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三、事の兆し

 夏の朝のムシムシとする熱気と蝉の喧騒で翁魅昇は夢の世界から現実に誘われた。

 上体を起こし、枕元にある目覚まし時計を確認する。時計が指す時刻は八時四十分。アラームは押した覚えは無いが、おそらく寝ぼけたまま止めたのだろう。

 ベッドから出て軽く身体を伸ばす。ポキポキと気持ち良い音が鳴り、だんだんと意識を覚醒させる。

 衣装ダンスを開け、今日の予定を確認しながら着る服を選び始めた時だった。

「…………」

 昇の中ではある一つの疑惑が浮かんでいた。昇はその疑惑を確認するため、自分の部屋の窓から隣の家のちょうど真向かいにある部屋を見る。

 いつもは昼過ぎまでピンクの遮光カーテンで閉ざされているその部屋は、今まさにカーテンが開かれその部屋に人の姿は無かった。

「やばい……」

 昇は頭を抱えた。今日は八月三十一日。私立浜平学園の始業式当日であった。

 美保は休日には昼過ぎまで平気で寝ているが、今は居ない。答えは簡単。美保はなぜか無遅刻無欠席に異様にこだわっているからだった。

「声かけてくれたっていいだろうが……」

 そんな文句をぶつぶつ言いながらぱぱっと支度を済ませ、昇は学校へと走って向かった。



 自宅から走ることおよそ十分。昇は校門をくぐり、肩を上下させながらそそくさと下駄箱へ向かった。

 自然と、一週間前のことが思い出される。あの後三人は学校警備員へ起こったことを話し、それからは二十四時間体制での見回り警備が就くことになった。ちなみに美保の合い鍵で入ったことは泥棒が開けた窓から入ったことに、観月が割ったガラスは泥棒と揉み合ったため、ということにしておいた。

 ちなみに、あの翌日から紫色の月は現れなかった。学者の間ではなにやら難しい議論が交わされているらしく、世間に真相が伝わるのはまだまだ先になりそうだった。

「お、まだ始業式は始まってないみたいだな」

 コの字型の本校舎東棟から出ている渡り廊下を歩きながら、昇は呟いた。

 昇の歩く渡り廊下のちょうど真横に設置された体育館の小窓から見える中では、先生や生徒会役員が始業式の準備をしていた。中には美保の姿もかいま見えた。

「なんだ。だからあいつ早めに出たのか」

 昇は独り言で話をまとめ、自分の教室へと歩みを進めた。



『飯島ー』

『はい』

『五十嵐ー』

『へーい』


 昇が教室の後ろ側のドアを少し開けて中を覗くと、出欠を取っている最中だった。今呼んでいるのは『い』なのでもうすぐ昇の番である。


『上原ー』

『はいはーい』

『遠藤ー』

『うぃっす』


 いよいよ次は昇の呼ばれる番になった。昇は腹を括り、後ろ側のドアからこっそり教室に入った。先生が名簿に印をつける一瞬の隙をついて、素早く席に着いた。これで安心だと思い、先生の点呼を待つ。

「翁魅昇は欠席か」

「……先生、います」

「遅刻……と」

「はい……」

 新学期早々やらかしてしまったことを後悔しながら、昇は席に座り直した。それから出欠確認を暇そうに過ごしていると、隣の席の女子が小声で話しかけてきた。

「おはよう、翁魅君」

「あぁ。おはよう、委員長」

 委員長と呼ばれた女子はニコリと微笑むと、後ろで纏められた黒く長い艶やかな髪を指先で軽くすいた。

 彼女は呼ばれた通り昇のクラスでクラス委員長を務めている女子、倉月由美。身長こそ小さいが、出るところは出ている体型に艶やかな長い黒髪、さらに整った顔立ちが加わり男子からは絶大な人気がある。

「翁魅君が遅刻なんて、珍しいこともあるのね」

 由美はクスクスと笑いながらそんなことを言ってきた。彼女が言う通り、昇もなんだかんだで無遅刻無欠席をしていた。その裏には美保が毎朝無理矢理起こしていたというものがあったが、昇はその点では美保に感謝していた。

 由美の言葉に愛想笑いで答えていると、由美は急に声を潜めて聞いてきた。

「夏休み中に、何かあったの……?」

「……っ!」

 一瞬、昇は息が詰まったような感覚になった。三人で話し合い、あのことは内緒にすると決めていただけに、由美の一言は衝撃が大きかった。

「な、なんでいきなりそんなことを……?」

 昇は困惑しながらそんな聞き方をしてしまった。してから、後悔した。

「そんなに慌てるってことは、やっぱり何かあったのね?」

 由美の目の奥が鋭く輝き、昇の双眸を捕らえた。これは何か探ってくるなと、昇は本能的に理解できた。しかし、咄嗟にごまかそうと思って試行錯誤するがうまい言い訳が見つからなかった。

