伝わる、熱。
(宿屋開業後のとある日)
もったりとして重たいこの感じは非常にまずい。
枕元に置いたスマートフォンが、目覚めの時刻を告げ続けている。起きなければ。体はそこにとどまりたがっていても、朝は待ってくれない。店としてはうれしいことに客室は満席だし、料理の評判も広がって全員が朝食をとることになっている。経営をするかなたにとっては光栄だ。けれども、今朝ばかりは素直に喜ぶことができなかった。
この体では仕事にならない。厨房に立ってももはや使いものにならないだろう。
かなたはそう自覚していつつもなんとか体を起こし、引きずるように廊下を歩いて顔を洗い、のろのろと身支度をした。
頭を動かすと、脳みそがなまりになってしまったらしく、右や左に鈍い重さがごろりと動いた。熱っぽい気もするが、とにかく体が重い。暑いというより寒さで背が震える。いつもの倍の時間をかけて着替えをすませ、壁をつたって厨房に向かうとき、ようやくそれが悪寒だと思い至った。
おはようございまーす。ケットの明るい声が一階に響く。それにはっと顔を上げると、裏口からケットとココが顔をのぞかせてかなたにあいさつした。そして、かなたの顔を見るとぎょっとしたように目を見開く。どうやら、ひと目見ただけでわかるほどの顔色のようだ。
苦笑をこぼしたかなただが、それがちっとも笑みの形にならなかった。なによりも体がだるくて重い。それに尽きる。
「ごめん、今日だめそう。でも、できるとこまで支度はするから」
半分壁に崩れながら言うと、両側からあたたかな手が支えになる。ケットがめずらしく眉を寄せて真面目な顔を作った。
「カナタさん、どう見てもだめだよ。とにかく寝てたほうがいいよ」
「それはそうだけど、お客さんは待ってくれない。できるとこまではやるよ。……だから、手伝って」
「カナタさん」
顔を見合わせて心配そうにするふたりに、かなたは笑う。まっすぐとこうして向けられる気持ちは、ひどくあたたかい。ああ、いい店だなあ。壁にもたれて笑った。
「料理は任せることになると思う。そのまえに、カーテンを全部開けて。イルディークさんがもうすぐ来るはずだから、食堂はやってもらって」
声にも力が入らなくて、かなたはよけいに苦笑する。言うが早く、ケットとココが一階の支度に取りかかった。カーテンが遮っていた光が、木の床をほんのりと照らして目にまぶしい。すでに日が昇り始めている。
からんころんと鐘を鳴らしながら扉を開けて足元をくさびで止めると、早朝の町のざわめきが【小鳩亭】にも香りだす。もう、お客が起きだす時間だ。
「お嬢様」
すっと冷たい手がかなたの腰に回された。それに自然と安堵の息がこぼれる。その手が、その声が誰のものであるか考えるまでもなく、かなたにはわかってしまった。
あとはお任せください。
耳元で囁かれた声はあまやかで、かなたの瞼をとろけさせる。押し寄せた眠気にあらがえず、ことりとかなたの首が落ちた。
イルディークはしっかりとかなたの体を抱き込んで抱えると、ケットとココに目配せをする。
「お前たちは厨房に戻りなさい。――サザレア。食堂の支度を。案内は様子を見て、朝のうちは予約をあと回しに」
「はい」
いつの間にか脇に控えていたサザレアが、ケットたちにかわってテーブルと椅子を整えに動く。慌てて料理人ふたりは厨房に駆け込んだ。
「――なにかあったのか」
階段から降ってきた声にイルディークは一瞥を投げた。オーウィンが朝食をとろうと姿を見せているが、意にも介さず彼は冷たさをひそませた目を伏せる。
「いいえ、お気になさらず。ただいま整えますのでお待ちください」
