33.月夜に響く旋律
邸の窓が見える。
月の輝く夜のこと。迷いの森の人たちが寝静まり、あたりはしんとした空気に包まれていた。
窓からは、魔王の居間がのぞく。
ランプに灯された火が揺らめいて、真っ暗な夜に、窓の形だけが浮かび上がる。
「あの子を残して、自分は死ぬの」
ベルベッドのソファーに座る誰かが――かなたからは顔は見えないが、ワンピースのすそに、白くて細い足。どうやら女性のようだ。――目の前に立つ男の言葉にため息をこぼした。聞いているほうの胸がつまるような、そんなため息だった。
聞き覚えのある声に、知らない声がこたえる。
「それでこの騒ぎが収まるなら、それでもいいわ。もう、疲れてしまったの」
それはやはり女性のものだった。
知らないはずなのに、かなたにはそれが魔王の母親なのだとわかってしまった。まだかなたの体が長い眠りについておらず、お嬢様と呼ばれ、かなたの父親が魔王、母親がその后だったそのとき。
また月が過去を見せている。ああ、そうか。今夜は、満月だった。
そこまで察すると、よく知った声が感情の読み取れない抑揚で后にたずねる。
「全部、あの子に押しつけてゆくの」
波打つ金髪を背に流す、後姿。
立ち尽くすエーデに、后は迷わずにうなずく。
「そうね。なんてひどい親でしょうね」
「魔王様もなにを考えて――」
「エーデ、あなたはどう思う?」
怒ったエーデの口調をさえぎって、后はそっと仰ぎ見た。
まだ子供の域である、魔王と后の娘。かなたのことだけれど、かなたじゃない眠りにつく前の魔王。
「あの子は、私たちとは違う。ちゃんと外にも目を向けることができる。あの子がいれば、だんだん変わっていくはずよ」
頻繁に森から抜け出して外とを行き来する娘は、ほかの種族を憎むのではなく、憎まずにすむにはどうしたらと頭を悩ませている。
魔族のなかでは、一般的ではない。このとき、彼らのなかには迫害されていることへの憤りや、理不尽に痛めつけられていることへの憎しみばかり。【忌みし力】と呼ばれることを厭っているのに、自ら魔術をそうした力にしてしまっている。わかっていても、やめられない。今更引き返すことはもちろん、立ち止まることだってできないのだ。
そこに明るい未来があるのだと、信じているわけでもないのに。争いが増えるばかりで、負の感情ばかりが募っていく。
だからもう、断ち切らなければならないのだと妃は言う。娘にすべて背負わせることになったとしても。魔族の王として后として、やらなければならないことがある。
「そのために、あの勇者だけは足止めしなくちゃ」
残忍な、勇者。
力をつけすぎて、それを振りかざすことが世の平和と声高に説く男。
彼は、目についた魔族を片っ端から殺しては、魔王の首を探して回る。この森が見つかるのも時間の問題かもしれない。ならば、見つけられる前に目を眩ませるだけのこと。
「足止めするなら、うってつけでしょう。なにせ、血眼になって探している魔王とその后だもの」
后はほほえんだ。
「大丈夫。あの子の魔力は、私なんて比じゃないくらい。使い方もよくわかっているわ。だから、あの子はきちんと魔族を導ける。それはあなただってわかっているでしょう」
后の心は、このときすでに決まっていたのだろう。迷いのない声と、凛と伸ばされた背が、それを物語っている。
説得はもはや意味をなさない。
なさないのだと、察してしまった。
「……きみは、いつもそうして逃げる」
責めているはずなのに、どこか悔いるような硬い声が吐き出された。
その声に、かなたは胸が締めつけられる。初めて聞いた、彼の感情がにじむ声。
いつものいたずらっぽく、からかいを含んだ声とは似ても似つかなかった。エーデは、どんな思いでこのとき后を前にしていたのだろう。
静けさしかないこんな月夜に、くすりと笑みがこぼれた。