「どうなの?」

 由美が口の端をかすかに吊り上げて追求してくる。昇はしどろもどろになりながらなんとかやり過ごそうと考えを巡らせたが、何も思いつかない。

「相手は誰なの?」

「……え?」

 昇は予想外のことを聞かれて思わず素っ頓狂な声を出してしまった。それを聞いて、由美がクスクスと笑う。

「あら、私のはやとちりだったみたいね」

 由美の言葉から、昇は由美が昇に彼女ができたものと考えていたことを理解した。そんなに疑わずとも、自分に彼女ができるわけはないと思った昇は自分で虚しくなって落胆した。

「……だ。よし、じゃあ始業式始まるから体育館に移動ー」

 気付くと、担任の話はすでに終わっていたらしく、始業式のために体育館への移動を促していた。

 昇も席を立ち上がり、教室の出口に向かう。そこで見慣れた顔と合流する。

「よぉ、観月」

 昇が声をかけると、観月は目で挨拶をした。その後はたわいもない話をしながら体育館へと歩き、入り口で手伝いを終えた美保とも合流。

「おはよー。今日もあっついわねー」

 美保が制服の胸元に指をかけてパタパタと中に風を送る。それを見て、昇と観月は気まずそうに顔を逸らした。

「んー? なんですかな、二人とも。あたしの魅力に赤面硬直ですかな?」

「ちょっ、違っ……」

 美保が胸を寄せて二人に迫ってくる。昇は、コイツ本当に女か? なんてことを思ったが、それも恥ずかしさで吹き飛ばされてしまった。

 観月は女性に弱いというか、そういうところがあるので早々にリタイア。その場でうずくまって事の成り行きを見守っていた。

「橋田さん?」

 誰かが美保を呼んだかと思うと、美保の動きも治まっていた。美保の肩を越えた先にいたのは、由美だった。

「なによー、いいんちょ。今いーとこなのに」

 美保は由美に抑制されたのが気に喰わなかったのか、口を尖らせた。それを見て、由美は大きくため息をつく。

「いいとこって、二人とも随分参ってるじゃない。止めてあげなさいよ」

「ちぇー。いいんちょのけちんぼー」

「そういう問題じゃないと思うんだけど……」

 さすがの由美も美保の破天荒ぶりにはついていけなかったらしく、諦めて自分の所定の位置へと戻っていった。

「ほら、俺達も行こうぜ」

 昇が声をかけると、観月がはっと我に返って立ち上がった。美保も口を尖らせたままだがすごすごとついて来た。

「まだ夏だな……」

 体育館の中を照らす太陽の光に目を細めながら、昇はひとりでにそう呟いていた。


 暑くて退屈な始業式を終えて今日は学校は終わり。校内では部活に勤しむ者や、友達の宿題を写す者が見れる。

 昇達は天気もいいということで、屋上で昼食を取ることにしていた。

 浜平学園の屋上は基本的に本校舎にのみ設置されている。ただその面積はかなり大きく、中央にはバレーコート、南側にはバスケットコートが設けられている。北側のみがフリースペースとなっているが、それだけでもかなりの広さだった。「結局さぁ、あの泥棒って捕まったのか?」

 昇がパックのジュースを吸いながら二人に聞いた。二人とも分からなかったらしく、揃って首を傾げた。

「捕まってないにしても、もうあたし達の出る幕じゃないでしょ?」

 珍しく正論を言う美保に驚いて、昇はパックのジュースを落としそうになった。観月も不思議そうに美保を見る。

「お前、そんなキャラだったか?」

「なによ、昇。むしろ私ってどんなキャラよ」

「なんつーか、お礼参りっていうのか……?」

「そんなことしないわよっ」

 昇の一言に美保が吠えた。意外に怒鳴られて、昇は苦笑いをして美保をなだめた。

「でもさ、あのお前があそこまでやられて悔しくないのかよ?」

「うっ……。それは、まぁ……あるけど……」

 昇がこぼした一言が図星だったのか、美保はしどろもどろになって答えた。

「あの感じからするとまた来るんじゃないのか?」

「この学校に? まさかそんなわけ……」

 美保も観月もありえないという表情をしたが、昇は何かが引っ掛かっていた。

「じゃあさ、今日の夜学校に来てみる?」

 美保の意外な提案に、また昇と観月は驚いた。けれど、すぐに楽しそうな表情になる。

「いいじゃねーか、たまにはそういうのも」

「あれ、本気?」

 美保は冗談で言ったようだったが、昇も観月もすっかりやる気になっていた。

「なんだよ、美保。お前は来ないのか? 観月はもちろん来るだろ?」

 昇の質問に観月は親指を立てて答えた。それを見て昇は満足そうに頷く。そしてこれみよがしに美保を見た。

「どうする?」

 美保は少し考えて、吹っ切れたように答えた。

「私も行くわよっ。あの泥棒に一泡吹かせるんだからっ」

 その勢いに昇も少し気圧されたが、すぐに事の次第を話し始めた。

「よし、じゃあ今夜の九時に昇降口集合だ。どっかの窓は俺が開けとくよ」

 二人ともそれに頷き、その時は昼食を終えてそのままお流れになった。

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