07.目覚めの宴7
「本日の夕餉は、魔王様がお目覚めを祝して宴を支度しております」
意図せず魔力を使いきって持ち込んだ荷物を、猫脚テーブルに並べているかなたにイルディークはソファーの脇にたたずんでそう告げた。
リュックから次々と出てくる見慣れぬものに興味はあるらしく、かなたの手に合わせて目を行ったり来たりさせている。
かなたは水筒とおにぎりを前に腕を組んだ。
「それって何時からですか?」
「日没後ですから、七時からですね。あと三時間ほどございます」
時間のとらえかたは日本の感覚でよいらしい。ついでとばかりに正確な今の時刻を聞いて、腕時計とスマートフォンの時計も合わせてしまった。
スマートフォンは圏外になっている。電波を使わないアプリの起動はできたが、それも充電が切れるまでの命だろう。すると、あまり持ってきても意味がなかったか。
イルディークの視線を感じながらそれをテーブルの上に戻し、おにぎりに目を向け直す。
あと数時間あるのなら、食べてしまってもよい。宴と言われたものがどういう雰囲気か心配でもあるが、軽い腹ごしらえをしておくのも悪くない。ここで逃すと食べずに捨てることになりそうだし。
かなたはそこまで思うと手早くハンカチを解いて、ラップをはがした。ほぐした鮭を混ぜこんだおにぎりがふたつ。
「イルディークさん」
手招きして呼び寄せ、ソファーの傍らをぽんと叩く。
呼ばれたイルディークは驚きに目を見開いている。かなたが隣に座れと言っていることはわかったようだが、どんな意図があるのかと戸惑いを浮かべた。再度ソファーを叩くと、おずおずと長い脚を折って腰かける。
おひとつどうぞ。言いながら鮭のおにぎりを示し、テーブルに伏せられたままの陶器のカップにほうじ茶を注ぎいれた。
洒落た繊細なそれにほうじ茶は不釣り合いだが、この際気にしないことにしよう。ふわりと立った湯気と、こうばしい香り。それにほっとする。
「持ってきちゃったのを無駄にはできないので。どーぞ」
言って、自分はぱくりとひとつを口に運ぶ。手のひら大のそれをもぐもぐやりながら隣をうかがうと、おそるおそる、伸びてきた手が残りのひとつを手に取った。
ひと口含んで、咀嚼。ごくりと咽喉が動くまでもを黙ってかなたは見守った。
イルディークは目を見開いたまま、残っているおにぎりを見つめる。
「……おいしい」
思わずこぼれてしまった。そんなひと言にくすりとかなたは笑った。
そうかそうか、おいしいか。やっぱり米は偉大だ。米のよさがわかるなんて、いいやつじゃないか。変態だけど。
勝手に満足してほうじ茶でひと息入れる。残りを口に放ってご飯のほのかなあまさと鮭のほどよい塩気を堪能することにした。
最後の米粒を味わうように親指に唇をあてると、イルディークは深々と頭を下げて礼を言った。
感に入っているように見えなくもない。ほうじ茶も飲ませて空にする。よし、食べ物を粗末にせずにすんだ。
満足に頬をゆるめるかなたに、イルディークは席を立つとの断りを入れてきた。うなずいたかなたが水筒の蓋をして、丸めたラップを皿に載せるている間に戻ってくると、彼の手には濡らした真っ白いタオルがあった。どうやらおしぼりを用意したらしい。
かなたがすっかり食べ終えていることを見て取って、彼は断りを入れてから傍らにひざまづいてかなたの手を取る。一本一本指を綺麗に拭いていく。
かなたはこの時点ですでに、イルディークのこういう行動について諦めることにした。
今までの様子から察するに、言ってもやめることはないだろう。とても嬉しそうにかなたの世話を焼くので、やはり変態である。
もしかしたらマゾフィストの気もあるのかもなあ、なんて思いつつ小指を拭って満足そうな顔をしている男を冷めた目で眺めた。
本当にやめてほしいこと、たとえば着替えや風呂の世話などは初めからはっきりと断ろうと胸に誓った。
ひどい扱いをされているのを知ってか知らずか、イルディークはおしぼりを置くと空いた食器をメイドに下げさせた。
