20.満月の夜に夢見る
夜が更けるにつれて、まるい月が町を照らした。
明るい光はおだやかで静けさをまとう。お客のいない小鳩亭は町の喧噪も届かない、不思議な雰囲気を持っているように思えた。
夜が更けて、月が満ちる。
かなたは大きな月をあおぐと目を細めた。
「なぜです!」
知っている声がとてもとてもつらそうに悲鳴を上げている。
真っ暗なそこに、悲痛な声が響く。しっとりした闇夜の空気を揺らして波紋をえがいているようにも思えた。
ぼんやりとした暗闇がおもむろに形を持ち始め、そこが魔王の邸の居間だと告げる。あたたかな日が窓から差して、舞っているほこりをきらきらときれいに見せた。
ベルベットのソファーに腰かけている視界では、窓を背にしたイルディークがこれまでにないほど憤りをあらわにした。
「なぜ、人間を許すのです! 彼らの言葉に耳を貸すのです! 今までに受けた仕打ちをお忘れですか!」
「忘れたわけないでしょう」
落ち着き払った声は、言い聞かせるようで。
かなたの声だった。話すときに内側から聞こえる声とは違うけれど、それが自分のものだと知ってはいる。
ビデオで自分の声を聞いて衝撃を受けることは幼いころに経験していたし、それを抜きにしてもかなたにはそれが眠りにつく前の魔王の声――自分の声なのだとわかってしまった。
まっすぐとおろされていた白い手が、ぐっと握られて甲に筋が浮く。彼は苛立たしげに一歩その距離をつめた。
「でしたら、なぜ!」
必死に言い募るイルディークに、胸がつまる。
それなのにソファーに座る魔王は、やんわりと首を横に振った。
「今でも、焼きついてはなれないよ。母上は火あぶり、父上は打ち杭。あの勇者はとても残忍だもの」
ため息が、ひとつ。そっと空気を揺らす。
「口が利けなくなるほど殴って、胃のなかが空になるまで蹴り上げて。座ってもいられないのを知りながら一枚一枚爪を、手が終われば足を、爪がなくなれば指を、腕を、脚を、削いで拷問して。苦しむだけ苦しませて、ごみみたいな扱いで殺された」
その光景が望んでもいないのに目に浮かぶ。下衆な笑みを浮かべた人間たち。叫ぶことしかできない魔族たち。響き続ける勇者の狂った高笑い。
力をつけた勇者は、魔術を封じることができる。
魔術を向けたとしても、相殺することができてしまう。抵抗したとしても、魔族の切り札は魔術だ。それを封じられたとなれば、あとは人間と変わらない。縛られて抑え込まれれば動けず、傷つけられれば痛い。行き過ぎれば命だって落とす。ほかの種族となにも変わらないのだ。
淡々と告げる声は震えることもないけれど、かなたにはわかってしまう。
怒りも悲しみもそこにあるのに、すべて置き去りにするくらい強い意志が秘められているのだと、今、魔王であるかなたにはわかってしまった。
ゆるぎないものを胸に、陽だまりに立つ相手をまっすぐと見上げる魔王を前に、彼は険しい表情でまた一歩ソファーへ踏み出した。
「でしたらなぜ! そんな外の者たちに、歩み寄ろうとなさるのです!」
「イル、あれはとてもひどいことだよ。言葉で表せないくらいに、悪の仕打ちでしかない。だから、わたしはぜったいにやらない」
強い、声が、はっきりと告げる。
ぎゅっと膝のうえで拳がつくられた。息苦しいくらい、こみ上げてくる思いもあった。
けれども、ソファーに座る魔王はまっすぐと目の前のイルディークを見つめることをやめない。燃えるような怒りのなかにほんのわずかな困惑を見つけながら、魔王はその先を続ける。
「誰がやろうが、あれはやってはいけないことだよ。やられたからやりかえしていいんじゃない。ひどいことをされたからこそ、二度と同じことを起こしてはだめ」
同じ考えを持てとは言えない。けれども、少しでもこの思いが届かないかと。ただただ魔王は願いながら続ける。
「憎しみを育ててはだめ。どうしたら憎まずにすむか考える方が、生きててずっと楽しいよ」
ね?