やわらかなほほえみだった。きっと、彼を見つめる目も、ひどく穏やかなのだろう。
「エーデ、あなたはいつも心配ばかり」
ぐっと唇を噛みしめる男に、相手はそっと手を伸ばす。
白く滑らかな頬を、もっと白くて華奢な手がなでた。言葉は、もう、出てこない。黙ったまま立ち尽くし、エーデがそっと目を伏せる。
「あの子をお願いね」
優しく后はささやいた。
まっ白い花が敷きつめられている。
きれいに磨かれた石がふたつ並んで、丁寧に編んだ花冠がかけられていた。黙ってその石――墓石を見つめているおとこがひとり。やわらかな金髪を風になでられている。
迷いの森の奥の奥にあるここは、祈りの丘と呼ばれる。草原を風が駆けて緑のさざなみが立つなかに、いくつもの石が光を受けてきらきらした。きれいなのに、どこか寂しいその景色。
「后は、その花が好きだったな」
ざっと草が鳴った。
低い声がかけられても、彼は振り返ることはない。ただ、まっすぐと花に覆われた魔王とその后の墓を見つめた。
勇者に切り刻まれて焼かれた体に、ようやくの休息が与えられた。けれども、もう目覚めることはない。ただの肉と骨の塊になって、棺桶に収められた。あのきれいな顔も、すべらかな肌も、華奢な背も、なにひとつ面影がなかった。こんな結果を、誰も望んではいなかったのに。
「……エーデ」
言葉もなく立ちすくむエーデに、アズがそっと呼びかける。すると、ようやく彼は震えたため息を吐き出した。
「お嬢がかわいそうだ」
ぽつりとこぼされた声。
「泣く間もなく、もう、魔王の顔をしていた」
ぐっと拳が握られたのに、アズは黙って傍らにたたずむ。無理に声をかける気はないらしい。
せつない吐息を落としながら、エーデは墓石をじっと見つめた。心配なほどに、白い顔。それがまた、よけいに見ている者を不安にさせる。
磨かれた表面に彫られた名前をなぞるようにながめ、丹念に編み込んだ花たちに視線を落とす。表情のない顔で、丁寧に丁寧に花冠を編んだのは新しい魔王だ。
「否応がなしに、魔王になるしかないあの子の気持ちは、誰が考えてあげるの。一番近くにいる親が、考えてあげるんじゃないの。死んで、なにが変るっていうんだ。生きて変えられることのほうが、どれだけ重要だと思う? ……本当に馬鹿だ」
勇者が迫っているとわかると、魔王と后は防衛団の一部を連れて森を発った。
森から勇者を引き離し、迎え撃ち、そして呆気なく果てた。犠牲を最小限に抑えたいと、魔王自ら先頭に立った。勇者の相殺が魔王の魔力を上回って囚われ、爪を剥がし、指を落とし、気がすむまで拷問をして殺された。后も、同じだった。むしろ、もっと悪い。魔王を脅すために、后を先に折檻してその命を奪っている。
エーデたちは、魔王の最期を邸から見ていた。魔術を使い、居間の姿見に映し出して見ていることしかできなかった。ほかに手がないこともわかっていたから、絶対に手出しはしないと決めて見届けた。それは、死にゆく魔王たちと、眠りにつくまえのかなたが望んだことだった。
記憶と言っていいのかわからないが、今目の前で見えている光景とは別に、魔王たちの最期が頭に浮かぶ。
高笑いと歓声を上げて勇者たちが去って、ようやく変わり果てた親の亡骸を森へと移したことも、心を凍らせて埋葬したことも、かなたの頭の中に、たしかに、浮かべられた。
だからこそ、よけいにかなたは墓前にたたずむエーデとアズに胸が騒いだ。いつも支えてくれる彼らの、知らなかった一面。
勇者が無傷だったかといえば、多少なりとも力を削いだだろう。
初めから勝てないとわかっていた相手だから、魔王を倒したのだと思わせることが目的だった。魔族の内情は外には広がっていないから、そのあとを継げる彼らの娘がいることを、勇者はまだ知らないはず。そのための、魔王と后の死だった。
