11.勇者の旅立ち、魔王の帰還3
アズの言うとおり、夜はぐっと冷え込んだ。
宿屋の部屋は地下にあって、薪をくべて暖炉をつける。分厚い布団に包まって寝て、朝起きるとすでに暑くなっていた。
朝ごはんをすませるころには威勢のよすぎる太陽が降り注ぎ、その気温差に毎日付き合っている【砂塵の町】の住人に感心してしまう。
マントを羽織り、フードを深く被った。砂埃が舞う町のなかはそれでも活気に溢れていて、顔に布を巻いた町人たちがせわしなく行き交いしている。
この町に限らず、果物や野菜を売る屋台、宿屋や道具屋などの店は人間が営んでいることが多く、鍛冶屋、武器防具屋はドワーフ、薬の調合や資料館はエルフの姿が目立った。
もちろん、かなたはエルフとドワーフを見るのは初めてだったが、日本にいたときの映画や絵本などのなかに出てきた彼らの姿とほとんど同じで見たらすぐにわかった。
ドワーフはみんな髭を生やしていて背が小さい。力が強く、荷の上げ下ろし以外にも建物の建築なんかに携わることが多いそうだ。
一方エルフは金髪碧眼。尖った耳は小さな音を逃さず、目は何キロ先の光景も見えるらしい。音楽や詩に長け、吟遊詩人なんかも見かける。
三つの種族が入り乱れる町。今まで立ち寄った町でもそれは変わらない。
魔族が活発化しているらしいと酒場で噂を耳にしたくらいで、かなたたちの仲間はまったくといっていいほど外の世界に姿形なかった。
特産のマンゴーだよ! 陽気な笑みで声をかけてくれるのを聞きながら、かなたは憮然とため息をつく。
なにもかわらないのに。魔族も同じように陽気だし、マンゴーだって好きなのに。
「ああ、そのうち到着しそうだね。それっぽいのが向かってくる」
かごにあるやつ、全部ください。
もやもやしながらマンゴーを買っているかなたをよそに、町の入口の方を見やったエーデが唐突に呟いた。
砂の混ざった風に取られないようにフードを押さえている彼の視線を追う。
かなたには町の人たちが行き交っているようにしか見えないが、エーデたちの身長だと違うのかもしれない。
「ひとまず、様子を見ましょう。下手に接触すると危険です」
「カナタ」
麻の袋を抱えたかなたを背に庇い、はぐれないようにとアズが釘を刺した。
イルディークがかなたのフードを整えて止め紐を結び直す。影になって顔は見えないはずだ。
大きな背中から町中をうかがいながら、かなたは宿屋の方へと歩き出したアズについて行く。
棒切れを持って駆けていく子供たち、何重にも布を巻いてのそのそと歩く老婆。賑やかな店の声と、しきりに吹く砂の風。町の日常は穏やかなもので、それが無償にまぶしく見える。
目を細めて太陽を仰ぐかなたの耳が、ありがとねー! と明るい声を拾ったのはそんなときだ。
目を向けたかなたは、思わずはっと息をのむ。
「シルジルがいる」
二十メートルほど離れたところに酒場があって、そこからひと好きの笑みを浮かべた少年が樽を転がしながら店主に手を振った。迷いの森の、酒屋の息子だ。
風に溶けそうなほど小さな声を、かなたの従者たちは正確に拾ったらしい。
三人が揃って酒場に視線を走らせると、シルジルはこちらには気づかず停めてあった荷車に酒類を積み込んでいた。
「酒の仕入れにこんなところまで来ていたのか」
樽がふたつ。ぱんぱんになった麻袋が見えるだけで六つ。ずいぶん荷物も多いようだ。
「――来るよ」
帰るのなら一緒に、なんて考えるかなたをさえぎってエーデがめずらしく押し殺した声で制した。
宿屋と酒場の先。【砂塵の町】の入口から人影がみっつ。あのなかに勇者がいるのか。
かなたが思わず食い入るように見ると、吹きつける風にフードを押さえつけられた。がちゃん! とガラスのぶつかる音がして肩が跳ねる。
待って! 待ってってばー!
