25.碧の泉にて1
ココにとって、小鳩亭での毎日はなにもかもが新鮮だった。
毎日同じ流れで動いているはずなのに、当たり前のことが真新しく見える。そしてそれがまた、気持ちがよいくらい駆け足で過ぎていくのだ。
幼馴染が求人募集の張り紙を握りしめて駆け込んできた、あのときのことを今でもはっきりと思い出せる。
とてもとてもうれしそうに、不思議なお店があるんだよ! と真っ先にココへと知らせてくれたのである。
大通りにある【黄金畑】という酒場の三男であるココは、店を手伝うことはしても、継ぐわけでもなく、これからどうしていこうかと思っていたところだった。
それをこぼしたことはなかったはずだけれど、パン屋の娘はなんとなくココのそんな気持ちに気づいていたのかもしれない。
彼女も彼女で、兄夫婦と両親で事足りているパン屋には居づらかったようだ。つまみ食い常習犯だとなおさらである。
いろんな食べ物を使うんだって! 行ってみようよ! 行ってみて嫌だったらやめればいんだからさ!
ケットには、いつもこうして背中を押される。
あの前向きで明るくて、見ているとこちらまで元気になる笑顔に、ココは眉を下げて笑った。まったく、かなわない。
そうして連れ立って訪ねた【小鳩亭】は、本当に不思議な店で。
迎えてくれた店主は驚くほど若く、ためしに作ってくれた料理はあたたかくておいしかった。
ふわりとした卵に包まれたオレンジ色の米。見たことのない野菜の酢漬け。揚げた鶏肉とじゃがいも。
なにこれおいしい! ぱっと頬をおさえたケットの横で、ココはただひたすらに感心していた。
自分と年は変らない店主は、ココが今まで見向きもしなかったものをあっという間に料理して、香り立つ皿に変えてしまう。食に対する興味を見事に形にしている、その行動力と発想は鮮やかだった。
こんな料理を出す店だけど、どうしますか。
本人も一般的ではないものとわかっているらしい。あとはココたちの気持ちだけ。
合わないと思ったら正直に言ってくれてかまわないので、と苦笑した店主――カナタに、ココは迷わず働きたいと答えたのだった。
あたしが先に見つけたのに。ぶーたれたケットは、ココの答えにあたしもあたしも! と続けたけれど、先を越されて不満そうに唇をとがらせていた。しばらく根に持たれ、ごめんと謝るほかない。
料理の練習を重ねて、カナタの言う献立を作っていく。慣れてくればその献立のことも相談され、ココたちの意見が形になっていく。カナタは店主ではあるが、偉ぶるわけでも出し惜しむわけでもなく、ココが戸惑うくらい気さくに迎え入れてくれた。
びっくりするくらい強引なときもあるし、突飛なことも言う。そのくせ、うまく周りをどんどん巻き込んで決めた方向に引っ張っていく。そんなように見える。気づくと、ああまた知らぬ間に新しいことをしているなと思う。
そんなカナタに認められることは、素直にうれしいし誇らしい。
だから、唐突にトリトリートの店へ行ってほしいと言われても、ココは迷うことなくうなずいたのだ。
碧の泉は酒場である。
小鳩亭とは違って、酒とそのつまみが商品だ。動き方が小鳩亭の厨房とは違ってくるとは思っていたけれど、いざやってみると戸惑う部分がそこかしこに転がっていた。
営業再開と決めた初日、聞きつけた冒険者や小鳩亭の料理に興味を持っていた町の人たちがさっそく扉をくぐる。
初めはそんなにお客さん多くないだろうから、ゆっくり三人でなれていったらいいよ。カナタはそう言って笑っていたが、その予想は見事に外れた。彼女は自分の料理をあまく見すぎている。
あの人、わりと的外れなとこあるんだよなー。どっと人で賑わう酒場を見て、ダイナが憮然とこぼした。
「とにかく、せっかく来てくれたからがんばらないと」
トリトリートが袖をまくって気合いを入れているのに、ダイナが正反対の顔でため息をついた。
「がんばるだけでうまくいくなら世話ねーっての。効率よくやんないとあとに響くし。あんた、とにかく注文取ってきて。テーブルごとにメモ」
「う、うん。テーブルごとね、わかった」
ちらりと視線を投げてから、ダイナはジョッキをどんどん並べ始める。ということは、たぶん彼はカウンターに立つつもりなのだろう。
ココはこっそりと笑みを浮かべる。小鳩亭で一緒に働いた十日間で、カナタが彼をここに寄越した意味がよくわかった。ダイナは視野が広くて頭の回転が速い。機転がきくから、こういうときにとても頼りになる。
「ダイナ。おれが時間かからないものから料理をやっていくよ」
「ん。じゃあ、酒どんどん入れるわ。……ったく、忙しすぎるって呼びつけてやりてー」
「心配してそわそわしているとは思うよ?」
小鳩亭の様子を思い浮かべたココへ、ダイナが視線だけ向けた。
「そんな暇ねーと思うけどな。イルさんが厨房入ってるかどうか、賭ける?」
「……それは賭けにならないな」
無駄口を叩きながらココはサラダやマリネを用意していくし、ダイナもジョッキを次から次へと満たしていく。
フロアを走り回って注文を取って来たトリトリートに、メモをカウンターに置くように言うダイナの声が聞こえた。そうしてココに、料理の注文を飛ばす。
カナタはココに仕切るよう期待していたと思うが、この状況だとダイナに任せた方がよさそうだ。
「トリトリート、麦酒を運んでしまって。ダイナ、作り終えたものから伝票に印をつけていくよ?」
「おー。落ち着いたら、あいつそっちに引っ込めるから手分けして料理やってー」
ゾムじいさん、いらっしゃい!