オーウィン相手にめずらしく丁寧な声色は、このときそれ以上踏み入ることを認めないと言外に述べた。眉を寄せた少年にイルディークはそっけなく一礼すると、話は終わりとばかりに廊下の奥を振り返る。
「エーデ」
「いるよー」
声がかかるのを待っていたかのように、すぐに気だるげな返事があった。うっとうしげに金髪をかきあげた長身が現れる。彼は、ぐったりとしたかなたを見て片眉を上げたが、階段からの視線に唇に弧を描いた。
深緑色の瞳が、イルディークの腕のかなたに注がれている。それから隠すよう抱えなおされたのを見て、医者はいっそう笑みを濃くした。氷の瞳がそんなエーデを捉える。
「お嬢様を」
「はいはーい。――カナタ、おいで」
低く短い声は有無を言わせぬ強さを孕んだ。それはエーデに対してというよりも、若き冒険者の介入を許さないものだ。
おやおやと思いながらエーデが軽く手を広げると、イルディークの腕のなかではふわりと浮上した意識が緩慢な動きを命じ、従った細い腕が無防備に伸ばされた。
抱っこをねだる子どものようだ。背を屈ませると腕が首に絡みつき、体温が伝わる。熱い。正常な体温より二、三度高いそれは疲労からくるものだろう。
ここのところの彼女の生活を思い描きながらエーデはかなたの体を抱き上げた。
イルディークの静かな表情の向こうで、わずかに眉を寄せた少年にちらりと視線を投げる。
きみの入る余地はないよ。
そんな意を含ませて微笑むと相手がぐっと唇を噛んだ。頭は悪くないらしい。それは結構なことだ。
エーデは未熟な怒気を嗅ぎとったが綺麗にそれを無視して、凪いだ水面のごとく静かにたたずむおとこへ向き直った。
「料理はどうするの? あのふたりだけじゃ心もとないんじゃない」
「私が請け負う」
「イルが?」
よいしょとかなたを抱えなおしたエーデに、イルディークはやはり表情を動かさない。
階段の下から動かずに視線をよこすオーウィンの前を素通りすると、上着のポケットから覗いていた白い手袋をはめて食堂へと入っていく。
「安心してお休みいただくためだ。言を違えるつもりはない」
あとは任せてくださいと、言ったのはたしかにイルディークだ。
かつりと踵を鳴らすとその背中が廊下から消える。
硬い声が空気に溶けるのを見送ってから、エーデは瞳を笑わせて踵を返した。あの、イルがねえ。叱りつける鋭い声と、ケットの哀れっぽい悲鳴を耳にしながら一番奥の部屋へと足取りも軽く向かった。
***
さらりと額をなでていく手が気持ちよくて、かなたは思わず深く息をついた。ふっと意識が浮上して、重い瞼が動く。
「起きた?」
覗き込む影が見えたけれど、心地よいまどろみはまだ去ってくれていない。
とろんと落ちてまた眠りに誘う瞼に相手が苦笑する。額から髪を梳き、頬をなでた手が、優しさを引っ込めて鼻をむぎゅっと掴んだ。
「カナタ、起きた?」
「……おきまひた」
恨みがましく見上げると長い指が離れていく。若草色の瞳が楽しげに細められるので、かなたは起き抜けから唇をとがらさなければならなかった。体を起こして瞼をこする。
部屋の中は明るくて、自然と目を向けた時計が三時を過ぎた時刻を示していた。
「よく寝たねえ。まったく、主治医の忠告をちっともきかずに根を詰めるからだよ。気分はどう?」
ベッドの傍らに椅子を引っ張ってきていたエーデは、サイドテーブルにあった水差しからコップにそれを注ぐ。水の張られた洗面器もあるから、どうやら彼が看病してくれていたらしい。
朝、ケットたちに会ってイルディークの声を聞いて、そのあとでエーデが来たような、そうでないような。
曖昧な記憶ではあるものの、エーデはかなたの医者という役割も担っているから、経緯はどうであれ彼がここにいても不思議はない。
