05.目覚めの宴5
すやすやとした規則正しい呼吸を耳にして、イルディークはかなたに添えていた手をそっとはずした。
長い眠りで軽くなってしまったかなたの体を、できるだけ動かさないように気をつけながらベッドに横たえる。
彼女が目を覚ましてから、一時間と経っていない。
三十年の間ずっと眠っている顔しか見えなかった。青白く、生気の薄いそれに何度呼吸の確認をしたことだろう。
強い光を宿す黒い瞳を、さまざまな表情を帯びる声を、どれほど待ちわびたことか。窓際に立っているかなたの姿に、込みあがった感情を言い表すことは難しかった。
その瞳にイルディークを映している。困ったように眉を下げている。名を、呼んでくれる。ずっと眠ったままだった彼女が。
驚きと歓喜で声が出なくなるなんて久しく経験していない。
またあの輝く笑顔が見られると思うと、それだけで胸が熱くなった、はずなのに。
「魔王様が倒れたって?」
「エーデ」
ベッドに腰かけてかなたの顔をじっと見つめていたイルディークは、扉を振り返って声の主を迎えた。
エーデは鞄をベッドの脇に置くとイルディークの隣からかなたの顔をのぞく。伸ばした手を彼女の額に置いた。
「ずいぶんと消耗している。魔力の使いすぎなんだろうけど、なにがあったの」
「わからない。お召し物をかえるとおっしゃって、私は部屋の外に。そのわずかな間で」
「めずらしい格好だねえ。こんな服があった?」
「いや、お出ししたものはこれではなかった。私も初めて見る」
肌に沿うようにぴったりとした布地は、袖の長さも着丈も短い。イルディークが用意した紺色のワンピースには程遠かった。
「……ふーん、なんだかまたやっかいなことになっているんじゃないといいけど。ひとまず、イル。きみが力を使ったなら、大丈夫だと思うよ」
イルディークはさきほどかなたへかざした手に、癒しの力を宿していた。体の回復を促すよう、手助けをしたようなものだ。
今の彼女には痛みなどないはず。穏やかな寝顔がそれを裏付けている。
黒い睫毛がおりた横顔に視線を戻すと、イルディークは声を低くしてエーデに問う。
「このまま、眠り続けることは」
「どうだろーねー。こればっかりは魔王様に聞いてみないと」
言いながら脈を取り、体温と血圧まで測るエーデは笑ってシーツを整えた。
軽い調子のエーデの言葉をよそに、イルディークは真剣な眼差しでかなたを見つめる。耳が必死に呼吸を拾った。
「魔王様がこれほどお疲れになるほどのことが、一瞬のうちに起こったことは見過ごせない。まだお体も順応されていないのだから、なにかあっては――」
「起きたら本人に聞いてみなよ」
「……さっきわからないと言ったのはお前だろう」
低い声でねめつけられてもエーデは肩をすくめていなしてしまう。
「どんなことにも絶対ってことはないからね」
「エーデ」
恨みがましいと訴える視線を受けてもエーデは顔色ひとつ変えない。
あったかかったいつだって彼はそうだった。魔王を狙う勇者がすぐそこまで迫ったときも。彼女を勇者の剣が貫いたときも。
やはりエーデは、くすりと笑った。
「高い確率で、起きるよ。魔王様の心が戻ってきたことには変わりないし。――本当、イルは魔王様のことになると顔色が変わるよねー。普段はこんなに素っ気なくて冷たくて、周りから恐れられているのに」
かなたに手を伸ばしたイルディークは、その瞳を翳らせてから目を伏せる。
その水色の冷たさと同じように、表情を凍らせて毎日毎日眠り続ける魔王の世話を続けた彼。
人形のようだ、と邸のメイドも料理人も町の魔族たちも囁きながら距離をおいていた。
「……魔王様は私のすべてだから」
絞り出された声は、低くかすれた。エーデは唇の端を上げる。
三十年は長い。いくら致命傷を負ったとしても、傷を癒すことにそれほど長い月日はかからないはずだ。
一命を取り留め、彼女の傷は癒えた。数年をかけてゆっくりと癒えていき、使い果たした魔力も戻った。あとは目覚めを待つだけなのに、それでも彼女は小さな小さな呼吸を繰り返すだけ。
――なぜ? なぜ意識が戻らない?
