Happy Halloween!
(宿屋開業前のとある日)
スマートフォンの示す日付けに気づいて、かなたは書類の手を止めるとああなるほどなあとぼんやり思った。
あまり日常では実現されないイベントではあるけれど、グッズや飾りつけなどでは大いに楽しませてくれるものである。
「Trick or treat」
机から顔を上げて傍らを振り返ると、相手は耳慣れぬ言葉にきょとんと瞳をまたたかせた。休憩用にと茶の支度を始めていた彼の肩から、まっすぐでなめらかな髪がさらりとこぼれる。
「とりっくおあとりーと、ですか?」
つたない発音に思わずかなたが顔をほころばせた。
「ハロウィンていうんです。お菓子くれなきゃいたずらするぞって言いながら、子供が家々を回ってお菓子をせびるイベントが今日なんですよ」
「いたずらしてくださるんですか!」
そこかよ。
妙な温度を帯びて顔色をよくしたイルディークに、かなたは一気に引いた。心の距離は遠ざかって変態ポイントが勢いよく加算されていく。
一瞬でできあがった温度差に、聞こえないし見えない効果音をイルディークが響かせた。それを無視してかなたは肩をすくめる。
「子供がそう言って訪ねてきてもいいように、大人はお菓子を用意しておくのが習慣かな。そのための常套句というか」
ハロウィンだからといって、日本では他人の家に菓子をせびりにいくことはない。そういうイベントと理解されてはいるが、あまり実行には移されていないのではないかと思う。精々、知り合い同士でイベントを真似るか、カボチャパーティーでもするか、テーマパークやら渋谷にいって仮装を楽しむか、そんなところだろう。たぶん。かなたの周りではそうだった。
あとでカボチャのマフィンかケーキでも焼こうかな。
書類に向けていた集中力が切れたので、気分転換に厨房にでもいこう。使ってもいいカボチャがあるだろうか。
そこまで考えだしたかなたは、向けられた視線に気づいて目を合わす。書類に向かうでもなく、机を片付けてくれるわけでもないエーデがにんまりとかなたの視線を待っていた。
「な、なんですか」
頬が引きつるのがわかる。
こういうときのエーデはひどく厄介なのである。絶対、かなたにとっていいことではない。
その怯みを彼が逃すわけがなかった。
「Trick or treat」
「え!」
「だから、Trick or treat.はやくしないといたずらしちゃうよ」
「え!」
いいのかなあ、言っとくけどそんなに気が長い方じゃないんだよねー。
エーデの笑みにかなたは慎重に腰を浮かせた。絶対やる。こういうときのエーデは本気でなにかをしかけてくる。
じりじりと椅子から立ち上がり扉に一歩、二歩と相手から目をそらさずに進む。
かなたが三歩目を踏み出して廊下に駆け出すのと、エーデがそれを捕らえようと動くのはほとんど同時だった。伸ばされた手がかなたの袖をかすめたのにひやりとしながら、かなたは開け放った扉を思い切り閉める。
閉まる音に紛れて舌打ちが聞こえた気がしたが無視無視。危ないところだった。
思わぬ展開で仕事を抜けることになったから、いっそこのままサボってしまおう。ひとまず、カボチャと小麦粉でも買ってくることにした。
のんきに歩いて町に出ると、大通りを歩く人たちがかなたに気づいておおと声を上げる。
魔王様だ。魔王様が来たぞー。
誰かしらが声を上げると、どやどやと町の人が俺も俺もと集まってくる。なんだ今日はずいぶんとにぎやかだなあ。なにかあったのだろうか。
こんにちは、なんて挨拶しながら八百屋に向かうのだが、飛んできた声にぴたりと足を止める羽目になるのである。
「まおうさま! とりっくおあとりーと! おかしちょうだい!」
ちょっと待った、どういうことだ。
「とりっくあとりとり!」
「ちげーよ、とりっとりっとりーと! だろ」
「お前のそれがちげーんだよ! とりっとあっとりーと! だっつってんだろっ」
「とりっとあとりーとぉぉぉ!」
ひゃほーい! いえーい! 菓子だ菓子!!
唐突に町がお祭り騒ぎになり始めてかなたは盛大に舌打ちをした。あの男! やりおったなあの男め……!
不敵な笑みを浮かべた医者が脳裏をよぎって地団駄を踏み鳴らしたくなる。のんびりと歩いている場合じゃなかった。その数分の間に、あの男は魔術を駆使してお祭り好きなこの輩たちにお菓子がもらえる魔法の言葉を広めてしまったのだ。
かなたはぐっと唇を噛む。そして次の瞬間には人をかき分けて走りだした。
まっすぐ八百屋に駆け込んで、これもらってくよ! と叫びながらカボチャを抱え、慌てた店主に見向きもせずに空いたかごにお代を置くが早く意識を集中させた。邸の、厨房、思い描いて移動を念じる。
あ! 逃げた! 追え追えー!