楽しげに高い声を上げながら通りを駆けていく子供たち。ごおっと砂混じりの風が立ち上がって、そのうちのふたりがシルジルの荷台にぶつかったようだ。
痛てて、と肩を押さえたその子たちにバランスを崩した荷が滑る。荷運びの途中で、まだ固定していない。
積まれていた酒瓶が、荷台の傾斜で勢いをつけて転がった。
あっと声を上げるシルジルが、咄嗟に手を伸ばしその動きを止めた。
反射的に頭をかばった子供たちに届く、そのすぐそこでボトルが動きを止めると、音を目で追っていた町人たちが息をのんだ。
ボトルが、浮いた。
それは紛れもなく魔術によるもの。一瞬にしてあたりの空気が凍りついた。
浮いたボトルを掴んだシルジルはやれやれと額の汗を拭ったが、はっと周りの異変に気づいて顔色を変えた。
待てども衝撃がこないことを不思議に思った子供が恐る恐る目を開け、きょとんとシルジルと町人とを見比べる。
「魔族だな」
距離があるのに、その声はよく聞こえた。
一番先頭を歩いていたひとりが、シルジルをまっすぐと見据えてすらりと剣を抜く。その後ろに弓を構えた少女とナイフを手にしたエルフ。
町人はさっと酒場の前から距離を取った。子供たちまでも、表情を硬くして荷台から後ずさる。
不自然なまでにそこにはシルジルと旅装束の三人組しかいない。一歩距離を詰めたのは、剣を構えたひとりだった。
「なんのためにここへ紛れた。魔族がいるべき場所はどこにもない」
まだ少年の域を出ない高い声は強く、風に負けずに町に響いた。意志の強い声。己を少しも恥じず、疑ってもいない。ひたむきなほどにまっすぐだった。
シルジルはボトルを荷台に置くと、ほんの少しだけ眉を寄せて相手を見つめる。
怒りでも戸惑いでもなく、落ち着いた表情で視線を合わせるとゆっくりと首を振ってみせた。
「どこにも? なぜ? ぼくはこのとおり、酒の仕入れが目的さ。魔族だっておいしい酒が大好きだからね」
「【忌みし力】で悪事を繰り返す魔族の言葉を、信じる者がいるとでも? 魔族ならば容赦しない」
口を開きかけたシルジルを無視して勢いよく地を蹴った少年に、かなたは堪えきれず踏み出した。
「シルジル!」
身を強張らせたシルジルの見開かれた瞳と、イルディークに腕を掴まれたかなたの目が合う。
振りかぶられた白銀の煌めきが走って風が砂を巻き上げた。
がきぃ! 金属がぶつかる音が響いて誰しもが縫い付けられたように動きを止める。空を切った刃は、アズの大きな剣に受け止められて鈍く唸った。
目深にフードを被った大柄な男に、少年は驚きの表情を浮かべたがすぐに瞳を鋭く細める。
「魔族!」
一歩後ろに飛んで剣を構え直す相手に、アズはゆっくりと切っ先を向けた。逆にシルジルがアズの邪魔にならないよう荷車の脇に退く。怪我はないように見えた。
ほっとしたのはほんのわずか。かなたは眉を寄せてアズと少年を見据える。前に立つイルディークのマントを引いた。
いかなくては。あそこに、かなたが、いかなくては。
イルディークはかなたの意図を察して渋る素ぶりを見せたが、それでもひと呼吸おくとエーデに目配せをしてからかなたの手を取り、アズの後ろへ場所を移した。
突然のアズの介入でも意表を突いたはずだが、かなたたちが続いたことで突如魔族が現れたように見えただろう。少年を含め、居合わせた人々がどよめいた。
かなたにはそんなことはどうでもよかった。まっすぐと少年――これから勇者と呼ばれるであろう彼を見つめた。
「どきなさい」
ごうと風が唸る。砂が舞って渦を作ると、町人たちが顔を腕で庇った。
ぴしぴしと砂が肌を叩く。一瞬にして砂嵐を呼んだ魔族が誰か、町人たちは正確に察した。
魔王だ! 魔王が来た! 町中に引きつった悲鳴が上がる。
かなたは体に熱が駆けるのを自覚していた。抑える練習をしていたはずだが、このときばかりはかまっていられない。むしろ、湧き上がるそれを抑えようとも思わなかった。
アズが剣をわずかに下して右にずれると、イルディークとエーデもかなたのわきに控える。
