一、天体観測
蝉の喧騒と夕日の眩しさが夏を思わせる午後七時。二人の男女が学校の裏にある小高い丘を登っていた。
「ねぇ昇、まだー?」
「もう少しだ」
昇と呼ばれた少年は頬を伝う汗を手の甲で拭いながら、だるそうに答えた。
八月の上旬ということもあり、夕日夕方でも辺りはかなり熱い。昇は肩に円筒状のバッグを二つかけており、さらに体力を奪われているようだった。
「もう少しって、さっきからそればっかじゃん!」
そんな昇とは打って変わって、淡いピンクのキャミソールにホットパンツというラフな格好の少女は、ふて腐れて座り込んでしまった。
「あのなぁ、美保。天体観測がしたいって言い出したのはお前だろうが」
「こんなに疲れると思わないもーん!」
美保と呼ばれた少女は、叫びながら丘の上に寝転んでしまった。昇も肩を落とす。
翁魅昇と橋田美保は幼なじみだった。幼なじみだからこその遠慮の無さ、というものはあるだろうが、二人のそれはもはや小学生と面倒見のいい父親のようだった。
二人が登っている丘は二人の通う学校の敷地であり、本来は立ち入り禁止になっている。しかし今は夏休み中ということもあり、誰に見つかることもなく入ることができた。
二人の通う学校、私立浜平学園はここら一帯の高校を財力と学園長のコネによって吸収合併した、巨大な高校だ。県内唯一の高等学校、という肩書きだけ聞くと県が栄えていないように思えるが、その逆だった。県内のありとあらゆる高校を吸収したため、その全校生徒数は五万を越える。そのため、数百台のコンピュータによる生徒の管理と教育が行われているが、県内各所に分校が立てられている。その中でも、昇と美保の通う校舎は中枢であり、その敷地面積は高等学校のものとは思えないほどであった。
「疲れたー! 足いたーい! 帰って昇ん家の冷し中華食べたーい!」
そして今は夏休み中。三年生の特別補習や部活以外で学校に来ているのはこの二人くらいだろう。
高校二年の昇としては存分に遊びたかったが、この幼なじみはそれを許さなかった。
「じゃあ帰るか?」
黙って美保の駄々を見下ろしていた昇だったが、美保の帰りたいという単語に反応して円筒状のバッグを下ろしながら聞いた。
「私は夏空の天体観測がしたいのー!」
「矛盾しまくりだろ……」
美保が動く様子がないので、仕方ないと思い昇もその場に座る。
「そんで、なんで天体観測したいなんて言い出したんだ?」
美保が天体観測をしたいと言い出したのは昨日の朝だった。早朝から昇の部屋に押し入り、天体観測したいと騒ぎ立てたのを昇が渋々了承した。けれど、その理由は聞いても答えてくれなかった。
「そんなことよりさー、観月はもう来てるんじゃない?」
「さんざん時間かかることしてたくせに……」
観月とは昇と美保と共に、今日天体観測をする予定である男子だ。二人のクラスメートであり、寡黙だが思考の幅が広く、何かと頼れる存在である。
「ほらほらー! 早く行こうよー!」
美保は立ち上がると、昇の腕を引っ張った。昇は呆れ半分で立ち上がる。
「先に座り込んだのはお前なんだがな……」
昇はやれやれと首を振り、バッグを担ぎ直すと丘の上を目指して歩き出す。少し休んだからか、美保の足取りも軽く、さっきよりいいペースだ。
しばらく歩くとやがて開けた広場のような場所に着いた。ここが目的の場所である。
「よし、じゃあ美保、これ頼むぞ」
昇はバッグの片方を美保に渡した。もう片方のバッグを開けて望遠鏡やスタンドを取り出し、慣れた手つきで組み立て始める。
「えー! なにこれめんどくさーい!」
一方の美保は、まるでやる気がないようでバッグを放ってその場で寝転んでいる。
「観月お願ーい」
美保はバッグを隣に立っている少年──弓原観月に渡してゴロゴロと遊び始めた。
「って観月いたのか!」
昇は当たり前のように目の前のやり取りを眺めていたが、微妙に引っ掛かっていたことにツッコミを入れた。
「なによ昇、失礼ね。私達が着いた時にはいたじゃない」
「すまん、気付かなかった」
昇が謝罪すると、観月は右手を上げて「大丈夫だ」と言っているように思える表情になった。
観月は寡黙というより、もはや喋ることがない。初見の者は戸惑うだろうが、昇や美保のように長年つるんでいるとなんとなく言いたいことは分かってしまうものだ。
「よし、そろそろ暗くなってきたな」
昇は時計を確認すると、望遠鏡を覗きながらピントを合わせたりと準備を始めた。
「あ、一番星!」
美保が空を指差して声高に叫んだ。つられて昇と観月も空を見る。
「おい、一番星どころかもうかなり星が出てるぞ」
「あれよあれ! 観月は見たでしょ? あれが一番最初に光ってたの!」
騒ぎ立てる美保を観月に任せ、昇は二人分の望遠鏡をセットし終えた。観月の分は観月がすでに自分でやってあった。