そんな喧騒を残して、かなたはあっという間に姿をくらませた。ハロウィンなんて話をするんじゃなかった。後悔してももう遅い。
ぱっと姿を現したかなたに、ぎょっとしたのは邸のコックだ。そんな相手に気づかうことなく、オーブン借ります! と一方的な宣言を高々にした。
厨房の入口をしっかりと閉めて魔力を込める。何人たりとも通すべからず。扉は忠実にそれを守ることだろう。ついでに厨房全体にも結界を張って、魔術で侵入を試みることも阻止した。こんなことでかなたの魔術の腕は上達していくのである。
ぷりぷりして道具を並べながらコックに事情を説明すると、そりゃあ言った相手が悪かったですねえと朗らかに笑われてしまう。
その間にも扉の向こうから、ここにいるのはわかってるんだ! 菓子! 食べたい! なんて声が聞こえてくるのだから始末が悪い。この短時間でどこまで広がっているんだハロウィンは。まさか、こちらが菓子をせびられることになるとは思いもしなかった。
幸いにも小麦粉や卵、砂糖などの材料はそろっていたので、ありがたく使わせてもらうことにした。
手っ取り早く数がそろって作りやすいもの。
かなたは迷わずスマートフォンを起動させるとインターネットでレシピを表示した。
なにを作るんです?
コックの声に、粉をふるいながら一言。――カボチャクッキー!
カボチャを魔力で蒸かして、オレンジ色の果肉をつぶす。
砂糖とバターを加えて混ぜ、小麦粉を入れてまた混ぜる。ひとまとめになったら適当な大きさにちぎって楕円形につぶし、残しておいた皮を小さく切って側面に突き刺した。表面にスマイルマークのような顔や、カボチャに見えるように縦線を入れて並べて、あとはオーブンで焼けばクッキーができあがった。
焼いている間にまた生地を作り、焼けたクッキーを取り出してからまたそれを焼く。
カボチャを蒸かした時点であまい香りがたちこめて、ほくほくと鮮やかな色が湯気を上げておいしそうだ。
でも、今日はお菓子でなければならない。
町の人たちも、邸の人たちも、どこぞの医者も、放っておいてもいいわけだけれど。
言いだしっぺでもあるし、そう言われてしまうと意地になるのがかなたなのであった。
コックが焼くのを手伝ってくれたので味見もかねて真っ先に手渡す。カボチャを菓子に使うなんてめずらしい、と喜んだ彼は嬉々として焼き上がったクッキーをかごに並べてくれている。
何百枚になるのだろう。
こんなにクッキーを焼いたことは初めてだ。そして、しばらくの間クッキーはいい。作りたくない。食べたくもない。
かなたはてんこもりになっているかごを抱えると、コックへの礼もそこそこに一気に自分の部屋に飛んだ。
真っ黒なドレス。真っ黒な帽子。黒い髪も適当にカールさせた。
やるからにはやってやる。
へんな火がついたかなたは、自分のできる範囲での魔女を再現して鏡の前でうなずく。これでいいや、いいことにしよう。
かごからはほんのりとあまい香りが立っていて、思わず一枚口の中に放った。
「あ、カナタはっけーん」
もぐもぐしながら部屋から出ると、待ち構えていた医者がしらじらしくも微笑んで迎える。
見慣れぬ姿に、その横でそわそわとしていた側近は頬を赤らめて今度はもじもじしているし、護衛は護衛で相変わらずの無表情で腕を組んで見下ろした。
「エーデさん、町で広めるなんて卑怯ですよ!」
かなたの抗議もどこ吹く風。大げさに片眉を上げてエーデは笑う。
「あれえ、おかしいなあ。ちょっと【大いなる恵】に顔を出して、カナタに言うとお菓子もらえるんだってって言葉を教えただけなんだけどなあ」
「わざとじゃん! 酒場にいるような人に言ったら広がるのわかってんじゃん!」
こういうときの報連相は光速並みのはずだ。なにせ、こういう騒ぎが大好きなのが魔族なのだから。
むきーっ! と足を踏み鳴らすかなたに変わらずエーデはにっこりときれいに笑んだ。
「Trick or treat」
「Happy Halloween!」
やけっぱちで答えながらクッキーを押し付ける。
へえー、カボチャ? 言いながらぱきっといい音を立てたエーデをよそに、いたずらしないからお菓子ねとイルディークにも渡し、アズさんもあげますねとスマイルマークを選んでやった。
町に行ってきますっ!
不貞腐れたような言い方で駆けだしたかなたが、どういう事態におちいっているかわかっているのだろう。エーデはおもしろおかしいと言わんばかりの顔で手を振って見送る。私もお供いたします、と慌てたイルディークがかなたの背を追い、ため息をこぼしたアズがそれに続いた。
山になったクッキーが、魔女の想像以上の速さで消えていくのはあと数分後の話。
2013/10/31




