06.目覚めの宴6
桃の香りが鼻をかすめたような気がして、かなたはふと意識を浮上させた。瞼の向こうが明るい。
うーん、と勝手に声がこぼれ、もぞもぞと体を動かす。さらりとしたシーツが心地よかった。ぱちりと目が開く。
「……魔王様、お気づきになられましたか?」
ひかえめに、落ち着きのある声がかけられ、かなたは視線を上げた。心配の色を濃くしたイルディークが覗きこんでいる。
薄い水色の瞳をぼんやりと眺め、かなたはゆっくりと体を起こした。
「イルディークさん?」
「ご気分を悪くされたようでしたが、いかがですか?」
かなたは目をこすりながら、そういえばと記憶の途切れを思い出す。
この部屋で着替えて、廊下に出ようとしたらいつの間にか自分の部屋で、ああ夢だったんだと胸をなでおろして仕事の支度を整えた。
そして、出勤すべく玄関扉を開けたら広い廊下を背景にイルディークがいて、部屋を振り返ると見慣れた部屋は消え失せていた。
突然なことが連続して起こって混乱したかなたは、ひどい眩暈と吐き気でイルディークに支えられて――
そのまま寝たということか。
意外ときちんと覚えている自分に感心しながら、ベッドに座り直す。
どういうわけか、ずいぶんと頭はすっきりとして気分がよかった。吐き気もなく、頭痛も腹痛もなにもない。
昨日までは体調が悪いわけではないのに、頭が重かったりだるかったりとしていた。そんなものも一切なくなっている。
「嘘みたいになんともない、かな。お腹がすいているくらいで」
自分の中を探るみたいにあちこちに意識を向けるけれど、彼が心配するような違和感は出てこない。
からっぽになっている胃が音を立てそうで、間抜けとわかっていつつそう言うとイルディークはほっと安堵の息をついた。やわらかく唇が弧を描き、水色の瞳がほころぶ。
「……それは、ようございました」
それはそれは嬉しそうに笑うものだから、かなたは思わず顔を赤らめた。中身はどうであれ、顔が整っているぶんイルディークが無防備な表情をさらしてくると心臓に悪い。
イルディークは何度かうなずくと、サイドテーブルに置かれていた水差しから注いだ水を手渡した。コップのガラス越しに伝わる冷たさが気持ちよい。
「魔王様は、非常にたくさんの魔力を使ってしまった様子でした。――お心当たりはございますか?」
口に含んだ水をこくりと飲み下す。ひんやりとした感覚が喉の奥に消えていくのをそっちのけで、かなたは目を丸くしてまたたいた。
首をかしげて傍らを見上げる。
「魔力を?」
「はい。使い尽くして、お疲れになってしまったのだと。エーデも同じ見解です」
意識がない間にエーデがまた来てくれたのだろう。けれども、今彼がここにいないということはそれほど切羽づまった状況でもないということか。
かなたはそう察すると、飄々として表情の読めない医者の顔を思い浮かべて苦笑する。
「うまく説明できるかわからないけど。――さっき、イルディークさんに服を出してもらって着替えたあと、どういうわけか今までいたところに戻っていたみたいで」
すっとイルディークの瞳に深みが増す。口を開かず真剣な眼差しを向けたままなので、かなたは言葉を探しながら先を続ける。
「だから、夢だったのかと思って。そのままいつも通りに支度をして玄関を出たんです。そうしたら、目の前にはイルディークさんがいたし、わたしはここにいるし。わけがわからなくなって。それで気づいたらくらくらして」
「……無意識のうちに魔力で移動、ということか」
小さく呟いたイルディークにかなたは首をかしげる。
ひとりごちた彼は、かなたの訝しげな視線を受けて苦笑した。
「なにが引き金になったか定かではありませんが。エーデも申した通り、魔王様のお力はとても強いものです。そして今、魔王様は魔力というものをおわかりない状況で、なんらかのきっかけで知らず知らず使ってしまったのでしょう。空間を渡るということは、非常に難しく、大きな力が必要になるのです」
かなたは着替えをしていたあたりを思い返してみた。
たしか、肌が荒れていないことが嬉しくて、仕事への憂いから肌荒れの懸念に思考が移り、パソコンなどがあったらなあと……思ったけれど……まさかな。そんなまさか。
かなたはごくりと唾を飲む。
そんなことで、魔力を大放出して世界を渡ったというのか。それが本当だとしたら、具合が悪くなるかもしれないけれど、いつでも願えば戻れるということになる。
戻りたい。わけのわからないここではなくて、慣れ親しんだ日本に。
戻りたい。戻りたい。戻りたい。
あの生活が好きでたまらないのではないのに、違う生活を与えられてしまうととても惜しい。ここにはかなたの知る人はいない。親しんだものもない。戻りたい。
ふっと空気が変わった。胸がどくりと脈打って、体全体に熱を帯びたような感覚が走る。イルディークがはっと息をのんだ。
「魔王様!」
がたり音を立てて腰を浮かせた彼の、切羽づまった声。
体にまとわりつく熱は上がることはなく一定を保っている。しかし、かなたがそれをどうしようかと考える前に引いていってしまった。
風景が変わることなく、かなたは天蓋つきのベッドにいる。
呆然とするなか、悲痛の色を浮かべたイルディークがかなたの手をぎゅっと握った。かなたの唇からぽろりと言葉がころがる。
「……戻れない?」
あれが、最初で最後。そういうことなのか。
あのときは自分の体に熱が走ったとは思わなかった。魔力というものの存在を受け入れたからなのか、今はなんとなくこういう感覚がそれだろうと確かなものが残る。
ああ、だからよけいに戻れないのか。人にはないもの。異質なものを持っている自分。
「お嫌ですか?」
呆然とするかなたに、静かにイルディークが尋ねる。気づかうそれに、わずかな悲しみが含まれている気がして。
かなたははっとして顔を上げた。
「ここに留まることは、やはり魔王様には苦痛でしかありませんか?」
責めてはいない、けれども悲しみに染まったその問いにかなたは言葉を探して喘いだが、結局弱々しくかぶりを振った。
「……わかりません。ここが、どこなのか、わたしがなんなのか、よく――」
「魔王様がたとえ受け入れてくださらなくても。私は、またお会いできて、本当に嬉しかった……記憶の有無など関係なく、ただ、いてくださるだけで」
絞りだされる声はかすれながら、せつせつと心境をかなたへと紡ぐ。水色の瞳にとらえられ、かなたは息をするのも忘れてしまった。
「イル、ディークさん」
「すべて受け入れてほしいなどとは、申せません。ですが、もう戻れぬということなら。――ここにいてください。どうかここで、生きてください」
握られる手が、痛いほどに。こぼれる声は、胸が詰まるほどに。
親においていかれる子供のように、今にも泣きそうな顔で懇願するおとこ。
会って間もないその人をこんなに困らせてしまっているのかと思うと、かなたは言うべき言葉をなにも思いつくことができない。握られた手を、そっと握り返してゆっくりと目を伏せた。
「わたしは、わたしです。お世話になるからには、なるべく役立てるようにやってみますから、それでもいいなら」
よろしくお願いします。
折り目正しく頭を下げると、イルディークがたまらないといった様子に顔をゆがめた。しかしそれも一瞬のこと。
さっと手を拾い上げ、桜色の唇を寄せる。ごくごく自然な仕草で、指の付け根にぬくもりが伝わった。
「かならずお守りいたします」
痛いほどまっすぐな瞳で誓う彼に、ある意味でこの人が一番危険かもしれないとかなたはあてもなく思った。