02.目覚めの宴2
にこにこと嬉しそうに茶を淹れて、かなたの前に音もなく差し出すイルディーク。
どこからどう見てもご機嫌としか言いようがないその様子に、彼のことをろくに知らないはずのかなたはぐったりとした。
ベルベットのソファーはとても座り心地がよく、その弾力に思いきり身を任せる。
イルディークは手際よく桃にナイフをすべらせて産毛の包む皮をむき、あっという間に切り分けた。
ひと切れをフォークにさすと、手を添えてかなたに笑う。あまいあまい、新鮮な香りが鼻腔をくすぐった。
「魔王様、桃にございます」
言われなくてもわかる、が。
「……自分で食べられます」
なにこの、当然の流れですと言わんばかりの自然な動きは。
あーん、という声が脳内に再現されてかなたは自分の想像力に身震いする。
そもそも、桃を食べているどころではない。この不可思議な状況が問題だ。
唐突な展開に呆気にとられたまま従ってきたが、どう考えてもありえないことが起きている。
魔王ってなんだ。このやたら立派な邸はなんだ。夢か。夢だろうそうだろう。美形が変態だなんて残念すぎる。
桃をさえぎって眉を寄せると、イルディークが真っ青な顔で固まっていた。
色白が際立ってとても不健康そうだ。彼は悲痛な色を浮かべて、額に手をかざす。
「魔王様が、桃を前にしても冷たいだなんて……」
その言葉は心外である。
かなたの好物のひとつに桃があげられるのだが、出会って間もない人にまんまと見透かされていることも、それで機嫌が取れると思われていることも癪だ。
起きる前の魔王様も桃がやはり好きだったのか。
苦虫を噛み潰した顔のかなたに、イルディークは心底悲しそうに桃を差し出す。わずかに涙目なのは気のせいだろうか。
「お目覚めからまだなにも召し上がっていらっしゃいません。せめてひと口だけでも」
手を添えたフォークをずいっと口元に宛がわれれば、ふわりとその香りが舞う。思わず口を開けてしまった。
反射といえば聞こえがいいが、誘惑に負けたという方が正しい。あまさが口の中いっぱに広がった。
くいと手首が返されてフォークが抜かれる。桃はやわらかく、唇で支えるだけでもその果汁がしたたった。
耐えきれずこぼれ落ちたあまい雫が、つうっとかなたの顎を伝う。
するとイルディークの指の腹がそれを受け止め、ためらうことなく自身の桜色の唇へと運んだ。赤い舌が白く筋張った指を舐め、思わずかなたは全身をこわばらせる。
変態がいる。変態だこの人。
イルディークのおかげで、せっかくの桃の味もよくわからないままのみこんだ。なんてもったいない。
丁寧にかなたの口元をナフキンでぬぐうイルディークの手つきは、妙に慣れている気がして鳥肌がたった。彼が次のひと切れをフォークにさす前に、かなたは疲れを隠しもしないで重たげに口を開く。
桃を食べるならおいしさを噛みしめたい。あとでゆっくり食べよう。今は我慢だ。
「イルディークさん」
ぴたりと動きを止め、彼は姿勢をただす。
真面目な顔でまっすぐとかなたを見つめた。
「どうか、イルとお呼びください」
「イルディークさん、桃はさておいてお話があるのですが」
今までの数十分間で、どういうわけだか彼のペースに丸め込まれてしまっている。押しが強いわけでも口数が多いわけでもないのに不覚である。
これではらちが明かないと、かなたは主導権を握るべく、聞こえた声を脳内でもみ消した。
かなたの失礼な態度に、イルディークは気分を害することもなく寛大にも目元をほころばす。
うっとりとため息をついて微笑んだ。
「……お久しぶりにお会いしたはずですが、魔王様の照れ屋なところはお変わりありませんね」
頬を染める意味がわからない。
一瞬にして蒼白かったその顔が血行のよいものになって、かなたはますますげんなりした。主導権を握ることに早くもくじけそうである。
はあああ、と大きなため息をついたかなたを眺めながら言葉を待つイルディーク。
その彼がふいに顔を上げた。斜め後ろに構える扉を振り返って、うかがうように視線を向けている。
かなたはそんな彼に首をかしげたが、すぐに答えを知ることになった。こんこんこん、と扉が叩かれて来客を告げたのである。
「エーデでしょう。さきほど呼び出しましたので。――彼の入室はかまいませんか?」
「エーデ?」
「この邸の医者です」
ああ、体を見せるとかなんとか言っていたなあ。目が覚めたときのイルディークの言葉を思い出してうなずくと、返事を待たずに扉が開く。
入るよー、と間延びした声とともに金の巻き毛がのぞいた。黒い皮の鞄を片手にしたその人は、あたかも自室に来たかのような足取りである。
「エーデ、まだ魔王様がお返事をなさっていない」
ぎゅっと眉を寄せるイルディークに、エーデは視線を向けもせずにソファーまで来ると、半分空いていたそこに遠慮なく腰かけた。
どっと身を投げ出し、鞄を足元に放る。学校で女子にミカエル様とか名づけられそうな顔をしているなあと思っているかなただが、エーデ! と声を荒げたイルディークのおかげで口に出さずにすんだ。
「やあ、魔王様。ずいぶんなお寝坊さんだったけど、元気そうだね」
「はあ」
若草色の瞳を細めて覗き込んでくるエーデを、かなたはまじまじと見つめた。
彼もまた、美形である。どちらかというと欧米系だ。主張の強い目、鼻、口。イルディークとさほどかわらない背丈。
これで医者か。美形で医者でこの聞き流しスキル。間違いない、彼もまた変態なのだろう。
「……魔王様。まとったオーラで会話しないでくれる? 今失礼なこと考えたでしょ」
「えっ! オ、オーラ? そんなこともわかっちゃうの?」
「てことは、やっぱり失礼なこと考えたんだね。起きて早々、本当相変わらずだねー」
にやりと口の端を上げたエーデに、かなたは背に冷たいものが伝うのを感じた。顔が思いきり引きつる。イルディークとはまた別の意味で面倒くさそうだ。
会話の主導権! 握られている!