安心させるように笑ったのに。
あたたかな陽だまりのなかで、イルディークは眉を寄せたまま目を伏せた。
「イル、行くの?」
夕暮れの廊下に、知っている声が響く。
薄暗いそこで、金髪をゆるく結えたエーデがもたれていた壁から背を起こした。
足音をたてていなかった踵がこつりと小さく鳴る。待ち構えていたようにそこにたたずんだ相手に、イルディークはわずかに顔をしかめたけれど視線を外して窓を見やった。
力をつけすぎた勇者。彼は、すでに結界を破るまでになっているだろう。場所さえつかんでしまえば、あのいやしい男は我が物顔で踏み入るに違いない。
まるでこの森が、邸が、町が、もとより自分のものだったかのように。取り戻してやるのだと、いきり立っては片っ端から魔族を切り捨ててこの地を血に染めあげてゆく。
イルディークにはそんな近しい未来の光景が、鮮明に浮かんでいるのかもしれない。
「……勇者さえ討てば、やつらの勢いもそれまでだ」
「今の勇者は、イルでもわからないよ? 力をつけすぎてる」
若草色の瞳がそそがれて、彼は硬い表情のまま唇を噛む。
「だからこそだ」
かすれた声は、強い。エーデを睨むように瞳を細め、イルディークは一歩を踏み出す。
さきほどの魔王と同じように、彼にもまた譲れないものがあるのだろう。決意を秘めた目を、ひたりと相手に向けた。
「魔王様はぜったいに抵抗なさらない。勇者がここへたどり着くまえに、私が仕留める。今を逃せない」
勇者がこの迷いの森の結界を破るのは時間の問題なのは確かだ。
来たるべきときが来て、勇者がこの邸に踏み入ったとき。魔王は争いを避けるはずだ。無抵抗な魔王を、勇者がどうするか。彼女の両親の結末を思えば想像するにたやすい。
イルディークは行場のない憤りに歯噛みした。
あの勇者は、勇ましい者でも勇気ある者でもない。ただ、魔王を殺して名声があがることを望んでいるだけだ。それが平和な世というのなら、そんなものはいらない。滅びればいい。
自分の命を差し出した魔王が、ほかの魔族に手を出さないことを条件にしたとしても、それを呑む相手でもないのだから無駄死するだけだ。
それを、魔王もわかっている。わかっているけれど、魔王はそれでも魔術を使って抵抗も攻撃もしないのだろう。それをイルディークが許すわけにはいかないのだ。
「きみが生きて帰らないことで、魔王様はさぞかし自分を責めるだろうねえ」
夕暮れにぽつりとエーデの声が落ちる。
一度目を伏せたイルディークは、すぐに前を見すえて踏み出した。迷いは見受けられない。その背中をため息が追う。
「しかたがないから、一緒に行ってあげるよ。亡骸くらいは戻ってこないと魔王様だって泣くに泣けないしね」
からかう口調がそれに続くと、魔力が集まる気配がしてふたりの姿がふわりと消えた。
耳をすませるように、邸も、町も、気配を探したはずなのに。求めるそれはどこにもなかった。心臓がどくどくと内側で鳴っている。
魔力が額に集まると、居間の窓辺から視界は一気に防衛団の厩に飛んだ。気づいていたアズがブラシを置いて首をかしげる。
「アズ、イルを知らない?」
彼が口を開く前にそう言うと、アズは眉間にしわを寄せて首を振る。
「昼以来見ていませんが」
「エーデもいないの」
「……魔王様」
ついでに、町の若者たちもいない者が多い。町や邸の気配を察したのだろう、アズはさらにその表情を険しくした。
町の若者たちの間でも、他の種族――とくに人間への反感が高まっている。
勇者に制裁を! 仇を! 大きくなる彼らの声を、必死に抑えているのは防衛団だが、その防衛団に所属している団員だって保守派と革新派と真ふたつになっている現状だ。
仲間がやられるたびに怒りを募らせていた、その、彼らの気配がない。
唐突に消えた彼らの行方も、誰がその指揮をとっているのかも、この状況では心当たりはひとつしかなかった。
「エーデが一緒なら、そんなに無茶はしないとは思うんだけど。最近のイルはちょっと心配」
ぎゅっと作られるこぶし。目は、夕暮れの迷いの森へと向けられる。時間はあまりないだろう。
イルディークが、先の魔王の言葉に納得したはずはない。説得できるとは思っていなかった。けれども、魔王の言葉に思いとどまってくれると、信じていたのだ。
「お供します」
唇を結んで顔を上げると、アズがうなずく。その頼もしさに胸が少しあたたかさを取り戻したのがわかった。
わずかに頬がゆるむ。そうして自分が思いのほか焦っていたのだと自覚した。
アズは馬の世話をそのままに、出かける仕度を整える。彼の大剣は腰に佩いているが、魔術で呼び出した外套と手荷物を魔王にも手渡す。
「ウェルは?」
外套の紐を結ぶ魔王は、厩に向かってくる気配に顔を上げずに声をかけた。こちらの話をうかがっていたらしく、すぐに背中から軽い調子の返事がされる。
「いますよー。俺も、お供させてください」
「急げ。時間がない」
「わかってる。このまま行けるよ。――魔王様、いい?」
「行こう」