てきぱきと指示を出している彼に、かなたは風呂に入りたいと声を上げる。ずっと寝ていたという体は、彼曰く清潔に保たれていたらしいがさっぱりと洗い流せるに越したことはない。
メイドに追加で指示を与えたイルディークに、ひとりで入れるので絶対に来ないでくださいねと笑顔で釘を刺した。また見えも聞こえもしないはずの効果音を拾ったことも、打ちひしがれる男が存在を無視されたことは言うまでもない。
大きな風呂で汗を流し、イルディークが用意したワンピースを身に着けた。
紺色のものはうっかりあちらで着替えたときに置いてきてしまったのだと、今さらながらに気づいたかなたは、お支度は私がと譲らなかったイルディークに渋々と従った。
夢だ、寝ぼけているんだ、と思ったくらいで自分の服装なんか気にせずにランニング装備に着替えてしまったのだから、身に染みた習慣とは恐ろしいものである。
彼が用意したワインレッドのドレスは落ち着いた雰囲気で、ウエストから下は細かいプリーツが綺麗にかかっている。胸元にリボン。誰かの結婚式にも出席できそうだ。
髪を乾かすにはタオルで水気を落として自然乾燥しかないと思っていたのだが、待ち構えていたイルディークが手をかざして水分を飛ばしてくれた。これが魔術か。
かなたは文明の利器の上をゆく未知の力に感動を覚える。
器用に髪を編み込み、白い花飾りを挿したのは言うまでもなくイルディークで。その慣れた様子には感心したいのだが、違う気持ちの方が強くなってしまう。
微妙な顔をしたかなたを、彼は邸の一階に連れていき大きな扉を開けた。
左右両側に開かれる扉の向こうには、それこそ有名人の結婚式会場にも使える広さのホールがあって、点々と置かれた丸いテーブルを大勢の人たちが囲んでいる。
壁際には長机や椅子。ボトルや料理もテーブルの表面を覆うように並べられていた。
かなたが一歩踏み入ると、ホールのざわめきがすっと消えていく。
たくさんの人々の視線が向けられ、目が見開かれ、そして――
「魔王様だ!」
「本当だ! 魔王様だ!」
「目が覚めたって、本当だったんですね!」
わっと歓声が上がって邸が揺れた。
呆気にとられて歩みをとめてしまうかなたの背を、イルディークがやんわりと前に促す。
上座にはホール中央を向いた長机。その真ん中に【魔王様】と書かれた長方形の席札が置かれているのが見えると、一気にかなたは脱力した。ここは会社の飲み会か。厚紙で作られたそれにうろんな視線を送ってしまう。
背中に歓声を浴びながら進むと、やはり、その札の置かれた席の椅子をイルディークが引いてかなたを振り返る。人好きの笑みで座るよう言ってくるので、気がすすまないが致し方ない。
かなたが座るとちょうどよい位置に椅子が押された。
ちりんちりんりりーん、と高々にベルの音が響いた。
かなたから見て右手側、テーブルの端のあたりに立ったくるくるパーマの少年が大きなベルを振っている。黒い髪が鳥の巣みたいにふわふわしているので、機会があったら触らせてくれないかなあとかなたが思っている間に、またホールのなかが静まった。
「静粛にー! おっほん。定刻よりちょっと早いですが、陽も沈んだことだし、目の前に酒も揃っているので始めたいと思いまーす!」
少年の開催宣言にわっと歓声が上がる。
すると、くるくるパーマがまたベルを鳴らして声を広いホールにわんわんと響かせた。もしかしたら魔術で拡声しているのかもしれない。
「本日、あってないような司会をつとめますのは、ご存じのとおり酒屋の息子のシルジルです。うちの酒を買ってくれてありがとー! 今後もどうぞごひいきに」
ちゃっかり宣伝もしながら、彼はてんぽよく舌をすべらせて会場の温度を上げていく。
わいた拍手がおさまるのを見計らって、シルジルはこほんと咳払いをしてかなたを振り返った。にっこりとした少年特有の無邪気な笑みに、かなたはまたたいて彼の言葉を待つ。
