01.目覚めの宴1
ぱちりと瞼が上がった。
薄ぼんやりとしたそこには、かすかな明かりが混ざって不思議な色合いがある。二度、三度、またたくとその少ない光がようやく目になじんだ。
かなたは腕に力をこめて体を起こす。
やわらかな寝台に寝かされているらしく、さらりとシーツが肌をすべった。大きな、それこそかなたが三人ほど寝転べるようなベッドは、きしんだ音も立てずにやんわりと受けとめてくれる。天蓋付きだ。
分厚い布は半分ほどの高さでくくられ、かわりにレースカーテンが床まで伸びている。
ここは、どこだろう。
かなたにはまったく覚えがなかった。こんなベッドは映画のなかでしか見たことがない。
自分の部屋は和室で、寝るときは押入れから布団を引っ張り出す生活をしていたのだから、こんなところで惰眠を貪るはずはないのだ。
ぽかんとした顔のまま首をめぐらすと、カーテン越しに見える部屋は広かった。そしてやはり、薄暗い。
サイドテーブルに置かれたランプの明かりが、ゆらゆらとなびいている。大きな扉の横にも同じものがあった。真夜中ほど闇は濃くないけれど、朝を迎えた明るさとも思えない。
かなたはずりずりとベッドのふちに向かい、レースカーテンをめくる。シーツから抜き出した足を下ろすと分厚い絨毯がつま先にあたる。
ベッドの枕の向こう側は壁で、どうやら大きな窓になっているようだ。
天蓋と同じく分厚いカーテンが引かれ、そのむこうから差しこんでいるはずの光をさえぎっている。
この暗さでは部屋の様子も満足に見えない。カーテンを開けるくらいなら、誰にも迷惑はかからないはず。
とんとんとん、とノック音が響いたのと、かなたが折り重なった布地に手をかけたのはほぼ同時だった。
びくっと肩を揺らしたかなたは、身をこわばらせて扉を振り返る。
失礼いたします、と声が聞こえた。かなたの返事を待たずに扉は開き、背の高い影が部屋に踏み入る。
カーテンに手を伸ばしたままだったかなたと、相手の目が否応なしに合わさった。
はっと、息をのむ音が部屋に落ちる。
かなたは体をこわばらして息を詰めた。自分の身になにが起こっているのだろう。危険があるのだろうか。暢気にカーテンなど開けていないで、逃げるべきだったのだろうか。
「魔王様!」
は い ?
かなたはすべての動きをとめて――もしかしたら呼吸もとまっていたかもしれない――駆け寄ってくる相手を凝視した。
背が高く、声は少し低い。長い髪が背中で揺れているが、たぶん男の人だろう。
彼はかなたの一歩前までくると自然な動作で膝をつき、呆けているかなたの手を取って唇を落とした。
やわらかく、あたたかな感触を指の付け根に感じて顔が一気に赤くなる。
驚きのあまり声にならない変な悲鳴が出て後ずさったかなたなのだが、相手は一向に気にした様子もなくまっすぐとかなたを見つめた。
「魔王様、お目覚めになられたのですね。この日をどれだけ待ちわびたことか……」
「え、ええと――」
「お体の具合はいかがですか? どこか痛むところは? ああ、すぐに新しいお召し物もお持ちいたします」
「いや、あの――」
「魔王様は果物もお好きでしたね。今朝もいだ桃がございますから、それもすぐに。お目覚めのお祝いに今晩はコックたちに腕をふるわせますし、いや、そのまえにお体をエーデにみせるほうが先ですね。ここに向かわせますから、このままお待ちください」
「ええー」
おとなしくなさってくださいね。早次に、けれども舌を噛むこともなくすべらかにそう述べると、彼は優雅に一礼をして辞していく。口をはさむ隙もなかった。
取り残されたのは、口づけを受けた手を差し出したままのかなたがひとり。
ぽかんと扉を見つめて、彼の言葉を反芻する。
――魔王様、お目覚めになられたのですね。
「……ま、魔王? わたしが?」
なんでやねーん。
しらじらしい突っ込みが頭のなかで盛大に響いた。
こんこんこん、と扉が叩かれたのはさきほどの彼が出て行って五分経ったころだ。
勝手に開けたカーテンのおかげで部屋は明るい。日の光は強く、昼過ぎかそのあたりだろうと思わせた。
ほとんど壁一面が窓になっていて、三階くらいの高さから見える景色は鬱蒼とした森と、ずっと向こうに山々と草原。その上に広がる青空。
煉瓦造りのこの屋敷はそれなりに広いらしく、かなたがいる部屋からたくさんの窓や屋根の一部が見える。
ノック音に肩が跳ねたが、それをごまかすように姿勢をただして扉を振り返った。
またあの背の高い彼が来たのだろう。入ってくると思って身構えているかなたをよそに、扉は一向に開かない。
