09.勇者の旅立ち、魔王の帰還1
迷いの森に閉ざされた町は、軒を連ねた民家の群衆を抜けると畑と草原というのどかな風景を見せてくれる。
町を歩けば陽気な彼らが気安く手を上げて、豊作だったじゃがいも、にんじん、かぼちゃなどを誇らしげに示してみせた。カレーにしたらおいしい具材だ。
おれ、午後にかあさんと栗ひろいに行くんだ!
楽しげに袖を引っ張って八重歯をのぞかせた男の子が心底うらやましくて、思わず方向転換しようとした足を思いとどめる。これからシルジルの酒屋に顔を出して、それから畑を見回る予定なのだ。渋々と手を振って見送った。よし、明日は栗拾いに行こう。
思いながら歩を進めると、斜め後ろでイルディークがくすりと笑みをこぼした。
魔族といっても、魔術で怪しげな儀式をしたり、人間をさらってきて拷問したり食べちゃったりするわけもなく、一日三度の食事をして日中働き夜に床に就く生活をしている。
初日の様子から想像はできていたが、あまりの普通さに拍子抜けしてしまった。
そんな生活なのだから、魔王も特別なにかをしなければならないわけでもないらしく、かなたは邸で寝起きする以外は町の様子をぐるりと眺め、彼らがどういう生活をしているかうかがっていた。
一応は、魔王といわれる立場でもあるので、魔王業に勤しもうかと思ったのだけれど。
「イルディークさん、今更ですが魔王ってなにをすればいいんですか」
飲み会の翌朝。うやむやのまま流れた質問を再度してみた。
当然のように朝から部屋を訪ねてきて、洗面器やら服やらの支度を整えたイルディークにメイドの仕事を取ってるのではと疑いの眼差しを向けながら、それでもかなたは身支度を進めた。
ふわふわのタオルで顔を拭きながら尋ねると、イルディークはまたたいてから首をかしげる。
「お健やかにお過ごしいただければ、それで十分でございますが」
至極真面目に、参考にならないことを言われた。
かなたはため息をつく。そういうことじゃない。
「うーん、じゃあ言い方を変えます。三十年前の魔王はなにをしてすごしていたんですか?」
「以前の魔王様は……」
視線を虚空に向けると、イルディークはしばし逡巡をはさんで、そしてくすりと笑みをこぼした。
「そうですね、たとえばですが。どこそこの桃がおいしいのだと聞くと、食べたい人ー! よぉし、行こう行こう! ついでに周りの町の名産品も食べるから、途中でお金稼ぐ用に大道芸の道具も準備してー! 残る人は邸の改造よろしく! お化け屋敷にして庭には露店かな。盛大に頼みます! ――なんてことをよくおっしゃって。内容は折々で変わりますが、とにかく先陣を切って我々を率いてくださっていました」
その光景を思い出したのか、くすくすと笑うイルディークはとても嬉しそうだ。
かなたは予想外の返事にぽかんと彼を眺めた。それが本当ならば。――魔族、平和すぎる。食い倒れツアー? 大道芸? そんなノリでいいのか。
「……人と殺し合えとか言われてもできないからよかった。とりあえず、魔族が平和に過ごせればいいってことね」
呆れも強いけれど、それ以上にかなたはほっとした。
穏やかに微笑むイルディークに肩をすくめると、晴れた青空の向こうに目を向ける。朝のざわめきをまとい始めた町と、そのずっと先まで広がる青い空がまぶしくて自然と目が細くなった。
そんなやりとりがあってから、すでに三ヶ月。
気持ち悪いほど真っ白だった肌も太陽の恩恵をうけて健康な色を取り戻しているし、棒のように細かった手足もそれなりになってきた。
すっかりかなたも邸での生活に慣れ、町に行けば魔王様今日はなにするの? 新しい酒の仕込みが始まったよ~ まおーさままじゅつがつかえるようになったから見て! なんて声もかかるようになった。
町の人々の名前や顔も覚えて順調に彼らの生活に溶け込んでいる。
そうすると、気になるのは他の種族の生活である。
毎日、どこへいくにもイルディークがついてくるので、彼に外の様子も見たいとねだったが駄目の一点張りが崩れなかった。彼をどうにか巻いて行ってみようかとも思ったが、かなたはまだまだ知らないことが多いため冒険はせずに機会を待つことにする。
ずっとこの邸と町にとどまっているわけにもいかないだろう。結界の張られた森で生活しているということは、身を隠していることと同じだ。
いつかは、結界が破られるときがくるかもしれない。
そのとき、魔族が受け身にならずにいられるようにするか、もしくは隠れて暮らさなくてすむようにしなければとかなたは思う。
