしたんだよ、お前ら。こっちはうまく行ったぞ?」


 先程から絶え間なく鳴り響く、気を抜けば表情に出てしまいそうな頭痛に耐えながら、俺はそんな問いを二人にぶつけた。

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