「すごーく、すっきりしてます」
汗で肌がべたつくが、まとっていた気だるさも、頭のなかのなまりもどこかにいってしまったようだ。
エーデの手が、かなたの前髪を梳いて額にあてられる。
「だろうねえ。熱もすっかり下がっちゃったよ」
わずかに冷たい大きな手はかなたの額を覆ったが、納得したのかすぐに離れていって、かわりにひんやりとしたコップが手渡された。それに口をつけながらかなたは上目にエーデをうかがう。
「お店の方は? あれから大丈夫だった?」
「なんとかなったでしょ。イルが料理もして仕事もさばいてたから」
「イルディークさんが」
驚いて目を見開くと、空になったコップをエーデがひょいと奪ってこぽぽぽぽと新しく水を注ぐ。
「さすがイルって感じだよねー。いつもカナタにべったりだから、料理も覚えちゃってるんだよあれ。味がちょっと薄いけど、ちゃんとケットを叱りつけながら全員分作ったよ」
リネンのシャツの袖を折ってゆったりと椅子に腰かけた彼は、とてもくつろいだ様子に見える。時間にまだ余裕はあるが、今日も変わらず酒場にいくはず。そうそう引き止めてもいられないと思うかなたをよそに、エーデはのんびりと二杯目をかなたに押しつけた。
「今はサザレアが受付けにいて、イルがあっちこっち動き回ってて、あとは厨房で夕飯の支度かな。残念、カナタの出番はなさそうだねー」
「……もう、起きてもいい?」
「いいけど、店に立つのは明日にしなね。大丈夫なのもわかるけど、許してくれる人はいないと思うよ」
ここにはいない四人の顔がさっと思い浮かんで、かなたは言葉に詰まる。倒れたようなものだからイルディークが並々ならぬ心配をしているだろうし、朝の様子だとケットたちもかなたを厨房に入れないだろう。サザレアだってにっこり笑っておやすみなさいと手を振りそうだ。
誤魔化すためにちびちびと二杯目のコップを空けて、ごちそうさまとテーブルに戻した。今度はエーデも水差しに手を伸ばさなかったので、主治医の定めた最低基準を摂取したのだろう。
かなたはもぞもぞと布団から這い出た。この時間ならそれほど忙しくないから、今のうちに顔を出して礼を言っておかねば。
箪笥から洗いざらしのシャツとコットンパンツを取り出す。
「エーデさんにもお礼をしたいんですが、なにか食べたいものってあります?」
いつもはゆっくりと起きてくるエーデを、日の出より早く起こして働かせてしまった。これから遅くまで仕事があることを考えると申し訳ない。せめて料理の融通くらいは、と思いながらかなたはシャツに手をかけた。
椅子に腰かけたまま肘掛けに頬杖をついていたエーデは、振り返ったかなたに片眉を上げてみせる。
「へえ、それじゃあお言葉にあまえて。ナシゴレンとデザートに蜜柑ゼリー」
「……本当、エーデさんはエスニック料理ですよねえ。わかりました。明日の夕飯でいいですか?」
インドネシアやマレーシアでのチャーハンをさらりと答えるところに感心してしまう。エーデに出したのは一度だけだったはずだ。いつの間にか異国の料理名も覚え、調味料や付け合せまでこだわるのだから驚きだ。あまり食に、というより周りのことに興味がないそぶりを見せるのに。
気に入ってくれているなら嬉しいなあと、着替えを終えて髪をまとめるかなたにようやくエーデが立ち上がる。
「うん、いいよ。楽しみにしてる」
「お手間をかけてすみませんでした」
「はいはい。それじゃあ、普段から気をつけてよね。――それと」
顔ぐらいは拭うか。洗面器にあったタオルを水にひたしたかなたの、その動きをさえぎるようにエーデはぽんと頭に手を置く。
「一応ねえ、着替えるのは異性のいないところでにしなさい」
