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地平線と彼方  作者:
本編
4/68

04.目覚めの宴4

 もう無理です。ごちそうさまです。

 わんこそばならぬ、わんこ桃とでもいうのか。次々と桃をすすめられたかなたは、ひとつと半分を腹に収めたところで根を上げた。

 桃は好きだが、一度にそんなに食べられない。三つぺろりと平らげたエーデを恐ろしく思う。きっと彼の血も涙も汗もあまい桃の味がするのだろう。


 じゃあ戻るねー。ひらひらと手を振って去っていったエーデを見送ると、部屋にはイルディークとふたりだけになった。彼はかなたが言い出さない限り、いつまでも傍らに控えていそうだ。

 勝手がわからないから助かるのだが、そんなにべったりしていなくてもと思うのが本音だ。


 かなたは部屋を見回す。天蓋ベッド、猫脚テーブル、ベルベットのソファー。その他には、飾り縁の姿見、クローゼットとドレッサー。改めて眺めると、どれもこれも年代物で上品な家具だった。今までの生活ではなかなかお目にかかれないものたち。

 それからようやく、自分の体を見下ろす。まとっているワンピースは薄手で、ギャザーもダーツもない、すとんとしたシンプルなもの。

 ずっと寝ていたということだから、寝間着なのだと思う。


「イルディークさん、今わたしが着てるのってパジャマみたいなものですかね?」


 果物と器をメイドに下げさせたイルディークは、やわらかく目を細めた。


「さようでございます。今からお休みになられないようでしたら、着替えをお出しいたしましょうか?」

「お願いします」

「かしこまりました」


 こころよくうなずいて彼はクローゼットに手をかける。開いた扉の中にはドレスやワンピースが並んでいるのが見えたので、引き出しにはシャツやズボンがあるのだろう。

 下着も――と思ったところで洗濯板と石鹸を持っているイルディークの姿が思い浮かんだので、かなたは慌てて思考をシャットダウンした。


 かなたがそんなことで落ち着きないことなんて露にも思っていないだろう彼は、丁寧に何着かの洋服を取り出して並べた。

 かなたはそのなかから紺色の落ち着いたワンピースを選ぶ。するとイルディークがレースのボレロも取り出した。コーディネートまで見立ててくるところに、妙な主張を感じなくもない。

 嫌な予感がして、かなたはイルディークを強引に部屋から追い出した。お手伝いいたします、という熱気のこもった言葉を聞かなかったことにする。

 ばたんと音を立てた扉を満足げに見て、ようやくかなたは姿見と向き合った。


 なんだか若返っているのは気のせいだろうか。下手をすると高校生くらいに見える。

 かなたは二十六歳会社員。茶色に染めたボブカットは指一本分くらいプリンになっているはずなのだが、今は染める前の真っ黒い髪が頬にあたる。その髪を耳にかけると、イルディークと同じように少し尖っていた。

 ずっと寝ていたという言葉は本当らしく、あらためて意識して体を動かしてみるとあちこちがきしんだ。


 肌が病的に白く、肉付きが悪い。ダイエットとして毎朝ジョギングをしていたのだけれど、今は体力づくりとして必要かもしれない。

 手早く着替えをすませると髪をブラシでなでつけ、鏡の前で頭のてっぺんからつま先まで確認。

 まあいいか。肌の色は悪いけれど張りときめの細かさは嬉しい。ストレスからくる顎ラインのニキビに悩まされ、パソコンとにらめっこする事務作業で足はむくむ毎日だったのに。それがないとは。


 上司たちから受け取った伝票の束までも思い出し、かなたはげんなりする。考えただけでぽつぽつニキビができそうだ。

 愛用している化粧品もないから、食生活と精神衛生管理はきちんとせねば。せめて、文明の利器であるパソコンや携帯電話があれば、天然素材で手作り化粧水なんてものも作れるかもしれないが。

 ないものをねだっていてもしかたがない。かなたはため息をついて頬をなでた。願わくばぴちぴちの肌が維持できますように。


 さて、それはさておいて。部屋を出たイルディークはどうしているだろう。扉の前で聞き耳を立てていそうな気もするけれど、呼ばないわけにもいかない。かなたはため息をついてから扉に手をかけた。