こちらの気配りもなんのその。六つのジョッキを持ったまま、村長へいい笑顔で尻尾を振った店主。
呆れのため息をつくダイナに、しばらくひとりでやってみるよとココは笑った。お客との交流も店主には必要なのである。
「本当だ、すごい忙しそう」
「カナタ!」
小鳩亭の夕食が落ち着いたのだろう。そんな時間に顔を出したカナタが、碧の泉の賑わいに驚きの声を上げた。
うれしそうに店主が駆け寄ると、カナタはごった返した店を見渡して目を細める。
「トリトリート。初日から大変だったね」
「すごくたくさん来てくれてるんだ! 本当、カナタのおかげだよ」
ようお嬢! 来てみたぞー! カナタに気づいた小鳩亭のお客たちがジョッキをかかげてあいさつしている。
みなさんどうもありがとう。笑顔のカナタの横で一緒になって頭を下げているトリトリートを、ダイナが容赦なく急かす。
「おい、んなこといいからさっさと注文取ってきて」
びくりと肩をはねさせたトリトリートが慌ててテーブルに駆けていくと、カナタが興味深げにカウンターを眺めた。
「あれー、ダイナがそこに立つのかあ。そっか、まあそれもありだねえ」
「……あんた、まさかひとりで抜けてきたの?」
「ケットもいるよ」
眉を寄せたダイナに、カナタは酒場の入り口をしめす。ケットが顔を覗かせて手を振った。そしてその後ろにはイルディークもいる。ケットが小鳩亭をあがるのに合わせて立ち寄ったのだろう。
ケットと別れればカナタがひとりで夜道を歩くことになるが、もちろんそれを許すイルディークではない。
「カナタさん、早く行こうよ! 負けてられないよ!」
「うーん、別に勝負してるわけじゃないんだけどなあ」
フロアを見渡したケットに、カナタが苦笑する。
賑わうのはいいことだよ。のんびり返すカナタはやはりうれしそうだ。ぶーたれているケットに、ココはやんわりと声をかけた。
「ケット、今日はもう終わり?」
「……うん」
きゅっと唇をとがらせて上目にうかがうのは、居心地が悪いときの彼女の癖だ。
ケットはまだカナタがレシピを広めてしまったことを気にしている。トリトリートとも打ち解けたいが、ちょっとぎくしゃくしていてカナタがそれを心配していた。そんな素直な幼馴染の顔をココは覗き込む。
「明日、ちゃんと起きて行くんだよ?」
「そんなのわかってるよ。ココだって、起きれなくても知らないんだから!」
わっとムキになって反論する頭をなだめるようになでる。
これまで毎朝、ココがケットの家に寄ってから小鳩亭に出勤していた。別々に仕事をするのは不思議な感じだ。
「ココ。少しなら手伝えるけど、どうする?」
お客のテーブルから離れたカナタがカウンターまで戻ってくる。ココはそれに首を振った。
「いえ、大丈夫です」
ここは助けを借りずに踏ん張るところだ。大変なのは目に見えているが、あまえるわけにはいかない。今、ココは小鳩亭ではなくて碧の泉で働いているのだから。
はっきり答えるとカナタがうなずく。
「そっか。じゃあケット、今日は帰ろう。明日もがんばらないと」
「うん」
ぱっとココから離れてカナタに駆け寄る。イルディークが扉を開けて夜の町へと導いた。月の位置がずいぶんと高い。
じゃあね! またね! 手を振って帰っていく彼女たちを、ココは感謝とともに見送った。




