婚約破棄ですか? ええ、喜んで!
王都で最も美しい令嬢を挙げるとすれば、十人中八人はロシュ公爵令嬢の名を口にするだろう。
腰まで流れる柔らかなプラチナブロンドに、宝石を思わせるアンバー色の瞳。いついかなるときも乱れのない身なりと、優雅な立ち居振る舞い。
豊かな胸元に引き締まった腰、丸みを帯びた女性らしい曲線は、清楚な印象と相まって、どこか人を惹きつける不思議な魅力を放っていた。
「セレスティーヌ様、おはようございます」
「ええ、おはようございます」
社交界の紳士たちがこぞって憧れる令嬢、セレスティーヌ。
しかし、そんな彼女の婚約者であるヴァロワ侯爵家の嫡男、ラファエルは、いつも不満を抱えていた。
彼が求めていたのは、華やかで明るい薔薇であって、気高く完璧で、隣に立つだけで自分がちっぽけに思えてしまうような百合ではなかったのだ。
セレスティーヌは、いつだって優しかった。相手が誰であろうと柔らかな笑みを浮かべ、失礼なことを言われても、むやみに声を荒らげることはない。
社交界での評判もよく、令嬢たちの間では、その優雅な振る舞いと豊富な知識が手本とされていた。
ラファエルも、初めのうちはそんな婚約者を気に入っていた。
美しく、家柄も申し分なく、礼儀正しいうえに社交界での評判もいい。侯爵家の夫人となる女性として、これ以上ふさわしい相手がどこにいるというのだろう。
しかし、共に過ごす時間が長くなるにつれ、彼の満足感は次第に歪んだ感情へと変わっていった。
どこへ行っても人々の目を引くセレスティーヌの隣に立つたび、自分だけが何もできない愚か者になったような気がしたのだ。
ラファエルの劣等感は、やがて女遊びの激しさへとつながっていった。
美しい女性たちをそばに置き、彼女たちに囲まれているときだけは、自分こそ誰よりも魅力的な男なのだと錯覚できた。何を言っても笑ってくれ、何をしても褒めそやしてくれる女たちに囲まれていれば、セレスティーヌの存在がもたらす居心地の悪さを忘れられたからだ。
そんな噂が耳に入るたび、セレスティーヌは深いため息をのみ込みながらも、表向きはおとなしく微笑んでいた。
婚約さえ予定どおりに続いていれば、どうせ重要なのは彼ではないのだから。
そう思っていたのだけれど。
「セレスティーヌ! お前との婚約を破棄する!」
ある伯爵家が主催する舞踏会でのこと。
大勢の貴族たちが見守るなか、ラファエルが突然声を張り上げた。
「……はい?」
「聞こえなかったのか!? お前との婚約を破棄すると言ったんだ! お前のような女と結婚するくらいなら、死んだほうがましだ!」
何十もの視線が、二人に集中した。
セレスティーヌはしばらくラファエルの顔を見つめた。いつもより赤くなった頬に、ひどく歪んだ口元。そして、自分に向けられた露骨な敵意が目に入る。
「……理由をお聞きしても?」
セレスティーヌは、どうにか声を整えて尋ねた。
突然の宣言に戸惑っていたのは確かだ。しかし、それ以上に彼女の頭をよぎったのは疑問だった。
いったい、何の風の吹き回しなのだろう。
普段から誠実な婚約者とは言いがたかったものの、少なくとも人前でここまで露骨に恥をかかせるほど愚かな人間ではないと思っていたのだ。
もっとも、それは彼女がラファエルを実際よりほんの少しだけ高く評価していたからこそ抱けた考えだった。
現実には、彼は今この瞬間でさえ、婚約者ではない別の女性を腕に抱いていたのだから。
「理由だと? 本当にわからないのか?」
ラファエルは嘲るように笑った。
彼の腕にしがみついていた女性が、待っていましたとばかりにセレスティーヌを睨みつける。
濃い化粧に華やかな装飾品。一目で社交界の流行を追いかけているとわかる格好だった。
女性はラファエルの肩に身を寄せ、口元を隠すように手を添えた。
「あら、ラファエル様。本当にご存じないようですね。それとも、知らないふりをなさっているのかしら……?」
