四、事の初め
本校舎の一画に設けられた大会議室。時計の針は八時半を指しており、月明かりがうっすらと広い部屋を照らしている。そこに彼らは『居』た。
「首尾はどうだ?」
壁一面に備え付けられたホワイトボードを背に、少し年配の男性が口を開いた。その問いに、入り口近くの席に座った男が答える。
「特定は済んでおります。あとは声をかけるだけかと」
年配の男はそれを聞くと嬉しそうに口元を歪め、小さく鼻を鳴らした。そして椅子に深く座り直すと、落ち着きの無いように指先でボールペンを玩び始めた。
「そうかそうか……」
男はただただ嬉しそうにそう呟くだけで、周りもそれを見守っていた。
すると、今度は窓際の席に座った女が口を開いた。
「その件ですが、今宵中に済みそうです」
「なに……?」
ざわざわと周りが疑問の声をこぼす。男はゆっくりと女を見ると、目だけで詳しい説明を促した。
女はそれを待っていたかのように小さな機械──ボイスレコーダーを取り出すと、とある会話を再生した。途端に、男は笑い出す。
「くっ……くくくっ……。はーっはっはっは!」
それを引き金に周りの者も含み笑いから高らかに笑う者まで現れる。女は自分の功績に満足したような笑みを浮かべると、静かに腰を下ろした。
時計は、そろそろ九時を指そうとしていた。
私立浜平学園の昇降口。今時計の針は九時を指そうとしており、日は沈んでいるとはいえ夏の暑さがまだ残る。
その昇降口に、翁魅昇は一人で突っ立っていた。
「あいつらまだか……?」
昼間は九時に昇降口集合ということで解散だったが、もう少しきちんと事の次第を決めておくべきだったと昇は少し反省していた。
「おっ、来たか」
五分ほど経ってから、昇は遠くからこちらに歩いてくる姿を見つけて、声を漏らした。
「やっ。さっきぶりー」
美保と観月が揃って登場する。美保は相変わらずのテンションの高さだった。
「遅刻だぞ。ほら、さっさと行くぞ」
昇は二人にそうとだけ言うと、帰る前に開けておいた窓へ向かおうとした。そんな昇に美保が話しかけた。
「ねぇ昇。あの事件以来、学校には常勤の警備員が増えたんだよね?」
「あぁ、そうだな」
美保の言わんとしていることが分からないのか、昇はそんな生返事をした。
「じゃあさ、窓開いてたら閉められちゃうんじゃ……?」
「…………」
「えっ!? なんかごめん!?」
昇はそんなことすっかり忘れていたらしく、頭を抱えてしまった。
「うわー……マジで忘れてたよそんなこと……」
「まぁ私も来る途中に気付いたんだけどね」
美保はそれでも少し申し訳なさそうに昇をフォローした。そして、ポケットから例の鍵束を取り出した。
「とりあえず、これがあるから大丈夫でしょ」
「……そうだな」
昇は力無くそう答えると、観月の手を借りてやっと立ち上がった。
三人は昇降口から校舎に入ると、手始めに先週泥棒と遭遇した本校舎北棟に向かった。
「しかしこの街もだいぶ変わったよな」
雑談をしているうちに、話題は三人の思い出話に変わっていった。
「私は小さい頃のことはあんまり覚えてないなぁ」
「俺と観月は幼稚園の頃から一緒だもんな。美保ってたしか、引っ越してこなかったか?」
「うーん……そうだっけ?」
昇の問い掛けに美保は首を捻って悩んだ。その様子を昇は不思議そうに眺めた。
「覚えてないのか?」
「小学校に上がる頃はたしかここにいた気がするんだけどなあ……」
美保はどうしても思い出せない、といった表情でさらに困惑していた。
「俺もあんま覚えてないけど、小学校に上がる前だった気がするな」
昇が言うと、観月が親指を立てて例のポーズをした。これは『その通り』という意で取れるだろう。
「そうだっけ?」
「あぁ、昔の美保は仏頂面だったよな」
笑いながら昇が言う。観月も普段のクールな表情の口元を緩めた。美保だけが、昔の話についていけない疎外感をうっすら感じていた。
「あ、ちょっと待って」
しばらく歩いていると、美保が二人の歩みを止めた。何事かと二人は美保を見た。
「どうしたんだ、美保」
「うん、この部屋」
美保は一つの教室──というよりも資料室の前に立ってその扉を示した。
「この前、鍵穴に変な跡があった部屋か」
昇が思い出したように言うと、美保がこくりと頷いた。観月が顔で説明を訴えてきたので、昇が答えてやる。
「ほら、一週間前に学校に来た時なんだけどな。この資料室の扉の鍵穴に、変にこじ開けようとした跡があったんだよ」
観月が言われて鍵穴を見ると、たしかにそこには不自然な傷跡ができていた。
「しっかし、この部屋に用なんてあるのか? 名簿とかそんくらいなんだろ?」