空気がかなたの周りに音を立てて集まってきた。
少年が、耐えきれずに一歩、そしてまた一歩、さがる。
かざした腕の下で見開かれた目にかなたを写し、唇が動いた。――ま、お、う。
目深に被ったはずのフードがあっても、不思議とかなたには彼の表情が手に取るようにわかる。
栗色のやわらかそうな髪は風で押さえつけられ、深緑の瞳は未知なる力とその差に瞠られている。まだ丸みを帯びている顎のラインと細い骨格は少年特有のものだ。
恐怖と覚悟、そしてひたむきな強さ。
風がおさまっても誰しもがかなたから目を離せなかった。その場に居合わせた子供から年寄りも、身をこわばらせてかなたを見ている。
けれども、かなたは目の前の瞳だけを見据えてゆっくり口を開いた。
「魔族と、あなたたちと、なにが違うんですか」
もしもかなたが魔族ではなく、この世界で人間だったらなんの疑いもなく魔族は滅びるものだと思っていたのかもしれない。
世間の常識として魔族が悪とされ、幼いころから刷り込まれて育つはず。今回のように日本での記憶を持ったままだとしても、魔族というものは悪いのだと教えられ、それを受け入れてこの世界で生活するのだろう。
その可能性に気づくとぞっとする。今まで生きてきたなかでも、そういう先入観で知らず知らず線引きをしてきたものがあるのかもしれない。
かなたがここに来て数か月。魔族の生活を中心に見てはいるが、それでもまだ知らないことは多い。まして、見たこともない他の種族のことになると余計だ。
今かなたは魔族である。周りにいる人たちも魔族で、その誰かが理不尽に傷つけられることは避けたいと思っている。
それはシルジルへの敵意や、たった今かなたへ向けられている恐怖の色を見ても変わることはない。
「人も、ときには残虐になります。今のあなたのように、魔族を見かければ問答無用で攻撃もしますし、人間同士で殺し合いもすれば、弱いものに無体を強いたり、盗んだり、騙したりします」
それは、魔族も人間も、はたまたエルフもドワーフも同じではないか。魔族だけが咎められ、他の種族は許されることではないはず。
「魔族は、存在するのも許されないんですか? 人間より強い力があるから危険だと言っても、ようは力の使いようです。たった今、それを目の当たりにしたのでは? なにもかもわかった上で魔族は敵なのだとすると、わたしの国ではそれを差別と言いますが」
「……っ!」
「正当な方法で酒を買った彼が、あなたになにかしましたか? 子供たちが怪我をしないよう使った【忌みし力】とは、ここで殺されなければならないほど罪のあるものだったんですか?」
迷いの森の木々を思わせる深緑色の瞳が、見えていないはずのかなたの目をまっすぐと見ている。
賢さがある。今、かなたの言葉に耳を傾けている。だから、望みはあるはず。
「耳があって目があって、考える頭があるのなら、それを十分に使ったらどうです。それでも魔族を滅ぼしたいなら、わたしが相手になります。まっすぐわたしの邸を目指しなさい」
行きましょう。かなたがちらりと視線を向けると、イルディークがその場の魔族を全員運んだ。
ぐらりと体が揺れ、砂嵐で白っぽかった町が一瞬のうちに見慣れた邸の部屋になる。あっという間に旅が終わってしまった。
ひた隠しにしていた魔力を一気に放出したからか、どことなく体が重い。五人と荷車すべてを移動させたイルディークの消耗もかなりのものではないかと思う。
紙のように真っ白な顔をちらりとうかがうと、どっかりとソファーに腰掛けたエーデに小言を並べ始めたので大丈夫だろうと結論づけた。
抱えたままだったマンゴーをテーブルに置いてようやくひと息つく。
身を固めていたマントを脱ぐと砂がぱらぱらとこぼれ落ちて絨毯を汚す。あとで掃除が大変だなあとぼんやり思いながら、かなたは空いてるソファーに身を投げ出した。ぐうと腹がなる。ああ、お腹がすいた。
そういえば、イルディークでの賭けが思いがけずかなたの勝利となったので、今晩はパンじゃない食事にしてもらおう。