そのために、人が、エルフが、ドワーフがどういう生活をして、魔族をどう思ってなにをしかけてくるのかこないのかを知りたい。
でも、危ないからだめなのだそうだ。
一度その話をイルディークにして以来、彼はかなたがこっそり抜け出さないよう目を光らせているため隙ができない。
エーデに愚痴をこぼしたら、うまく出し抜いてみなよと楽しげにそそのかされた。けれども、彼が手を貸してくれるつもりはなさそうなので、大きな勝負にはまだ出ずにいる。
町に出たときにシルジルが、人間の作る酒もおいしいから町に紛れてみようかなあとなんの気はなしに言っていたので、万が一外にいくときには彼もつれていきたい。
シルジルもかなたの話に食いつくはずだが、問題なのはいつも彼に会うときにはイルディークが張り付いていることである。さすがに出し抜くはずの相手を前にその相談はできまい。
焦らなければ機会はそのうちにできるだろう。
かなたは思いながら今日もスプラングルエッグとハム、サラダ、焼きたてのパンというホテルのバイキングにありそうな朝食をとり、変わったことはないかと町へ降り立つのであった。
「魔王様、アズが戻りました。ご報告があるとのことです」
ヒツジの放牧という、ものすごくのどかな光景を眺めていたかなたに、そのわきに控えていたイルディークが耳打ちをした。
手には手のひら大の紙切れ。魔力を帯びたそれは、アズというかなたの護衛を務めているらしい男からの伝言であった。
「アズさん、一昨日から出かけてましたよね。意外と早く帰ってきたなあ」
「邸で待機しております。ここまで呼びますか?」
「エーデさんも邸でしたよね。ひとまず戻りましょう」
「承知いたしました」
アズが自分でここまで来ないということは、そこまで切羽詰まっていないのだろう。それに、エーデもいた方がいいかもしれない。
イルディークはかなたの言葉にうなずく。失礼いたしますと断りを入れてからかなたの手を取ってふたりの距離を縮めた。
空気が凝縮するような、不思議な感覚がしてかなたは顔を上げる。つないだ手から伝わるそれを自覚するかしないかの一瞬のうちに風が吹き、気づいたら邸のかなたの部屋。
ヒツジと草原は一変して、上品な家具に囲まれた室内に変わっていた。
「魔王様」
大柄で色黒の男が膝をついて頭を下げる。
エーデも同じく呼ばれたのだろう。おかえりー、と気だるげにソファーに座って手を振った。
「アズさん、おかえりなさい」
立ってくださいと続けると、アズはのそりと立ち上がって琥珀色の瞳をかなたに向けた。
褐色の肌、短く刈り込まれた銀の髪。かなたがイルディークと並ぶと頭ひとつ分違うのだが、アズが相手になるとさらにその差がひどくなる。見上げていると首を痛めそうだ。
無骨で目つきが悪いが寡黙で真面目。
件の飲み会の翌日、初めて顔を合わせた彼がアズと申します、と質素な挨拶をしたときのことだ。
しっかりとかなたの言葉に耳をかたむけ率直にこたえる彼に、ようやくまともそうな人に会えた! と思わず言ってしまったかなたは、居合わせたエーデに笑顔で詰め寄られ、目で見えず耳でも聞こえないイルディークの効果音を察する羽目になった。
お前たち魔王様を困らせるな。太い眉を寄せてぼそりと咎めた彼に、ますますその株は上がっていく。
以来、かなたのなかでアズは魔族の常識者なのである。
頼れるお兄さんみたいだと思うと、ついつい頬がゆるんでしまう。それにイルディークがまた悔しそうな顔をするので、毎回変態ポイントも加算された。
アズは背を屈ませるようにしてかなたを見ると、イルディークとエーデに目配せをしてから口を開いた。
「勇者が起ったとの噂が、広がっているのでそのご報告に」
はっと息をのんだのはイルディークである。
目をぱちくりさせるかなたと、ふーんとその気のない声を上げたエーデをよそに彼はアズに強い視線を向けた。
「まだ魔王様のお目覚めから数か月しか経っていないだろう」
「人の口には戸が立てられない。魔族がまったく外に出ないわけではないのだから、遅かれ早かれこうなることは見越していたはずだ」
「それはそうだが」
おおかた、どこぞの魔族が酒が入って魔王様復活ばんざーい! とかやっちゃったのだろうなあ。
かなたは先日、森の外にはしばらく行かねえ! 人間マジこえええ! とカボチャに語りかけていた農夫の顔を思い出した。あれはたしか、ヤキュウケンのときに中学生並みの下品な比べっこをしていた人ではなかったか。
誰が口をすべらせたかは、かなたにとってさほど重要ではない。興味はそれよりも勇者誕生にかたむいている。
