(閑話)おまじない
ぴっと指先を紙がすべった。
わずかな間をおいて、ぷくりと紅色の雫がふくらむ。ああ、気を抜いてしまった。
表情を変えずに人差し指を見つめたイルディークだったが、あ! と後ろから聞こえた声に顔を上げた。かなたがその赤を見ている。
「血が出てるじゃん」
エプロンのポケットからハンカチを取り出すと、イルディークが止める間もなく人差し指をおおった。やわらかな布に包まれて、ほんの少しだけ痛みが走る。
イルディークの指をぎゅっとしたまま、かなたは眉をよせた。
「意外と紙は切れるから。ガーゼ当てておきましょうか」
「これくらいでしたら、そのままでも構いません」
すぐに血もとまるだろう。
こんな小さな傷で真剣な顔をするかなたに、イルディークは思わず微笑んでしまった。やんわり首を振ると、しかしかなたは唇までとがらせる。
「イルディークさんは自分のことだと無頓着すぎます。これがわたしだったら大騒ぎしてるくせに」
「それはもちろんです。もしお嬢様がお怪我をなさったら、しばらく安静にしていただかなければ! ああ、血が出るなんてそんな傷! 私が舐めて消毒を――」
「イルディークさん変態」
一瞬にして視線が冷たくなった。かなたの中で変態ポイントが盛大に加算されただろうけれど、そんなことにイルディークはめげない。
「他の者には譲れません!」
「論点ズレてる! そこじゃない!」
まったくもう!
ぷりぷりと怒るかなたは、それでもイルディークの指から手を離していない。それが無性にうれしい。
なんだかんだと言いながら、イルディークの大事な魔王様は優しいのだ。
そっとハンカチをはずす。
赤い染みで汚れたそれを気にもしないで、しげしげと傷口を眺める。血はとまりましたね。ほっと頬をゆるめるその仕草さえ、とても尊いものに思えた。
指を曲げるとぴりっとした小さな痛みが走るが、これしきのことで煩わせるのは不本意だ。
大丈夫だと、伝えなければ。イルディークが口を開こうとしたのだが、じっと傷を見つめたかなたがそれをさえぎる。
「痛いの痛いの、とんでけー」
手のひらをかざした彼女に、イルディークは目を見開く。細められた黒い瞳が重なる。
「痛くなくなるおまじない」
そう言って微笑んだかなたは、最後に手を伸ばしてそっとイルディークの胸をさする。
「痛くなったらちゃんと言ってくださいね。いつでもおまじないしますから」
笑うかなたに虚をつかれ、うまく言葉は出てこない。
けれども、彼女が気にかけるのは見える傷だけではないのだと、イルディークが察するのは難しくなかった。何気ないひと言で引っ張られるこの感覚は、ひどく心地よいもので。
ありがとうございます。
胸に手を当てて、イルディークはやわらかく微笑んだ。