慎みと恥じらいを忘れずに、なんて言いながらわしゃわしゃと髪を混ぜられて、せっかく結んだのにシルジルに負けない鳥の巣みたいになっている。ご飯食べたら寝なさいよ。ひらりと手を振って部屋を出ていくエーデを、ぽかんとした顔で見送ってしまった。
「イルディークさん」
廊下から食堂に向かうと、イルディークが受付けでサザレアと帳簿を挟んでいた。白い手袋で文字を追っていたイルディークは、かなたの声にぱっと顔を上げる。
さっと手袋をはずした手でかなたの手を取り、自然な動作で唇をあてた。
「お顔色もよくなられましたね。安心いたしました」
「うん、もう大丈夫。――今日は朝からすみませんでした」
「ケットがぼやいてましたよー? お嬢さんよりイルディークさんのがうるさいって」
くすくす笑うサザレアに、かなたはほっと息をつく。よかった。エーデの言うとおり、店の心配はいらないらしい。
「イルにも料理作るの?」
プレートを片手に食堂から出てきたエーデは、にやにやとかなたとイルディークを見比べた。かなたの部屋からまっすぐここに来たらしく、夕方の腹ごしらえにココが作ったホットサンドと卵スープを確保していた。
きょとんと顔を上げたイルディークにかなたはため息をこぼす。
「イルディークさんはどうしようかなあ……。今日は一番負担がかかったわけだし、もっと特別なものがいいかと思うんですけど」
「ふうん、じゃあなににするの」
「うーん……」
腕を組んで首をかしげ、かなたは視線をぐるりとめぐらす。今日の功労賞は間違いなく彼だろう。エーデを含めた他のメンバーには料理でもいいが、ちょっとした特別なものでイルディークが喜びそうなこと。
ぱっとひらめいたことに、内心で苦笑する。ちょっと恥ずかしいが、たまにはこういうこともいいのかもしれない。
状況をのみ込めずに心配そうな瞳を向けてくるイルディークに、かなたは息をついて手招きした。
内緒話するみたいに口元に手をあてると、またたいたイルディークが背を屈ませる。
その左頬に手を添えて、ひょいっとつま先立って唇を寄せた。
ちゅっ
小さなリップ音も忘れずに、そっと唇を落として元に戻る。どうもありがとうございました。かなたは恥ずかしさを笑ってごまかした。
頬へのくちづけは厚意の意味があるというし、たまにはこういうこともありかなあと。思った結果なのだが。
わずかなぬくもりを感じただけの、ささやかなもの。
大きく見開かれた水色の瞳がかなたを映して、白い手がおもむろに名残のある頬に触れる。
呆けたような無防備な顔で動きを止めてしまったイルディークに、かなたは思わず身構えたのだが。一拍の間をおくと、一瞬にしてぼっと真っ赤に染まってしまった。
かなたが驚きの声を上げるより早くイルディークの手がその顔を覆い、よろりとふらついて肩が壁にぶつかる。髪の隙間からのぞく耳は、湯気が立ちそうなほど赤い。
「え。イ、イルディークさ――」
「少しだけ、席を、外します……」
よろよろと危うい足取りで壁伝いに、廊下へ消えていく後ろ姿をかなたもサザレアも唖然として見つめた。まさか、こんな反応をされるとは思いもよらず。
よくかなた相手に手や額にキスをしてみせるのだから、お嬢様からくちづけをいただくなんて……! と感激するくらいのつもりであった。もともと容姿も整っているし、女性関係だってそれなりの経験があるはず。それなのに――
「カ、カナタってば、やるうー……」
ぶっくくくっと器用にトレイの均衡を保ちながらエーデが腹を抱えた。
そのあとしばらくは、目を合わせてくれないイルディークがいて。エーデとサザレアの忍び笑いが小鳩亭に響いた。
2015/08/09