魔王を探して旅を始めた少年。物語の主人公。
思いつめる様子のイルディークに対し、アズはあくまでも冷静な声で淡々と返した。
かなたはぽんとイルディークの腕を叩いてから、ずいぶんと上にあるアズの顔を見上げる。
「じゃあ、その勇者様はここを目指してるってことですね。噂ってどれくらい信じていいの?」
「魔王様の盗伐をうたって、居城を探す一行が増えているのは事実です。勇者の素質を持つのではと言われている者がそこに含まれていると。詳しい情報を探ったところ、【風車の町】の出身で、歳が十五ほどの少年だということです。町に紛れていた魔族が、魔術を弾き返されたとか」
「勇者は、魔術を防ぐことができるからね。駆け出しだろうから、今だとうんと簡単なやつに限るけど」
エーデが頬杖を作りながら簡単にアズの補足をする。
勇者が勇者たるゆえんは、どうやらその部分らしい。あとは、人を引き付けるカリスマ性とか、運とか、そんなところか。
「七つの町を回って、そのどこでもだいたい同じ話を聞きました。生い立ちはともかく、勇者がここを探しているという情報ならば信ずるに値すると」
「ふーん」
続けたアズに、かなたは顔も知らない勇者を思い浮かべた。
彼は、なんのために魔王を討伐するのだろう。魔王はかなただ。かなたは今現在、人間たちになにかをしたわけではない。
魔族たちも、かなたの知る限りでは、やたらと喧嘩を吹っかけることはせずにこっそりと外の町に紛れているはずだ。しかもその大半が、魔族の町で調達できない食料や道具を仕入れて、すぐに帰って来る。
それさえも、許されないのだろうか。
あの陽気ですぐに調子にのる彼らは、魔力があるというだけで迫害される。しかも、魔族とわかれば問答無用で切りかかられるというのだから始末が悪い。
日本では考えられなかった生死に直結する問題が、今目の前にある。
「今、どこにいるんだろうねえ勇者様は。【風車の町】ってどこ?」
首をかしげたかなたに、イルディークが硬い表情のままアズに目配せをすると、それを受けてアズがテーブルに地図を広げた。
四方八方に折り目のついたそれはくたくただったが、インクの薄れに書き足しがされ、大事に使われていることが見て取れる。
イルディークがそこに描かれた大陸の隅を指差した。
「【風車の町】は、この森を抜けた東側にある小さな町です。半日とかからずに行くことができますが」
山脈の麓に広がる大きな森がこの邸と町を囲う森であり、外では迷いの森と呼ばれている。そのすぐ右側に風車の絵の描かれた小さい町がひとつ。
「近いな! 灯台下暗し、みたいな」
勇者の故郷と魔王の森が隣り合わせだなんて。
呆れたかなたにイルディークがやんわりと首を振る。
「駆け出しの冒険者風情にはこの邸は見つけられません。それこそ、アズの魔術を打ち消せるくらいには力をつけなければ、森で迷うばかりでしょう」
「俺は、イルやエーデよりも魔力はずいぶん低いのですが」
「それでも、アズだって魔族で有数の強さでしょうに。たしかに、魔術よりは剣なんだろうけどさ。まあ、イルの言うとおり今すぐに勇者が乗り込んでくることはないから、魔王様も慌てることないない」
軽い調子でエーデで手を振るのにかなたも思案顔でうなずいた。
なにかを今すぐしなければいけないわけではない、ということだとしても。ただ待ち受けてそのときを待つのは嫌だ。
一番近しい魔族である彼らの三者三様の顔を順繰りに眺めると、かなたは窓の外に視線を外した。鬱蒼と茂る迷いの森。そこを抜けた先にある草原は、よく晴れた青空との境まで広く広く伸びている。
かなたの知らない世界。けれども、そこがこの世界の大半を占める。
「どんな人だろうなあ。――せっかくだから、挨拶にいきましょうよ」
「なっ」
まず、敵を知らねば動けない。外を見るいい機会になりそうだ。
想像するまでもなく抗議の声を上げたイルディークを、やっとソファーから身を起こしたエーデが楽しげにさえぎった。
「いいね。魔王様ならそう言うと思った」
「護衛はお任せを」
アズもあっさりとうなずき、イルディークが苦々しい表情でふたりを睨み上げる。鋭い氷の瞳を受けても慣れた調子で相手にされない。
かなたはそんなイルディークの服の袖を引っ張った。今が外に出る機会だ。暇なときに練っておいたおねだり方法を、ここぞとばかりに披露してみよう。
にっこりと笑みを浮かべ、上目に彼を見つめた。
「イルディークさんも、もちろん一緒に。守ってくれるんでしょう?」