「さて、本日は皆さんもすでに耳にしているとおり、そして今目にしているとおり、重大なお知らせがあります! ――ずーっと眠ったままだった魔王様が、ようやくお目覚めになられました!」
どっと会場が沸き返った。ぴゅーぴゅーと指笛ではやし立てる音も、大きな歓声たちも全部ごっちゃになってテーブルも椅子もびりびりと震える。
その勢いにかなたは椅子からずり落ちそうになったのをなんとか持ちこたえた。
なんだろう、このノリ。やっぱり会社の宴会に近いものをひしひしと感じるが、会社だってここまで団結して盛り上がることはない。どちらかというと、サッカーのサポーターが渋谷の交差点を闊歩している光景と重なる。
イルディークたちから目覚めを祝した宴とは聞いていた。けれども、ここまで大歓迎されるとは微塵も思っていなかったわけで。
お尻半分で椅子に腰かけているそんな魔王を、シルジルはにっこりと振り返る。
「てことで、魔王様からひと言いただきたいと思います」
「えっ」
聞いていない。そんな話は微塵も。これっぽっちも。
世の中には、土壇場でのそういう振りに強い人間と弱い人間がいる。今は魔族で人間ではないが、それは置いておいて。
かなたはどちらかというと後者だと自分を認識している。そしてなぜか周りからは前者と見られることも知っていた。
動揺して視線を傍らに控えたイルディークに向けたが、彼からは期待に満ちた瞳で大きくうなずかれてしまった。違う! そんな反応は求めていない!
内心で舌打ちをしたかなたは、シルジルの向こう、会場の端の方で吹き出した声を拾う。
さっと目を向けると、金髪の医者が腹を抱えていた。今のやり取りを正確に把握したのだろう。その姿にかなたは本当に舌打ちをして顔をしかめた。
魔王様、お願いします。普通の声で囁いた酒屋の息子に、かなたはこっそりため息をついて立ち上がった。
湧いたままだった会場がみるみる静まり返る。ここまでお膳立てされてしまうと逃げることはできない。
みんなジャガイモ! わたしは緊張していない! 手にじっとりとかいている汗も無視して、念じながらかなたは口を開いた。
「覚えてなくてすみません。とりあえず、起きましたのでよろしくお願いします」
しんとしたホールに、かなたの声だけがさあっと広がった。
ここに集まった人たちは、魔王の邸で働いている人と、邸の裏にある町の人々だという。五百人はいるだろうか。
彼らにどこまでの話がどういうふうに伝わっているのかもわからない。けれども、どうであってもこの場で挨拶をする言葉だって思いつきはしないのだ。
潔く、簡単に事実だけ述べると、痛いほど集中していた彼らの目が大きく見開かれる。
どおっと会場が揺れた。
魔王様サイコー! おそよーございまーす!
口々にはやし立てる声とぴゅーぴゅー飛び交う指笛の音、夏の大雨みたいにやむ気配を見せない拍手たち。
今までで一番の大きな歓声に、かなたは驚きの消えぬ顔で首をめぐらす。誰も彼もが楽しそうに、嬉しそうに笑っている。
知らないはずの彼らから、惜しみなく送られるあたたかなものにかなたは言うべき言葉も、その呼吸さえも忘れて立ち尽くした。
瞑目して固まるかなたをよそに、シルジルの陽気な声が響き渡る。
彼がいつの間にか手にしたジョッキを掲げるのに合わせ、周りも自分の杯をたぐり寄せる。魔王様。微笑んだイルディークがグラスを差し出してかなたに持たせた。
「それじゃあ、魔王様のお目覚めと、魔族一同の健勝を祈願いたしまして――」
かんぱーい!
シルジルの声に被せ、みなが声をそろえ杯を天井に向かって突き上げた。一拍の沈黙を挟んで、わっと歓声が上がる。
ここにいる奴らは結構細かいこと気にしないからさ。そう笑った医者の顔を思い出した。
たしかに、陽気で明るい。魔族という言葉からは想像できない気さくさばかりだ。酒さえあったらご機嫌でいてくれるんじゃないかとさえ思わせる。これが、魔族。かなたの率いる生きる人々。
まあいいか。乾杯! かんぱーい! と口々に言い合ってはグラスをごつごつぶつけている光景にかなたは苦笑を浮かべた。