このままではいけない。かなたは当初の目的にちっとも近づいていない現状をごまかすように、こほんと咳払いをして姿勢を正した。
分が悪くなった気がしないでもないが、まだなにも聞きたいことを聞き出せていないのだ。
「あの、いろいろとそちらも話があるのでしょうけど。いい加減わたしが話してもいいですかね?」
控えめに申し出るとエーデがちらりとイルディークを見た。少し不審そうな目である。
あえて言うなら、お前なにしたの? という類のものに思えた。あからさまだったはずだが、悲しいことに見られた方は気づいていない。ぴたりと口を閉ざしてかなたの言葉を待っている。
よし、今がチャンスだ。かなたは内心でうなずいた。
「わたしは魔王じゃありません。三十年経っていようが、記憶が薄れたと言われようが、わたしはついさっきまでボロいアパートで寝ていたはずです。こんなところにいる覚えはないし、あなたたちとも会ったことはありません」
だから、魔王と呼ばれる所以はないはず。
かなたのいた日本という国でも、地球という星でも、魔王と呼ばれるものは本やテレビの中に存在するだけだ。たまに恐ろしい人間を称して魔王と囁くこともあるが、魔王のようだと揶揄すことと、あなたは魔王であるということはまったくの別なのだ。
そう言葉を重ねると、耳を傾けていたふたりはすっかり神妙な顔つきになっていた。
部屋に入ってきたときからからかいの色を隠しもしなかったエーデまでもが、じっとかなたを見つめているので居心地が悪い。
なにか続けなければと言葉を探すかなたを前に、イルディークがそっと膝をついて視線を合わせた。
「魔王様が戸惑うのも、無理はありません」
彼は静かに口を開くと、膝の上で硬く握られていたかなたの手を取る。じっと瞳を覗き込んでくる水色にかなたは吸い込まれそうだと思った。
「此度の魔王様のお休みは、お体から魂が抜けてもおかしくはございません。むしろ、魂が留まることができないくらいに消耗なさっておいででした。その間にどこかで違う器に生まれ、暮らすこともございましょう。そしてここではないどこかで、その生をまっとうなさることも」
こちらの体から魂が抜ける。抜けた魂がどこかで生まれ直し、息づき、生涯を終える。
かろうじて命を繋いでいたもとの体に戻ってくる。
かなたは首をかしげた。
「ここのところ頭痛がすごくて、体も重かったといえばそうだけど。ええと、それじゃあわたしは死んだってこと? くも膜下出血か脳卒中?」
「病名は存じませんが、そちらでそうのようなことが起っていても不思議はありません。ですがこちらでは、魔王様はずっとお休みでいらっしゃいました。その間に傷を癒し、心を癒し、ゆっくりと回復なさったのです。ですから、以前のことをお忘れになってしまった可能性も否定できないのです」
「そんなものなんですか」
「そんなもんってことでいいんじゃないの? 別に今までがどうでも、それを覚えていようといまいと、魔王様が魔王様なことは変わんないしねー」
小難しく考えないほういいよ。あっけらかんとエーデが言い、イルディークもうなずいた。
しかし、かなたは自分が死んだと言われてもぴんとこない。
交差点で車を目の前にしたのを最後に記憶が途切れているならいざ知らず、帰宅後に風呂に入って歯も磨いて布団に潜ったところなのである。
どこも変わったことはなかった。それとも、死ぬときは意外と自覚ないものなのだろうか。
これは今すぐに答えが出る話ではない。
ひとまず置いておこうとかなたは思考を切り替える。ここでまた新しい生活をするとして、自分が魔王と呼ばれる存在であるとする。
「ええと、それじゃあ魔王って、なにをすればいいんですか? そのまえに魔王がわたしってことは、イルディークさんとエーデさんも人じゃないってこと?」
「さようにございます。魔王様も、我々も魔族と呼ばれます。ここでは魔族、人間、エルフ、ドワーフが主な種族でしょうか」
うなずくイルディークをまじまじと眺めて、かなたは首をかしげる。
