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地平線と彼方  作者:
本編
29/68

(閑話)おまじない

 ぴっと指先を紙がすべった。

 わずかな間をおいて、ぷくりと紅色の雫がふくらむ。ああ、気を抜いてしまった。

 表情を変えずに人差し指を見つめたイルディークだったが、あ! と後ろから聞こえた声に顔を上げた。かなたがその赤を見ている。


「血が出てるじゃん」


 エプロンのポケットからハンカチを取り出すと、イルディークが止める間もなく人差し指をおおった。やわらかな布に包まれて、ほんの少しだけ痛みが走る。

 イルディークの指をぎゅっとしたまま、かなたは眉をよせた。


「意外と紙は切れるから。ガーゼ当てておきましょうか」

「これくらいでしたら、そのままでも構いません」


 すぐに血もとまるだろう。

 こんな小さな傷で真剣な顔をするかなたに、イルディークは思わず微笑んでしまった。やんわり首を振ると、しかしかなたは唇までとがらせる。


「イルディークさんは自分のことだと無頓着すぎます。これがわたしだったら大騒ぎしてるくせに」

「それはもちろんです。もしお嬢様がお怪我をなさったら、しばらく安静にしていただかなければ! ああ、血が出るなんてそんな傷! 私が舐めて消毒を――」

「イルディークさん変態」


 一瞬にして視線が冷たくなった。かなたの中で変態ポイントが盛大に加算されただろうけれど、そんなことにイルディークはめげない。


「他の者には譲れません!」

「論点ズレてる! そこじゃない!」


 まったくもう!

 ぷりぷりと怒るかなたは、それでもイルディークの指から手を離していない。それが無性にうれしい。

 なんだかんだと言いながら、イルディークの大事な魔王様は優しいのだ。

 そっとハンカチをはずす。

 赤い染みで汚れたそれを気にもしないで、しげしげと傷口を眺める。血はとまりましたね。ほっと頬をゆるめるその仕草さえ、とても尊いものに思えた。

 指を曲げるとぴりっとした小さな痛みが走るが、これしきのことで煩わせるのは不本意だ。

 大丈夫だと、伝えなければ。イルディークが口を開こうとしたのだが、じっと傷を見つめたかなたがそれをさえぎる。


「痛いの痛いの、とんでけー」


 手のひらをかざした彼女に、イルディークは目を見開く。細められた黒い瞳が重なる。


「痛くなくなるおまじない」


 そう言って微笑んだかなたは、最後に手を伸ばしてそっとイルディークの胸をさする。


「痛くなったらちゃんと言ってくださいね。いつでもおまじないしますから」


 笑うかなたに虚をつかれ、うまく言葉は出てこない。

 けれども、彼女が気にかけるのは見える傷だけではないのだと、イルディークが察するのは難しくなかった。何気ないひと言で引っ張られるこの感覚は、ひどく心地よいもので。

 ありがとうございます。

 胸に手を当てて、イルディークはやわらかく微笑んだ。


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