37.迷いの森へようこそ 1
そこからは、慌ただしく引っ越しの準備が始まった。
とは言っても、主に荷造りはココとケットに必要なだけで、あとの魔族組は真っ黒な小鳩亭の後片付けだ。かなたがいないときにはサザレアが指示を出して進めてくれていたので、ずいぶんと順調である。持ち出せる荷物は魔術を使って運べたし、そもそもそんなに多くない。
火事になっちゃったから閉店。ごめんね!
ドワーフの冒険者たちが片づけの依頼を受けてくれたのだが、かなたのこの言葉にひどく落胆してしまって大変だった。
碧の泉があるから! そこでいっぱい食べて! あそこは営業してるよ! 今日まかないも用意してるし! などと取り繕うのに必死である。
ある程度作業がすめば、あとを任せてかなたはひと足先に迷いの森へと帰ってきた。今までも行き来していたが、もう完全に拠点を森に戻したわけである。
さて、これからはこちらでの体制を整えなければならない。
先陣切って森を出たわりに、二年の期間を満了できなかったことは心残りだけれど。これは方向転換だと気持ちを切り替えているところだ。魔族が外の世界に飛び出した逆バージョンをするんだから、これもずいぶんな試みじゃないか。迷いの森で、人間が生活するんだもの。
「ほんと、魔王様は突拍子のないことを簡単に言うよねえ」
樽の上に腰かけたシルジルが、感心と呆れを混ぜたような顔をしたのに、かなたはすまして肩をすくめた。
「どう考えたって、これからはそういうことが必要でしょ。こちらが外に出るなら、外の人がこちらに入ってくることだってあるよ」
「そりゃそうだけどさあ。副団長がまた怒りながらジョッキを空けてたよ? 魔王様、ぎゅうと怒られるんじゃないの?」
にやにやした顔にかなたは嫌そうに眉を寄せた。
「……シルジル、やめてよ。思い出したくもないんだから」
「なんだ、もう怒られたの」
あはは! それはご愁傷様!
ちなみに副団長だけではなく、邸でかなたのかわりに政を取り仕切ってくれている宰相にも、ずいぶんねちっこく嫌味を浴びせられてしまった。まあ、相談も打診もせずに進めてしまったから、甘んじで受け取ったわけだけれど。
それでも、なんだかんだと話をまとめて受け入れ態勢を整えてくれた。有能で寛大な人たちが周りに多くて、魔王様は本当に助かっているのである。
「それで? 新しい店はどうなんです。明日引っ越しなんでしょう」
ぴょんと樽から飛び降りたシルジルは、楽しみでたまらないと書いた顔でかなたを見上げた。
砂塵の町で勇者に会ってしまったから、彼は小鳩亭には顔を出せなかった経緯がある。
「うん。ダイナに任せてあるから、そんなに早くは来ないと思う」
「朝は文句も多いもんね」
あのやる気を出し惜しみする男のことだ。今は森から離れて上司の目もないから、のんびり惰眠を貪ってから昼近くになってやっと動き出すだろう。
という予想は、翌朝すっかりはずれてしまった。
邸の居間で朝食をとっていると、アズがのそりとやって来た。いつも食事の後に来るはずなのにと目を丸めたかなたは、彼の後ろから聞こえてきたケットの声にますます目を大きくする。
うんざりとげっそりをよく混ぜた顔のダイナまでいるのだから、思わず時計を確かめてしまった。針がさすのは午前八時を過ぎたところ。三回見直しても時計は変わる様子はない。
「カナタさん! ひさしぶり~」
元気に手を振ってくるケットの後ろには、わずかに苦笑しているココもいる。
いつも以上にだるだるしているダイナが大きなため息を吐き出すと、ようやくかなたへと姿勢を正した。
「ココとケットをお連れしました」
箸を置いたかなたはひとつうなずく。
「荷物は?」
「客間にひとまず置いてあります。俺の独断で扉は封じました」
団員特有の礼をして真面目に報告するダイナの姿は久しぶりに見た。かなたは思いながら礼を解くよう軽く手を振る。
「うん、早朝の任務お疲れさまでした」
きっとケットがこの男を叩き起こしたのだろうなあ。聞かなくてもそんな光景が目に浮かぶ。
きちんと仕事はこなしているのに、もっと寝たかったと表情で訴えてくるダイナ。テンションマックスで今にも駈け回りそうなケット。苦笑しているココ。それぞれの様子から見ても、かなたの予想はたぶん間違っていない。
カナタさんの町ならおいしいものたくさんあるよね? なんて食べ歩きする気満々でダイナのげっそり感を盛りだしたケットに、いいぞいいぞとサザレアとエーデがニヤニヤした。
一方でココは、食事を終えたカナタへ向き合った。はしゃいでいるケットを手招きしてふたりで並んでみせると、おだやかにほほえんだ。
「カナタさん。おれたち結婚しました」
「え」
予想もしていなかった報告に、かなたを始め、部屋にいたものたちは目を見開く。
平然とココは続けた。
「町を出て暮らすわけだし、ちゃんとけじめをつけようと思って」
「え」
いや、そりゃあふたりは思い合ってるとは思っていたけれど。
付き合ってるとかそういう感じでもなかったじゃないですか。……ていうか、ココさん? なんかいきなり殻突き破ってません??
