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地平線と彼方  作者:
本編
35/68

(閑話)急がば回れと言いますが

 肩に心地よいものがふれて、かなたはふっとまぶたをあげた。

 レシピや計画をまとめた紙が机をうめつくしていて、体を起こすとぱらぱらそれらが床に舞う。

 ぼんやりする視界に心配そうな水色の瞳があって、かなたはすぐに状況を把握した。


「起こしてしまいましたか」

「……んー……寝てた」


 かなたを支えていた冷たい手のひらは、そっと背中に回されてやんわりと固まった筋肉をなでていく。イルディークの手はひんやりしていて気持ちがよい。

 明日の仕込みを終えて、ケットたちが帰って、風呂をすませたあと。かなたはトリトリートの受け入れ体制を整えるべく机に向かっていた。小鳩亭での分担はもちろん、迷いの森からの食材調達や生産量の調整なんかもどのように変えていけばよいのか検討が必要で。

 やっているうちにどうやらうたた寝してしまったらしい。んー、と伸びをするとあくびがこぼれた。


「このところ、あまりお休みになられていないのですから、ご無理はなさらないでください」


 ベッドに動かそうとしてくれたらしいイルディークは、それを断念すると代わりに床に散らばった紙を手早く拾う。崩れかかった書類をそろえ、その上に音もなく置いた。

 開けたままの窓からはふらりと夜風が滑り込み、月が高く昇っている。日付がかわったころだろう。なんだかんだとやることはたくさんあるから、彼の言うようにかなたはこうして時間を割いては少しずつ片付けているところだ。


「わたしが三人くらいいたらいいのになあ」


 魔術を使えばできるのだろうか。

 自分でやりきれないところは協力してもらうようにしているが、それでもこの宿屋をやっていることがすでにイレギュラーなことで、迷いの森の魔族たちもたくさんは引き込めない。なんでもできる魔王様の魔力なら、忍のような分身の術とか使えるのでは。明日試してみようか。


「お嬢様が三人……」


 きょとんとした瞳がかなたを捉え、桜色の唇から吐息がこぼれる。小さくつぶやいたあとでイルディークはポッと頬を赤らめた。


「なんのご褒美ですかそれは」


 ため息と一緒にこぼれた呟きに、かなたは氷の瞳と呼ばれるイルディークのそれよりも冷たい視線をお見舞いした。


「イルディークさん変態」


 白い手で口を押さえながら、なぜか彼は照れまくってるし、うっとりしている。どうしてそうなった。今ばかりはかなたの変態ポイント加算宣言も聞こえていないようだ。変態。やっぱり変態だ。

 三人いても甲斐甲斐しく世話を焼くイルディークの姿が思い浮かんで、かなたは魔術で分身するのはできても控えようとこっそり誓う。呆れを濃くした視線を向けてもうれしそうに頬を染められたので、容赦なく変態ポイント加算することにした。




「うん、それもそうだけど。カナタはまず、イルが今当然のように部屋にいることから不審に思った方がいいんじゃない? 寝てたんでしょ? 呼んだり倒れたりしたわけじゃなくて」


 ぐったりしてエーデに報告すると、優雅にブランチを楽しんでいる彼はにやにや笑ってとどめをさす。

 すでに翌日。ひと晩経っているはずなのに。


「ああー……」


 かなたは今更ながらに気づかされた事実に、ポイントの加算がやめられない。

 その横では、真顔で美形が変態発言を始めた。


「なにがおかしい。お嬢様のご様子をうかがうのは私の仕事の一環だ」


 それは日本でストーカーと呼ばれています。

 ぐったりしたかなたにエーデはいい笑みを向けた。


「慣れってこわいよねー」

「エーデさん、人を出汁に楽しむのはやめてください」


 他人事だからって! そりゃあ他人事だろうけど!!

 身近な存在がストーカーとはよく言ったものだけれど、いざ自分の身に降りかかると怖い。イルディークさんだししょうがないか、と思っていた自分の思考が怖い。慣れは撲滅せよ。

 大げさにガタブルしているかなたに、エーデは箸を置くと片眉をあげた。ちょっとだけ空気が変わる。


「ま、それはさておいて。イルの言うことも一理あるから。――最近ずっと働きっぱなしでしょ」

「やることがいっぱいあるからね」


 さらりと、なんでもないことのように返したのだが、目の前にいるのは吟遊詩人でも、料理に舌鼓を打つ居候でもなかった。

 魔王の主治医は、視線をそらした患者に言い聞かせるために口を開く。


「うん。でも、休むことも仕事のうちだから覚えておいてよ。無理するぶんを明日に回して調整するのも必要なことでしょ。早いほうがいいのは確かだけど、何日か遅れたって誰も責めないし、カナタを責めることもないんだよ」


 倒れるなんてことになったら、イルの行動は今以上になるからね。がんばってね。

 おふざけもわすれないながらも、きちんと釘を刺されてしまって。かなたはケットみたいに唇をとがらせた。どのようなお嬢様でも私のすべてです! なんて声は聞こえないふりして。


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