昇がいまいち納得ができないといった様子で美保に聞く。美保の方も苦笑いで答える。
「まあね。でも、本当に泥棒が付けた傷か分からないし」 たしかにな、と呟いて昇は押し黙ってしまった。けれど、これほどまでに不自然な傷の付き方も珍しいのが事実だった。
「これはまるで、合わない鍵を無理矢理差し込もうとした傷だよな……」
「なによ、昇。犯人が学校関係者だって言いたいの?」
美保がうたぐるような表情で昇の顔を覗き込んだ。しかし昇は少し考えて顔を上げた。
「いや、俺の思い違いだな」
泥棒を探すぞ、と言って歩き出した昇の裾を、観月が掴んだ。昇は振り返って不思議そうな表情を浮かべた。
「どうした、観月?」
昇が聞くと、観月はゆっくりと窓を指差した。それに従い、昇と美保は窓の方を見て驚愕した。
「えっ……」
「またか……」
そこにあったのは、一週間前にも見た紫色に輝く月だった。以前と同じく、禍々しい雰囲気が伝わってくる。
昇がふと隣に立っている美保を見ると、彼女は今にも気が狂ってしまいそうな何とも言えない表情になって月を凝視していた。
「おいっ、美保! 大丈夫なのか?」
「……っ。え、あぁ……大丈夫よ、大丈夫」
昇の声で我に返った美保は、何やら神妙な顔をして考え込んでしまった。昇はわけがわからず観月の方を見るが、観月は無表情──いつものような無表情ではなく、強張っているようにも見える無表情のまま月を見つめていた。
なんだか二人の様子がおかしいことに違和感を覚える昇だったが、考えすぎだろうと気持ちをもとの目的に切り替えた。
「さぁ、行こうぜ」
昇の声に反応して、二人ともそれでも何か考え込んだ表情で歩き出した。
しばらく校舎内を歩き回り、三人は本校舎屋上に来ていた。紫色に照らされたそこは不気味な雰囲気で溢れていたが、立ち位置によっては校舎内をうろつく影を見つけるのに絶好の場所であった。
「話は戻るけどよ、観月とはどうやって知り合ったんだっけか?」
昇が聞くと、首を傾げる観月の代わりに美保が答えた。
「中学一年生の時に、私と昇は違うクラスだったじゃない? だから知らないとは思うけど、私が観月と友達になって、それから昇ともつるむようになったのよ」
「あー……そうだっけか」
昇も漠然としか覚えていなかったが、言われればそんな気がしなくもなかった。
「俺の記憶だと迷惑そうな顔した観月を無理矢理美保が連れて来た気もするけどな」
「あれ……そうだっけ?」
「忘れてんじゃねーか」
昇の言葉に、観月も苦笑いで頷く。出会った頃は、こんなに表情が分かるほどはっきりとは変わっていなかった。そう考えると、自分達は随分と打ち解けている。昇は声には出さなかったがそんなことを思った。
しかし、観月も美保も同じことを考えていたようで、三人の視線が交わるなり笑い出してしまった。
「ははっ。来年はもう受験だなぁ……」
「今みたいに馬鹿やってる暇はないわよ?」
美保が嫌な笑みを浮かべて昇に言うと、観月もその隣でコクコクと頷いた。
「ちぇっ、頭いい奴らはいいよな。少しは友達の心配くらいしてくれよ」
「心配してるからこそ言ってあげてるんじゃない」
「へいへーい」
お前はお母さんかよ、と昇がぼやくとまた笑いが起こった。きっと、自分達は最高の仲間に巡り会えたんじゃないだろうか。そして、この絆が消えることはないのだろう。
そんな思いが昇の中で膨らむ。なんだか照れ臭くなった昇は、無理矢理話題を変えた。
「しっかし、泥棒の奴なかなか来ないなぁ」
転落防止用の金網まで歩み寄って、校舎を見回しながら言う。二人も昇のもとまで来て校舎を見回すが、やはりそれらしい影はなかった。
「それにしてもさ、なんか変じゃない?」
「変って?」
美保が突拍子もなくそんなことを言うので、昇は弾かれたように聞き返した。
「ほら、私達が先週のこと話してから警備員は常勤になったでしょ? でも、今屋上に来るまで一回も警備員に会わなかったわよね」
「そういえば……。でもさ、偶然会わなかっただけじゃないのか?」
昇がそう言うと、観月に肩を叩かれた。観月の方を向くと、観月は校舎を指差した。
「あ、そうか。警備員が居れば、懐中電灯の明かりくらいはあるはずだよな」
昇が気付いてそう言うと、観月は満足したように頷いた。
「なんか起こったのか?」
昇がそう呟くと、美保と観月も一緒に思案し始めた。しかし、考えるほどに分からなくなってくる。
すると、昇はまた観月に肩を叩かれた。
「今度はどうした?」
すっかり緊張が解けたのか、いつもの軽い調子で聞く昇に、観月は静かに、美保にも聞こえるように初めてその重い口を開いて伝えた。
「…………居た」