首をかしげると、少しの間を置いてまたノックされた。慌ててかなたは返事をする。
「は、はい。開いてます」
「失礼いたします」
扉を開けたのはやはり彼だった。一礼すると、棒立ちしているかなたの元へ迷いなく進む。
色白の肌は病的なほどで、背に流した髪は艶やかな黒。腰ほどまであるのを襟足でひとつに結んでいる。
柳眉に切れ長の目、鼻すじがすっと通る綺麗な顔つきに、かなたは言葉ものみこんで彼を眺めた。なんだこの美形は。
彼はそんなかなたの視線を受けて一度またたいたが、すぐにかなたの手を取って部屋に置かれたソファーに導く。
ベルベット生地のふたり掛けに腰かけると、彼の後ろに控えていたメイドたちが四人ほど列をなして入ってきた。みんな一様にかなたを見ると目を輝かせるが、すぐにきりりと表情を引き締めて視線を戻した。
タオルやら服やらを持ち込んで整える人もいれば、また別の人は猫脚のテーブルに桃と葡萄、あんずなんかを置いている。すべて整うと、うやうやしく礼をして辞していった。
メイドたちの動きに気を取られている間に、美形の彼はかなたが適当に開けたカーテンを端まで開いて紐でとめ、音を立てずに窓を開ける。ふわりと風が舞いこんで頬をなでていく。
「寒くはありませんか?」
足音も立てずにソファーの傍らに戻ると、彼は気遣わしげにかなたをうかがう。
「いえ、大丈夫です、けど……」
「いかがなさいました? 些細なことでも結構ですので、ご無理はなさらずお申し付けください」
どこまでも真摯で、なおかつかなたの身を案じていますと全身で訴えてくるのに、やや頬を引きつらせながら視線を上げた。
薄い水色の瞳とあう。冷たそうなのに、かなたはそう感じなかった。
その色に少しだけほっとして肩の力を抜く。
「あの、魔王って、わたしがですか?」
「さようでございます」
意を決して尋ねたはずなのに、迷いのない力強い肯定を返されてしまう。
どこにも曖昧さが見つけられずにうっと言葉に詰まった。
「いや、でも、あの、わたしにはそんな記憶はなかったと思うんですが。気づいたらあのベッドだったというか、そもそも魔王なんていないというか」
「魔王様は、魔王様でございます。このイルディークが違えることはございません。長い間お休みをなさっていたために、記憶も薄れてしまったのでしょう」
そんなことがあってたまるか。
じと目になったかなたをよそに、真顔で重々しくうなずいた彼――どうやらイルディークというらしい――はゆっくりと息を吐いてからわずかに微笑みをのせた。
「魔王様が長いお休みにおつきになったのは、今から三十年ほど前のことでございます」
「は?」
さ、三十年? 休むというのは、どう考えても眠っていたことなのだろう。三十年も寝ていた? それはずいぶんと暢気がすぎるのでは。
唖然としているかなたに、イルディークはやはり表情を崩すことなくうなずく。
「勇者を名乗る男の刃を受け、その傷を癒すためにお休みになったのです」
「勇者……」
やっぱり魔王がいれば、勇者もいるのか。そして成敗されてしまったのか。
身に覚えのない話なので、かなたは物語のセオリー通りだなあとしか思わなかったのだが、イルディークはそうもいかないらしい。
ぎゅっと眉を寄せて痛ましいとでもいうように、かなたの手をそっと取ると先を続けるべく口を開く。
「ご安心ください。憎き勇者は、そのときの我々の反撃で共倒れいたしました。一年と経たずに床に伏し、そのあと果てたと聞きます。さしあたり、魔王様を脅かす者はおりません」
大丈夫です。もう、大丈夫なのです。
イルディークは、とてもとてもかなたを心配しているように見えた。憂いと安堵をまぜた瞳でまっすぐと見つめられ、かなたは自分の顔が赤くなるのがわかる。
美形にこんな扱いをしてもらうことなど今までになかった。ちくしょう、なんだこの恥ずかしい状況は。
恨みがましく眉を寄せると、水色の瞳がやわらかく微笑んだ。そっと伸ばされた綺麗な手が、かなたのそれに添えられる。
壊れ物を扱うような繊細さを帯びたイルディークの手は、かなたのそれを包むとゆっくりと持ち上げる。
身をかがませた彼は、その手に自身の唇を落とす。吐息さえも直接肌に伝わる、その近さ。
細められた目を縁取る長い睫も数えることができそうな距離を、彼は望んでやまないらしい。
「ああ……あまい桃の香りがいたします」
うっとりとこぼれた声に、かなたは努めて真顔を保った。
「テーブルに桃があるから、そのせいじゃないですかね」
遠慮もなくばっさり言ったのに、イルディークは嬉しそうに微笑む。
かなたは顔をいっそう引きつらせた。わかった、この人変態だ。