勇者のところに。勇者のところに、行かなくては。
ぎゅっとふたりの手を取る。握り返してくれた大きな手はごつごつしていて硬いが、あたたかかった。
額に魔力が集まって、熱いと思う前に真っ暗に包まれた。
【薄暮の町】は夕暮れが一番早い町として知られている。
その町の裏手には大きな山、山と町の間に深い森があり、その生い茂る緑を煌煌と大きな月が照らした。
武器を手にした魔族、人間、エルフ、ドワーフ。
なぎ倒された木々の合間にできたそこを、月明かりが明るくしている。闇に浮かぶ彼らの顔は、どれもひどく殺気をまとっていた。
魔術を使って木々を根こそぎ倒し、町にいた勇者をおびき出す。魔族が暴れているとなれば、勇者は我こそが相手だと怯むこともない。彼は今、魔族の切り札である魔術をもものともしない強さを持っているのだから。
イルディークが素早く腕を振りかざした。
すでに地に伏せている人影も見える。その数をこれ以上増やしてなるものかと、彼の周りにいた魔族たちも魔力を鋭い刃にかえて、武器を振りかざして、行き場のない怒りをぶつけるみたいに地を蹴った。
男たちの咆哮が、夜の闇に響く。
ひとり、ふたり、笑みを浮かべたまま薙ぎ払って勇者は一直線にイルディークを目指している。彼には、このとき誰を叩けば魔族にとって一番の痛手になるのかわかりきっているのだ。
氷の瞳を細めて、イルディークが渾身の魔術を放った。
同時に勇者の剣がうなり、空を駆けた風に魔術がかき消されていく。
きらりとまばゆく刃が光り、閃光のごとくひるがえされた。氷の瞳に、弧を描く唇が映る。
「――イル!」
どすっと鈍い音が鼓膜の奥まで響いた。高い声は、聞こえるはずのないもの。
イルディークに抱きつくように被さった体も、揺れた黒い髪も、ここにいないはずのもの。
「魔王様……!!」
悲鳴が喉を突いた。
隙を逃さず、アズが勇者の剣を打ち払う。赤い雫をばらまいて、その切っ先は弧を描きながら地に落ちる。あっけないほど軽い音がした。
新たに現れた魔族に、勇者は気を取られた。弾かれた手をそのままに動きを止めたその一瞬を、ずっと控えていたひとりが逃すことなく右手を突きだす。強靭な風は、一気に空気を巻き込むと勇者の体を切り裂いた。その風にあおられて業火が勇者に燃え盛る。
勇者がのた打ち回って叫んでも、誰もそれを見ていない。
手のひらを返したように逆転したこの状況。魔術を打ち消せる勇者だが、彼がやられてしまった。少しでも早く。自分が命を落としてなるものか。蜘蛛の子を散らす勢いで勇者の仲間たちは駆けだすが、風に舞った炎がそれを許さない。
満月に照らされて、血濡れた魔族は魔術を放った。
そんな殺戮など目にも、耳にも入らない様子で、イルディークは声にならぬ声をあげる。
細い体を必死に支え、あふれる赤を白い手で押さえる。添えた手にまで、どくりどくりと脈打つものが伝わってくる気までして――
「ああ、よかった」
黒い瞳が、イルディークを映す。わずかに細まるとほっと息をつくようにして呟くと、糸が切れたみたいにことりと崩れた。
ふっと目が覚めると、カーテンのわずかな隙間からまんまるの月がのぞいていた。
青白い光が暗い部屋に差し込んで筋をつくる。冬の冷たい空気のせいか、月明かりまでもがひんやりと感じられた。
魔力が集まっている。
月がかなたを見下ろして、静かに静かに夢を見せた。
夢だけれど、夢ではない。今月が見せた光景は、かなたにはない魔王の記憶。長い眠りにつく前に彼女の身に起こった実際の出来事なのだろう。
今、魔王であるかなたの前に、勇者が来た。だからだろうか。だから、今までちっとも触れずにいた魔王のことを知らされてしまったのか。
月が満ちていくにつれ魔族の魔力は高まり、欠けるのに合わせて元の大きさに戻っていく。個人差はあるけれど、満月と新月で三割ほど違うといわれている。
見せられた記憶のなかで、勇者の討伐に出かけた彼らは満月の夜を逃せなかったのだ。次の満月では遅い。そう言ったのはまぎれもないイルディークだった。
守りたい、守らなければ。
その一心で彼はとめる魔王の手も振り切った。そうすることで、すべてが収まると信じて。大切な魔王から自ら離れた。――それが彼女を守るはずだった。
かなたは小さくため息をこぼす。
オーウィンに異様なほど気を張り詰めたイルディークを思い出して、あの悲痛な叫びが聞こえた気がした。
耳を澄ますと、隣の部屋はまだ気配が小さく動いている。
かなたは音を立てずにベッドからおりると、なにも羽織らずに、目もこすらずに、一秒を惜しむようにして隣の扉を叩いた。
驚きを浮かべて迎える相手に、そのまま、ぎゅっと抱きつく。
痛かったね。かわいそうに、痛かったね。
耳の奥にこだまする叫びに、悲鳴に、胸が痛んだ。
どうなさったのですか。困惑しながらも、やわらかくたずねるイルディークに、かなたはなんでもないのだと首を振る。
未だ見えぬ涙を流し続ける彼の背を、あやすようにゆっくりと撫でた。