「でも、望遠鏡はいらなかったかもな」
昇が呟くと、聞こえていたのか観月が頷いた。
今三人がいるこの丘は、学校の校舎よりも頭一つ出ているくらい高い。小さな山と言ってもおかしくない高さだ。
今は夜間で学校には人がいなく、さらに学校の周りにはあまり街灯などが設置されていない。そのため、望遠鏡を使わずとも星空は綺麗に映った。
「ねーねー、あれは何座?」
美保が星の一群を指差しながら二人に聞いた。
「あれは射手座だな。たしか観月は射手座だよな?」
昇の問い掛けに観月は親指を立てながら頷いた。本人曰く、最近このポーズにはまったらしい。
「私は乙女座なんだけどー。乙女座どこどこー?」
「えーと……あるにはあるんだけどな」
昇は美保の方を向いて苦笑いした。辺りの暗さで昇の表情は見えにくいだろうが。
「あるなら教えなさいよー! 早く早くー!」
美保が昇の肩を掴んでがたがたと揺さぶる。観月は素知らぬといった風で望遠鏡を覗いていた。
「いや、今日は満月だろ? だから月が明るくて乙女座が微妙に見えないんだ」
「えー……」
昇の言葉を聞いて、美保は落胆した。
昇の言う通り、今日は満月だった。月の明かりが邪魔をして周辺の星はだいぶ見づらくなっていた。
「それにしても、眩しいな」
昇は目を細めて月を眺めた。観月もそう思ったのか、同じように目を細める。
「ていうか今日の月、なんか明るいってより……不気味な感じ……」
美保の言葉を聞いて、昇もそれに続く。
「あぁ、何か不吉そうな雰囲気がするな」
そこで昇は肩を叩かれたことに気付いた。後ろを向くと、観月だった。
「どうした?」
観月は月を指差した。というよりもむしろ、観月の動きを視認できるほどに辺りは明るくなっていた。
「昇……月が……」
美保が少し怯えたように月を指し示す。昇は月を見上げ、絶句した。
「な……んだよ、これ」
昇が見上げた月は、光輪を纏い紫色に輝いていた。その姿はまさに異物であり、なにか災禍を予言するかのごとく不気味に輝いていた。
「ねぇ、二人とも……帰ろうよぉ……」
美保が不安そうに二人の服の裾を引っ張った。昇と観月は目を合わせ、望遠鏡を片付けて帰り支度を済ませた。
「こんなに明るくなったら天体観測どころじゃないな」
ぼやいた昇の横で観月が首だけでコクコクと頷く。三人は校舎裏へと丘を下り始めた。
「あーあ。せっかく夏休みの貴重な時間使ったのに、これじゃ台なしよっ」
美保が不満をたれながら跳びはねるように駆け下りる。昇と観月も小走りで続く。
「おい美保、待てよっ。そんな走ったら転ぶぞ」
「だーいじょーぶ! あたしを誰だと思ってんのよ!」
「幼なじみ」
「むう……つまんなーい」
こんなくだらない会話はいつものことだった。美保がおちゃらけて昇が突っ込む。観月が冷静に傍観し、たまに暴走した昇を抑制する。
どこにでもあるごく普通の日常だったが、三人にとっては一番心地好い時間だった。
しばらく歩いていると、やっと校舎に近付いてきた。不意に美保が立ち止まって不思議そうな表情を浮かべた。
「どうした、美保?」
昇と観月は美保の顔を覗き込んで聞いた。美保は自分の気のせいか、という心持ちで校舎を指差して言った。
「ねぇねぇ、校舎の中に誰かいない?」
「はぁ? 今は夏休み中だし、この時間じゃ自習してる奴もいないだろ。校舎の戸締まりは完……」
完璧だ。昇がそう言おうとした時だった。廊下を動く人影が過ぎった。観月の方を見るが、観月にも見えたらしい。
「ね! いたでしょ? あれ、泥棒じゃないかな?」
美保の何気ない言葉に二人とも考え込んでしまった。
確かに、ありえない話ではなかった。浜平学園の所持する土地の量、財産の量は県内の全高等学校のそれと言っても過言ではない。
「どうする? 昇、観月」
美保は二人に聞いた。が、それはどうするか意見を求めたというよりも、自分への許可を求めていたように感じられた。
「見ちまったもんは捕まえるしかないだろ。な、観月?」
昇は美保と観月を交互に見てニヤリと笑った。観月も了承したのか、親指を立てて二人に合図をした。
「よーし。じゃあ、意地でも泥棒を捕まえて成績アップに繋げないとねっ」
美保が満面の笑みで言ったが、昇はあからさまな呆れた表情を浮かべた。観月もいたたまれない、といった感じで美保と目を合わせなかった。
「美保、お前最初からそれが原因だっただろ……」
「あれ、ばれちゃった?」
「いや『ばれちゃった?』じゃないから……」
昇は美保の行動の動機に完全に呆れていた。すると、観月が昇の肩を叩いて校舎の一角を指差した。
「ん? あれは……さっきの人影っぽいな。よし、じゃあ二人とも準備はいいか?」
昇と観月は肩にかけた望遠鏡をその場に下ろし、肩を二、三回した。
「よし、行くぞっ」
昇の掛け声を引き金に、三人はいっせいに校舎目掛けて飛び出して行った。