絶望の色を宿して嘆き苦しむ男を、エーデはただひたすらに見守った。そのときと同じように、エーデは今ふたりを眺める。
かなたの体には、うっすらとけれども決して消えることのない傷跡が残っていたが、彼女が目覚めたとたんにその色をなくしていた。
それだけ、彼女の心が戻ってきたことは大きい。体が息を吹き返したのだ。
底知れぬ魔力を持つ魔王には不思議な力が秘められている。しばらく心が離れているのだと予想はしていたものの、目覚めた彼女の話でそれが確信に変わってもどこかお伽噺のように思えてしまうが。
本人に言ったように、今目の前に目覚めた魔王がいるのだから、細かいことを気にしてもしかたがないのだろう。
「前の記憶がないってわかって、ほっとした?」
かなたの頬をなでる白い手がぴたりととまった。
かすかに顔を上げた魔王の側近に、容赦なくエーデは言葉を続けた。
「こっちの耳にたこができるくらい、目が覚めたら姿を消すって言ってたのは誰だったっけ? いざその場面に居合わせたら名残惜しくなった? それとも、あんまりにも頼りなくて心配になった? 魔術も満足に使えず、ここで命を狙われることも知らず、戸惑ってばかりの彼女が」
「……エーデ」
硬く、冷ややかで鋭利な声。魔族の間で氷の瞳と囁かれる目を向け、まとう空気までもが形を変えるその様子に、エーデはひるむどころか楽しげに目を細める。
「どうやら、魔王様は人として生活していたみたいだよ。きみの憎くて憎くてたまらない人間たち。それでも、魔王様を慕えるの? 人だった記憶しかない、彼女を守るの? きみが? あれほど人を憎んでいたイルが?」
不器用でまっすぐ。だからこそ、食い違いが生まれる。
三十年前の出来事を、エーデだって忘れたわけでない。血を滴らせて崩れていく彼女と、その血を浴びて悲痛な叫びに声をからした彼。
時を経て、変わったようで本質は変わっていないふたりに、やはりエーデは笑みを浮かべる。
まとう空気を凍らせて、けれども口を閉ざして動かない男。
彼女はすべてを知ったらどんな顔をするのだろう。以前の記憶は失っても、その彼女と今の彼女はまぎれもなく同じ。
背格好だけではなく、根本がゆるぎないのだとこのわずかな時間でエーデは察していた。もちろん、目の前の男もそのはずだ。
耳を澄ませると穏やかな寝息と、とくりと脈打つ鼓動が聞こえる。
エーデはふっと笑んだ。
「ま、いいんじゃないの。なんだかんだ、魔王様は魔王様で変わってないし。イルのしたいようにすれば」
軽い調子声にぐっと目を伏せてから、イルディークはまっすぐとかなたを見つめる。
「私は、魔王様のお力になるだけだ」
眉間の力が抜けて無防備なその顔。やせた頬をイルディークの白い手がそっとなでていく。
ひどく優しいその仕草に対して、浮かべている表情はこわばったものではあるけれど。その心境を察しているエーデは多くは言わず眺めるだけ。
ふっと息を吐いて、ベッドから体を離す。金の髪をうるさそうに払うと、彼は足元の鞄を手に取った。
「なにかあったらまた呼びなよ。夜の宴は、魔王様がどうであれ決行するはずだし」
「わかった」
かなたから目を離さないイルディークの返事は素っ気ない。それもまた気にもしないで、医者はあっさりと部屋を辞していった。
しんと静まる部屋に、小さく響く穏やかな寝息。ひそやかに吐き出された、かすかなため息。
ふたつは混じることのないまま、溶けるように消えていく。