「エーデ。こういうときは、泣いてよいのだと教わらなかったのか」
硬く拳を作って表情をなくしたエーデに、アズが諭すように口を開く。
アズ自身も内心穏やかではないが、今はそんなことよりも、この男のことが気がかりだったのだ。
そんなアズへ、エーデは唇を震わせて吐き出した。
「……さあね。いたとしても、もうこの丘に眠ってるさ」
アズはそっとため息をついた。目の前に眠る后と魔王を見つめる。やさしく諭す声が今にも聞こえてきそうだった。
「おまえはいつも人のことばかり。たまには自分を顧みたらどうだ」
「どっかの鶏頭みたいなこと言わないでよ」
エーデは犬猿の仲である相手を思い浮かべたらしい。それにアズは目元をやわらげた。
「あいにく、ウェルとは血がつながっているからな」
「つまり、あれが口うるさいのはきみのせいか」
「否定はしない。あいつが俺の背を見て育ったことは確かだから。だが、ウェルの言うことだって一理ある。素直に聞いてやってもいいだろう」
こんなの、間違ってる! アズの弟は声を荒げて椅子を蹴飛ばした。椅子の背もたれを折り、机を転がし、その脚が折れるまで、散々部屋を荒らして憤っていた彼は、今頃不貞寝を決め込んでいるだろう。
間違っているとわかっていても、止める力もなかった。ほかの方法も思いつかなかった。それがよけいにやるせない。アズは彼の気持ちが痛いほどわかって、暴れるのも止めなかった。誰もが、同じような気持ちを抱いている。
「二度と、こんな思いはしない。俺も、おまえも、お嬢も、ほかの誰もが。そのために、俺たちが残った。残されたんだ」
魔族が大きな痛手を負うわけにはいかないと、魔王は若い世代が迷いの森から出ることを禁じた。
どれだけ食い下がっても、アズもエーデも戦いには出られなかった。次期魔王の力になれと命を下され、まだ子供の域にいる彼女だけが残されること思うと、それに従うほかなかった。
ただ、魔王と后が死にゆくのを、見ているだけ。囮となった魔族たちが散ったのを、弔ってやることしかできなかったのである。
もう二度と、こんな歯がゆい思いはしない。
命と引き換えに与えられた時間を、無駄にはできないのだ。
***
幌の隙間から差し込む月明かりに、かなたは瞼をしばたたかせた。
しんとした夜の空気。泉の水面が揺れてちゃぷんと音がしたけれど、それだけ。すやすや眠るケットとサザレアを起こさないようにそっと立ち上がり、はらりと幕を避けて外へ出た。
満天の星空に、丸い月。
濃紺の布地にビーズを瓶ごとばらまいたみたいな、無数の星たち。
煌々と輝く明かりを浴びると、たしかに、体の芯が脈打つような魔力の巡りを感じる。
ぼんやりと空を見上げたかなたは、ゆっくりと視線を下ろす。凪いだ泉の水面がきらきらして綺麗だ。その湖畔にテントをふたつ張っているのだが、間の焚き火に人影があるのに気づく。
満月を見上げる彼の隣に、かなたも静かに腰を下ろした。
石を組んで作ったかまどは、もう火が消えていた。泉の水を沸騰させた鍋がかけられたままで、もうすっかり冷めただろう。明日の飲み水と料理に使う用だ。その鍋にまで、満月が映っている。
「混血だから。魔族とエルフの」
エーデは唐突に口を開いた。
傍に置いたままだったリュートに手をかけながら、なんてことないように笑う。
「どこにだって、ちょっとした歪みはあるものだよ」
かなたが月に過去を見せられたことなんて、彼は知らない。
祈りの丘で嘆いていた姿が、こんなにも落ち着いたのは時間が経ったからなのか、それさえも薄れるほどの物事があったのか。かなたにはわからない。
ただ、今、こんなふうに笑えるようになるまで、彼のなかにも幾多の葛藤があったはず。それが、胸に痛い。平気だと笑ってくれるだけ、なおのことだ。
「魔族だけじゃない。エルフはとくに、血統にはうるさいからね。これが人間やドワーフの混血でも歓迎はされないかな」
