(閑話)癒しの手
こんこんこん、と夜に響いたノックに窓際にいたかなたは振り返る。
扉の向こうに誰がいるのか、気配ですぐにわかった。応じると、失礼いたしますと折り目正しい言葉と一緒にイルディークが顔を見せる。
もう寝るだけだというのに、上着も羽織ってシャツもきちんとボタンを留めて袖もまくっていないところが彼らしい。
「魔王様、まだお休みになられないのですか」
言いながら、彼はベルベッドのソファーにあったストールを拾い上げ、きれいにたたみ直してくれた。さっきかなたがぽいっと放ったものだ。
静かに問うた彼は、足音をたてずにかなたの傍らに立つ。薄い色の瞳でまっすぐと見下ろした。
「夏とはいえ、夜は冷えます」
畳んだばかりのストールをふわりとかなたの肩にかける。細い糸をやわらかに編み上げたストールは、心地よい肌触りでかなたを包んだ。添えられるわずかな体温が、薄い布越しに伝わった。
濃紺の空には、か細い月。きらきらとまたたく星たちがいっぱいに広がっている。黙ってそれを見上げたかなたにイルディークはふっと目元をやわらげる。
「カナタ様」
ストール越しに置かれた、手。
「平気なふりなど、しなくて結構です。今宵はまだ繊月。ここを探れる者もおりません」
やわらかな声と背に当てられた冷たい手に、かなたは降参するしかなかった。
とろりとした晩夏の夜に、ぽつりと小さく声が響く。
「……お店なくなっちゃった」
どうして、この男は。
わかってしまうのだろう。なるべく表面に出さないようにしていたのに。
「残念でございますね」
まるで、頭をなでてくれているみたいな声に、いつになくかなたも素直に言葉を紡いだ。
「楽しかったね」
「ええ」
こんな夜とは無縁な、賑やかな宿屋。
うまくいっていたと思っていたが、終わりは唐突だった。カランコロンと響く鐘の音が耳の奥に響く。
「町の人たち、魔族のことどう思ったかな」
「今度、実際に尋ねてみたらいかがですか?」
かなたは驚いて目を丸くした。まじまじとイルディークの顔を見つめる。
すると彼は不思議そうに二度ほどまたたいた。
「今更私も咎めません。外に行く機会など、あなた様でしたらいくらでも作れましょう」
「いいの?」
あんなに、外の世界を遠ざけようとしていたはずなのに。
驚きのまま問えば彼ははっきりとうなずいてみせた。そしてあの薄い水色の瞳をかすかに細める。
「もちろん。私もお供いたしますが」
「うん」
宿屋やってよかったなあ。
まずは手始めに、この男に外の世界はどうだったのか聞いてみることにしよう。