「そうだ。そこがこの女の胸くそ悪いところなんだ!」
ラファエルはセレスティーヌを指さした。
「お前はいつも完璧なふりをして、礼儀正しいふりをして……そのくせ、裏では俺を見下していたんだろう! お前がどれだけ人を馬鹿にする女なのか、俺はとっくに気づいていたんだ! そんな女とは結婚できない! それに、俺はもう真実の愛を見つけたんだからな!」
女性の腰に回されていたラファエルの手に、ぐっと力がこもった。
抱き寄せられた女性は、勝利を確信した者のような得意げな顔で、改めてセレスティーヌを見やった。
「それに! お前は俺の妹までいじめていたそうじゃないか! 表向きは優しいふりをして、陰では人をいじめるなんて、本当に吐き気がする!」
「私が……シャルロット様を?」
「お前以外に誰がいる!」
ここぞとばかりに、ラファエルは言葉を重ねた。
「正直、お前のその顔にももう飽き飽きした! 初めは美しいと思ったさ。だが、毎日あの息の詰まるような顔を見せられていると、窒息しそうになるんだ! まるで人形じゃないか。いつも笑ってばかりで、面白みも何もない!」
周囲から、小さなどよめきが漏れた。
ラファエルの腕に抱かれていた女性でさえ、思わず周囲の様子をうかがった。
婚約破棄を宣言するだけでも、十分すぎるほどの騒ぎになる。わざわざそこまで言う必要はないだろう。
しかし、ラファエルは止まらなかった。
むしろ人々の視線が自分に集まっていることに気をよくしたのか、これまで胸の内にため込んでいた不満を吐き出すように、さらに声を張り上げた。
「それに、その体つきもそうだ! いったいどこがいいんだか、さっぱりわからないな。かえって下品に見えるくらいだ。大人しそうな顔をして、男の目を引こうとして――」
「この大馬鹿お兄様ぁぁぁぁぁっ!!!!!」
轟くような叫び声が、会場を揺るがした。
同時に、小さな靴がラファエルの顎めがけて飛んでいく。
「ぐはっ!?」
ラファエルの体が横へと大きく傾いた。
彼は悲鳴を上げる間もなく床に尻もちをつき、腕にしがみついていた女性は悲鳴を上げながら後ずさった。
その中心に立っていたのは、ドレスの裾をたくし上げ、勇ましく仁王立ちする少女だった。
ラファエルのただ一人の妹、シャルロット・ド・ヴァロワ。
初めて会った日のことを、セレスティーヌは今でも鮮明に覚えていた。
ふわふわと巻いた金髪に、警戒心をあらわにした桃色の瞳。丸々とした目元に整った顔立ちは子犬を思わせたが、王妃殿下のお茶会で初めて顔を合わせたシャルロットは、セレスティーヌに言わせれば、まさしく「毛を逆立てた可愛い子猫」だった。
「あなたが兄様の婚約者?」
「はい。セレスティーヌと申します」
「挨拶なんて結構ですわ。兄様がどんな女を連れてきたのか、気になっただけなんだから。あなたと仲良くするつもりなんてないので」
正直に言えば、侯爵令嬢の振る舞いとしては零点だった。
あまりにも無礼で、品位の欠片もない。
その場で無礼な態度をたしなめたとしても、何ら不思議ではなかっただろう。
けれど、セレスティーヌの目に留まったのは、悪い癖を直せずに唇を尖らせる姿と、本人なりに精いっぱい睨みつけているらしい、力の入りすぎた丸い瞳だった。
(まあ、なんて可愛らしいのかしら)
セレスティーヌは、危うくその言葉を口にしてしまうところだった。
「ふふ、ええ。これからよろしくお願いしますね、シャルロット様」
「今の話、聞いていなかったの!?」
「聞いていましたよ。でも、これから顔を合わせる機会も多いでしょう? それなら、仲良くしたいと思いまして」
「……ふんっ!」
シャルロットは鼻を鳴らして、ぷいっと顔を背けた。その拍子に、丁寧に巻かれた金髪が肩の上でふわりと跳ねる。
(なんて愛らしいのかしら)
その日以来、セレスティーヌはすっかりシャルロットの虜になってしまった。
だって、シャルロットが可愛かったのだから。
それも、世界で一番可愛かったのだから!