キバもなければ角もない。目が赤いわけでもないし、背中にコウモリのような羽もない。顔立ちが整っていることをのぞけば、どこにでもいそうに見えた。
ああ、でも耳は少しとがっている。違いをあげるとすればそれくらいか。エーデを眺めても、やはり変わったところはないように思える。
「人と魔族はどこが違うの?」
「人は魔術を使えません。というより、魔族以外は魔術を使えないと思ってくださって結構です。また、魔族の方がエルフとまではいきませんが長寿です」
「ふーん……」
さきほど桃を食料として扱ったということは、血を吸わなければ生きていけないわけでもないのだろう。こうして日中活動できているから、夜行性でもないらしい。
イルディークがあげたことをのぞけば、人とさほど変わらないということか。
かなたは考え考え言葉を続ける。
「そんな魔族で一番えらいのが魔王ってことですよね? それがわたしだと、おふたりは言うわけで。でも、それってどうなんですか。見ず知らずの小娘が一族の頭でいいとは思えないけど」
「魔王様は魔王様です」
「……イルディークさんはそればっかりで参考にならないなあ」
がーん。音は聞こえなかったけれどかなたはその効果音を察した。
思わず呟いてしまった言葉に、イルディークが目を見開いて固まっている。顔色は輪をかけて青い。
かなたの横ではにやにやしたエーデが、それを眺めながら背もたれに頬杖を作った。気だるげに腰かけている彼は、長い足を組み替えてかなたに視線を戻す。
「僕としては、おもしろければなんでもいいけどね。まあ、魔王様が魔王様ってことは変わらないよ。その魔力じゃあねえ」
「魔力? あるんですか?」
きょとんと彼を振り返ったかなたにエーデはあっさりうなずく。
「あるねえ。それこそ、随一ってくらいに」
随一。魔族で一番ということは、この世界でと言い換えてもいいのかもしれない。
馴染みのない未知の力を指摘されても、かなたには実感がわかなかった。広げた手のひらからなにかが出ているわけでもない。
他人事のような気持ちでいるのを察してか、イルディークがわずかに苦笑した。
かなたはなにもない手のひらを見つめていた目を上げる。
「あるんだ……へええ。しかもそんな簡単にわかっちゃうなら、外を歩けば魔王ってすぐにばれますね。勇者が前のわたしを倒しに来たってことは、人間と魔族は争っているってことで、それは現在進行形なんですよね?」
「まーねえ。人は魔力を持たないから、魔術を【忌みし力】とか言って恐れて魔族狩りをするわけだし。おかげさまで魔族が一番衰弱中だよ」
隣の町は大雨だってさ、大変だね。そんな軽い調子で現状を語るエーデに、イルディークが眉を寄せた。
けれども、そんなことはお構いなしに彼は続ける。
「魔力があるかどうかっていうのは人でもわかる。肌に伝わるんだよ。気配が強いって言えばなんとなくわかる? 一見、魔族は人に見える。耳を隠せば違いはないからね。でも、威圧的に思えたり人によってはオーラが見えたり、なんとなーく引っかかるものがあって。それでそいつが魔術を使っていて、やっぱり魔族だったんだって確信するとかね。魔王様は、魔王ってだけで狙われやすいし。とりあえず、隠せばいいんじゃん? コツつかめば、悟らせないようにできると思うよ」
「ふーん……」
「ま、そういうことで、あんまり深く考えない方がいいんじゃないの? 困ったことがあればイルディークに言えばたいがいのことはなんとかなるし、ここにいる奴らは結構細かいこと気にしないからさ。――ところでイル、桃をむいてよ。お腹すいちゃった」
んー、と猫のように背中を伸ばしたエーデに、イルディークが顔をしかめて憮然とした。
「お前にやるものはない。そんなことよりも魔王様のお体を診察することが先だろう」
「はーい。じゃ、魔王様ひとまず異常がないか確認しましょーね」
そうしたら桃をむかせよう。悪びれもせずにエーデがそう言い、彼の促しに従ってかなたが向き合うように座り直す。
足元の黒い鞄から取り出された聴診器に、そういえば彼は医者だったなと思い出すかなただった。