エルフ以外の種族が混ざることを、まがいものと言うのだそうだ。まがいもの。種族の穢れ。恥さらし。
混血である者を忌み嫌うのはもちろん、その親となる者まで白い目で見られる。種族の純血を穢したとみなされるからだ。自分たちの種族を重んじるからこそ生まれた亀裂。
昔、ほかの種族が無理矢理エルフの女を孕ませ、自分の子孫に秀でた力を持たせようと考える者がいた。
エルフの長寿とうつくしさを、とくに人間たちはうらやみ、手荒なことをした過去がある。それがよけいに、エルフがほかの種族を嫌悪する風潮を助長した。
今でこそ、好き合って一緒になることもあるらしいが、まがいものと呼ばれることを覚悟の上で、エルフの町には二度と踏み入らないことにもなる。それほど、まだエルフは純血にこだわっている。
「エーデ、そんなことに慣れたらだめだよ」
長寿がゆえに、エーデの顔をあの町のエルフたちは覚えていたのだ。魔術を使ってエルフを装っていたことが、よけいに彼らの矜恃を刺激してしまったのかもしれない。
あんな、心ない罵声をあびせることが当然だと言いたげだったエルフたち。
涼しい顔で聞き流していたエーデに、彼がそんなことに慣れているのだと気づかずにはいられない。アズや鍛冶屋の忠告はもっともだ。
「大丈夫だなんて平気な顔しちゃだめだよ。あんなの、怒っていいんだよ。飲みこんじゃ、だめだ」
「どうしてカナタがそんな顔するの」
困ったような顔をする彼に、かなたは息を吐き出す。
エーデといえば、金髪に若草色の瞳。そして目と耳が非常によい。
ほかにもそんな魔族はいるけれど、改めて思えばそれはエルフの特徴とも重なっている。
今までも、気づける要素はあった。けれども、その散りばめられていた欠片たちに気づけなかったのは自分だ。知っていたら、今日エーデはあんな言葉たちを投げつけられなくてすんだかもしれない。
「……気づかなくて、ごめん」
ぽつりと声がこぼれた。
ようやく言えた言葉だった。
それなのに、エーデは首を振る。
「気にしていないから、カナタが謝ることじゃない。それに、みんなには口止めしていたからね。――わからないやつは、ずっとわからないかもしれない。でも、そんなのばっかりじゃないって知ってる。いいんだよ、言いたいやつには言わせておけば」
きっと、エルフだけでなく魔族のなかでも奇異の目を向けられたことはあるはずだ。
森のなかでは医者として慕われていたように見えた。それもまた、彼が築きあげたもの。
「親を恥だとは思わないし、後悔があるわけでもない。あの森で生まれ育って、きみたちの成長も見守れて、こうして外にも出られる。おまけに、魔術は使えるし寿命は長いしいいとこ取りだよ?」
月の光に、星たちのまたたきに、若草色の瞳がきらきらしている。
まっすぐと向けられた澄んだ色。
「だから、ごめんなんて言わないでよ。あの町に行けばああなることはわかってたけど、行くと決めたのは僕だ」
かなたは目も、耳も、エーデから動かせない。
そよぐ風もまたたく星も、このときばかりはかなたの中には入ってこなかった。
「カナタはこういうことも知っておいたほうがよかったでしょ。それに、そんなこと差し引いても、みんなで旅行なんて楽しいじゃない」
ひとりで留守番なんて絶対嫌だし。
そう言って笑う顔は優しかった。諦めとはちがう、穏やかなもの。
かなたはぐっと歯を噛み締めた。この笑顔が切なくて、けれどもまぶしくて。夢の中で唇を歪めていた姿でないことに安堵する。そしてエーデのことをあまり知らないのだと痛感した。
いつも飄々としているエーデに、潜むあの激情。
自分の痛みよりも、周りの痛みを感じてしまう彼が自然に笑っていられる世界に、今は近づいているのだろうか。
満天の星を見上げて、かなたはゆっくりと目を閉じた。