呆気にとられたかなたをよそに、エーデがしみじみとつぶやく。
「へぇ~。ココやるねえ。まさかここで踏み切るなんて予想外だったよ。じゃあケットってば人妻じゃん」
人妻。ケットが。あのケットが。
いろいろと衝撃だけど、かなたは席を立ち、きちんとふたりに向き合った。
「おめでとう」
これは、あとで祝いの席を設けなければ。こっそりそう決めると、みんなも口々に祝福し、照れ笑いしたふたりがありがとうともじもじした。
立ち話もなんだし、と椅子を勧めてかなたはもう一度席に着く。サザレアが食器を下げ、イルディークが紅茶を淹れはじめたのを匂いで察すると、ココがやんわりと首を振った。
「さっそく店の場所を決めたいのですが」
ぴたりと紅茶の音が止む。
紅茶の数が変わりそうだと注意深くしているイルディークをよそに、かなたはそう来たかと胸を弾ませた。
「よさそうな空き家をいくつか見ておいたから、その中から選んでもらえたらと思ってるんだけど」
初の人間の居住ということで、立地や周りの治安を考慮して六つほど候補がある。
どこにココたちが住むか、町では大きな賭けにまで発展しているらしくて、町に降りたときの反応が心配だけれど。
さて、それなら行こうじゃないか。そう、腰を上げようとしたのだけれど。
「カナタさん、誰か一緒に行ってもらってもいいですか?」
うん? わたしが行くよ??
予想外の言葉にきょとんとかなたの動きが止まる。ココは穏やかな笑みを浮かべたまま首を振った。
「カナタさんは、ほかにやることがたくさんあるでしょう」
「う、うん、それはまあ、そうなんだけど。でも今日は一緒に行く予定でいたから大丈夫だよ?」
もう一度、ココは首を振ってみせる。
「今度は、おれたちの店になるから。ちゃんと決めてきます。なんでもかんでもお膳立てされてしまったら、あんまり意味がなくなってしまいませんか?」
「う、うん、でも――」
「だから、誰か一緒に回っても大丈夫な人にお願いしたいです」
「う、うん。ここにいる人たちなら誰でもいいですよ」
しおしおしているかなた相手に、ココは表情を崩さなかった。
小鳩亭のメンバーに加えて、アズとダイナがいる。ぐるりと居間にいる顔ぶれを見回して、ひとつうなずいた。
「エーデさん、お願いしてもいいですか?」
「わぁーお! そう来るとは予想外だなあ」
椅子にゆるく腰掛けていたエーデは、唐突なご指名にうれしそうに目を輝かせた。
軽い身のこなしで椅子から立つと、迷わずココたちに並ぶ。
「いいよ。行こうか」
あっさり。あっさり引き受けている。あの気分屋が。
かなたが恨めしく見つめたってなんのその。
エーデはにんまり笑って華麗に手を振った。
「じゃあカナタ。こっちはまかせてお仕事頑張ってね~」
いってきま~す!
ばたん、と扉が閉まって三人の気配が離れていく。
完全に邸を出たところまでなにも言わずにテーブルを見つめたいたかなたは、彼らが町に降り立ったところでぐでっと突っ伏した。
「……さみしい」
ま、魔王様、私がお傍におりますっ!! とかすかさずぴったり真横に控えた男には見向きもしないで、かなたは唇を尖らせた。
くつくつ笑ったアズが、わずかに目元をやわらげて諦めろとひと言こぼす。めずらしく、彼もおもしろがっているようで、ますますかなたはふて腐れるしかない。
が、ああ言われた手前、くさくさして時間を無駄にするのはもっと嫌なわけで。
かなたは不本意なことは隠しもしない顔のまま、執務室へと腰を上げることにした。
かなたが宰相にちくちくされながら書類と向き合っている間に、ココたちはすんなり店を決めてきたらしい。
ひととおり町のなかも回ってきたのだと、楽しげなふたりが帰ってきたのは昼も過ぎたころ。
かなたへの報告をすませると、さっそく住まいと店を整えるのだと新婚たちは爽やかに魔王の邸を辞した。ここからはアズが付き添うことになり、かなたは相槌を打つだけで話が進んでいくから微妙な顔のままだ。
カナタさん、店の準備ができたらまた知らせます。そう言ってにっこり笑ったココのおかげで、支度さえも手伝えないらしい。
荷物だってあるだろうに。まあアズが一緒だからなんの問題もないけど!
「ココの行動力すごくない?」
まったく自分の予定していた流れとは違う。
かなたは、彼らが出て行って静かになった部屋で大きなため息をついた。
すると、にやりとしたエーデがソファーに腰掛けて上目をよこす。
「……誰がココをそうさせたのかわかってる?」
きょとんとしたかなたに、サザレアがやわらかなため息をついた。
「どう考えたって魔王様でしょう。もともとココは頭もいいし、器用なんだけど。いまいち引っ込みがちだったものねえ。こういうことを見越して、あの店をココ中心に回させていたんじゃないんですか?」
「やだなあ、サザレア。カナタは自分が動きやすくなるようにしてただけだよ。それでココが主力になって自信を持つなら一石二鳥ってね」
「ああ、なるほど。そうして、魔王様も人に任せることをようやく覚え始めたわけですね」
「手を出す隙をココが与えなかったとも言うんじゃない?」
にやにやしているエーデも、いい笑みを浮かべたサザレアも本当にたのしそうで。
めずらしくかなたは思い切り顔をしかめた。
「……ふたりとも、うるさいですよ」
そんな顔を見れば図星だということは明らかで。
ますます笑みを濃くしたふたりに、かなたは返す言葉もない。ココの成長がうれしいけれど、さみしいのも確かだからふて腐れるしかないのである。
魔王様、桃をむきますからご機嫌を治してくださいませ。
桃ですべてを解決させようとする男まで出てきて、かなたの唇はケットのようにとがった。
それでもあまいあまい桃の誘惑に勝てるわけもなく、ぺろりとひとつを食べ終えたかなたはどんな店になるのか、おとなしく報告を待つことにした。




