(閑話)真夜中の内緒話
気配を探ることは、耳を澄ませるのと似ている。
イルディークは目を閉じて隣の部屋へと意識を向けた。
夜も更けた部屋には、ランプのほのかな灯りと月の光だけ。真っ暗な漆黒にぽっかり穴が開いたみたいに丸い月が浮かんでいる。その明るい光に目を細めると、イルディークはカーテンを引いて椅子を音を立てずに持ち上げた。
かなたは、先ほどベッドに入った。
明日の身支度をすませて、窓から月を眺めて、そして床につく。
かすかな寝息がこぼれるのを確認してから、イルディークは廊下に誰もいないことを確認すると静かに椅子をかなたの部屋の扉の横にすえた。ひんやりとした冬の気温は頭を研ぎ澄ますかのようで。
勇者は、寝ている。
眠りに落ちていることがわかる。
それでも、万が一。なにかがあったときを思わなければ。後悔をして嘆くのは自分だ。
大丈夫だと笑うあの顔が、悲しみに染まることのないよう。
魔王だとわかっていないとしても、いつ、なにがきっかけであの勇者が気付くかもわからない。気付いた勇者がなにをするかも、なにを思って、どう動くのか。
それが、今日でなければそれはそれでいい。
しかし、今日でない保証はない。
かたん、と小さな音が闇に響く。扉が開く音、鍵の閉まる音、それに続く足音。
イルディークは白いため息をこぼした。
足音が彼のすぐ近くで止まって、夜陰に笑い含みの声が落ちる。
「動きそうなの?」
外套の襟をくつろげたエーデに、イルディークはようやく視線を向けた。
「……今のところはなにもないが、用心するにこしたことはない」
「まーったく、イルは本当律儀だねえ」
「念には念を入れてなにが悪い」
眉を寄せた彼にエーデは肩をすくめる。
「悪いとは言わないよ。でも、朝も早いんでしょ」
「一晩くらい寝ずともどうということはない」
「カナタにばれて心配かけたくないくせに。――しょうがないからかわってあげるよ」
どうせ寝ないし。
軽くそう言って、イルディークを追い払うように手を振ったエーデ。イルディークはそれに眉を寄せて首を振った。
「これは、私の務めだ」
「ま、折れないとは思ったけどね。それじゃ、付き合ってあげますか」
きっぱりとした言葉にエーデが笑う。
彼はさっと気配を絶ってかなたの部屋の扉を開けた。強い視線がそれをとがめたけれど、それも気にせずエーデは中に入っていく。腰を浮かせたイルディークを手招いて、椅子もそのまま持って来いと言う。
「エーデ」
「イル、部屋の空気が冷めちゃうよ。早く入って」
押し殺した声でたしなめるが、やはり意に介した様子もなくエーデはかなたのテーブルに添えられていた椅子にさっさと腰かけてしまった。
舌打ちをしたイルディークは、険しい表情のまま気配を消してエーデに続く。音も立てずに扉を閉めて、エーデの正面に不承不承腰かけた。
エーデがテーブルの周りに結界を張る。イルディークを含めてふたりがいるその空間を囲ったそれは、気配や音を絶つためのものだ。かなたの眠りを妨げないよう配慮したのだろう。
かすかな寝息を耳が拾う。暗闇のなかでおぼろげに見えるかなたの寝顔は、彼らが勝手に入ってきていることにも気づいていない。それにほっとしてイルディークは部屋全体に結界を張った。これは外部からの侵入を防ぐためのものだ。勇者のみならず、イルディークよりも魔力を持たぬ者は許可なく入れない。
くすり、とエーデが笑みをこぼす。
訝しげに視線を戻すと、相手はいたずらっぽい笑顔でテーブルに頬杖をついて上目にイルディークを眺めた。
「さて、夜は長いねえ。どうやって暇をつぶそうか。カナタお得意のオセロでもする?」
「お前はいつも私の置きたいところに石を置くから嫌だ」
「……あれってそういう遊戯でしょう」
馬鹿だねえ、イルは。
呆れを含んだ若草色の瞳にイルディークは憮然とする。むっつり三秒黙ったけれど、白い手をそっと伸ばした。
手のひらをテーブルに向けて、静かに格子縞の盤と白黒の石を呼び出す。
「そんなことを言っていられるのは初めのうちだけだ」
「意外とイルも負けず嫌いだよねー」
さあ、いざ勝負。
イルディークは勇者が眠りの中にいることを確認すると、黒を表にした石を盤にぱちりとのせた。今宵が遊戯盤の上の争いだけですむように、心から願って。
そうして夜が更けていく。