 ぎっと音を立てた扉は重い。よくもまあ、音を立てずに出入りできるものだ。

 執事のような振る舞いをみせる彼を思い呆れながら、できた隙間を覗いたかなた。目に飛び込んできた光景に目を丸めた。

 見慣れた、アパートの通路である。




 勢いよく振り返ると、足元は三和土。スーパーに買い物へいくときによくはいていたサンダルと、少しだけ黒がはげたパンプス。ジョギング用のスニーカー。

 上りかまちの先には狭い台所。トイレと、風呂の扉。洗濯機。開けたままのガラス戸の向こうは畳張りの六畳で、こたつ布団を取ったテーブルを中心にテレビなどの家具がある。見慣れたかなたの部屋だ。

 なんだ、やっぱり夢か。

 かなたはふうと体の力が抜けるのを感じた。


 そうだよな、あんな美形が変態で魔王がどうのこうの言う話、現実にあるわけがない。ああよかった。

 不思議な人たちで、まだ変態ふたりにしか会っていないけれど、あそこでの生活は大変そうである。

 時計を見ると朝の六時を過ぎたところであった。テーブルの上に放られたスマートフォンは、七月七日水曜日を表示している。七夕だ。


 平日は仕事だ。変な夢を見たなあと思いながら、かなたはリュックサックに荷物を入れていく。

 スマートフォン、ハンカチ、ハンドタオル、化粧ポーチ、手帳とボールペン。たんすからティーシャツと短パン、レギンスを出してさっさと着替えた。

 かなたの仕事は土木事業会社の経理事務である。歩いて三十分ほどの場所なのだが、日ごろの運動不足とダイエットのために走っていくようにしている。

 会社に着けば制服があるし、朝ごはんは会社で食べるので、冷凍しておいたおにぎりをレンジであたためて、その間に淹れたほうじ茶を水筒につめた。

 肩にかかる長さの髪を襟足でひっつめて、腕時計もはめる。うーんと背を伸ばしながら軽く体を回し、つめこんだリュックを背負った。


 さて、行くか。

 スニーカーに足を突っ込み、とんとんとつま先を打つ。こんな格好の魔王様がいたら笑えるよなあ、なんて夢の余韻に思わず笑いながら玄関扉を開けると、見慣れない廊下が目の前にあった。

 ついでに言うと、まん前に美形の変態もいる。




 ぽかんとイルディークを見たかなたは、勢いよく部屋を振り返る。そこには見慣れた台所も、六畳の和室もなかった。

 広い部屋で、中央に天蓋のベッド、床から天井まである大きな窓、ベルベットのソファーに猫脚のテーブル。

 かなたはがっくりと崩れ落ちた。

 なんだろう、今の数十分。地球での生活も見納めですよ、とでもいうつもりだったのだろうか。


「魔王様、いかがいたしました? エーデをお呼びしますか?」


 もう一度扉を開けて、そこがアパートの玄関先になるのではと手をかけても、心配そうなイルディークがいるだけで日本の気配はどこにもない。

 爪先立って彼の向こうを見ても、ランプの明かりが揺れる薄暗い廊下が伸びているだけ。やたらとスポーティーな格好のかなたと、それを訝しげに見下ろすイルディーク。彼は、この服はいったいどこにあったのだろう、という顔で首をかしげている。

 今から走ろうとしていたはずなのに、体にうまく力がはいらず頭がくらくらした。膝が笑ってぐらりとかなたの体がかたむく。


「魔王様!」


 頭がおかしくなったのだろうか。うまく整理がつかない。目の前がいっきに暗くなって足がふらついた。

 それが眩暈だと思い至ったのは、イルディークが素早くかなたの体を支えてからである。

 込みあがってきた吐き気を堪えるため、ぐっと目を閉じるとイルディークがそっと抱えてソファーへ向かった。

 リュックを引きはがし、横抱きにしてそのまま彼は腰かける。

 かなたはその胸に額をこすりつけた。香水ではなく、石けんと肌のにおいがする。体温の低い手がかなたの背中をゆっくりとなで、耳に唇を寄せた。


「エーデを呼びます。魔王様はお気になさらずに、このままお休みください」


 うつむかせた顔に、イルディークの手が添えられる。閉じた瞼を手のひらが覆った。

 体を支えたものとは違うひんやりとした手に、知らず知らずため息がこぼれる。

 おやすみなさいませ。

 静かなイルディークの声に引きずられるように、かなたは眠りにゆっくりと落ちていった。


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