もちろん、外見だけの話ではない。
シャルロットには、確かにわがままなところがあった。社交界の令嬢たちのように、柔らかな笑みで不快感を覆い隠す器用さなど、これっぽっちも持ち合わせていなかった。
それでも、セレスティーヌはそんな彼女の素直さが好きだった。
いや、正直に言えば、素直というより無礼と言ったほうが正確かもしれない。けれど、不思議なことに、シャルロットに対してはどうしても腹が立たなかった。
むしろ、彼女が目を細めて唇を尖らせるたび、胸の奥がくすぐったくなるのだった。
「セレスティーヌ様は腹が立たないんですか!? 兄様がまた別の女と会っていて、約束をすっぽかされたのに、何も言わなかったんでしょう!?」
「ふふ、大丈夫ですよ」
「いつもそうやってへらへら笑ってばかり!」
「ごめんなさい。心配してくださるのが嬉しくて、つい」
「し、心配なんてしていません! ただ、あなたがそんなふうに甘やかすから、兄様が何度も同じことを繰り返すんです! 兄様の素行は家の名誉にも関わるんですから、それで、その……!」
口は悪くても、シャルロットは自分をありのままに見てくれる人だった。
ラファエルとは正反対の人だったから。
******
「この大馬鹿お兄様ぁぁぁぁぁっ!!!!!」
そして、現在。
シャルロットは床に倒れ込んで丸くなったラファエルに向かって、何度も蹴りを入れていた。
時折うめき声を漏らすばかりで、彼には抵抗する余裕すらない。
「馬鹿! 本当馬鹿! 救いようのない大馬鹿! 自分がどれだけ恥ずかしい真似をしてるのか、少しは頭を使って考えたらどうなの!?」
「お、お前……!」
「何よ! 言い返す言葉があるなら言ってみなさいよ! ああ、無理か! 自分の都合しか頭に入ってないものね!」
ラファエルが口を開きかけたが、シャルロットは反論する隙すら与えなかった。
「自分が無能で、婚約者に見合う男になれなかったからって、その腹いせに相手を貶めるなんて! 恥を知りなさいよ、この卑怯者! 自分の情けなさを認める度胸もないくせに、他人のせいにすることだけは一人前なのね! 発情した豚みたいに女の尻ばかり追いかけているくせに、誰が下品ですって!?」
「シャルロット! お前、兄様になんという口の利き方を……!」
「兄!? そうよ、兄よ! このどうしようもないくそ兄! あんたが何度やらかしても、今までは身内だからって大目に見てきたわ。でもね、限度ってものがあるのよ! あなたみたいな人間が兄様だなんて、恥ずかしくてたまらないわ!」
シャルロットは大きく息を吸い込んだ。
「馬鹿!間抜け!救いようのないろくでなし! 一生その腐った性根を抱えて、一人寂しく生きていきなさい! あなたのせいで、お姉様と家族になれる機会を逃しちゃったじゃないのおおおおおっ!」
シャルロットの最後の叫びが、会場中に響き渡った。
そして、その瞬間。
会場は嘘のように静まり返った。
何十もの瞳が、床に転がるラファエルと、そのすぐそばで息巻いているシャルロット、そして少し離れた場所から二人を見つめるセレスティーヌの間を、忙しなく行き来する。
「……シャルロット様?」
「はいっ!?」
反射的に返事をしたシャルロットの体が、ぴたりと固まった。
そこでようやく、自分が何を口走ったのかに気づいたらしい。
つい先ほどまで兄に罵声を浴びせていた勢いはどこへやら、桃色の瞳が落ち着きなく揺れ始めた。
「今、お姉様って……」
「ち、違う! これは、その……!」
シャルロットの顔が、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。
何か言い訳をしようと唇を動かすものの、とうとうまともな言葉をひとつも口にできなかった。
そんな彼女を見つめていたセレスティーヌは、ついに堪えきれず、笑い声を上げた。
「ふふっ、あはははは!」
「セ、セレスティーヌ様!?」
いつもは端正で優雅な微笑みしか見せないセレスティーヌが、初めて声を上げて、まるで子供のように無邪気に笑い始めたのだ。
少し身をかがめ、片手で口元を押さえながら笑うその姿は、眩しいほどに華やかだった。
アンバー色の瞳は涙がにじむほどきらきらと輝き、ほんのり赤く染まった頬と、まばゆいプラチナブロンドが会場の明かりの下で美しく調和している。
その笑い声ひとつで、会場にいた大勢の貴族たちはもちろん、つい先ほどまで兄に怒り狂っていたシャルロットまでもが、呆然と彼女を見つめることになった。
これほど美しく、優しく、温かな人が、どうして今まであんな愚か者の婚約者だったのだろう。
いや、もう婚約者ではないのだった!
シャルロットの顔が、ぱっと明るくなった。
そうだ。婚約は破棄された。
これだけの騒ぎを起こしておいて、婚約を続けられるはずがない。
つまり、セレスティーヌはもう自由の身なのだ。
あの忌々しい兄の婚約者という足枷から解放されたのである。
もっとも、その過程で兄が会場の床に転がり、自分は何十人もの貴族の前で実の兄に暴力を振るった妹という不名誉な記録を残すことになったのだが、その程度のことはどうでもよかった。
セレスティーヌはシャルロットを見つめていた。
目元にはまだ笑みの名残を浮かべながら、とても優しい眼差しで。
彼女はゆっくりと歩み寄り、床に転がったままのラファエルに向かって腰をかがめた。
「セ、セレスティーヌ……?」
「ラファエル様。私が今まで、あなたが何をなさっても気にしないでいた理由がわかりますか?」
セレスティーヌの声は、つい先ほどまで笑いを堪えきれずにいた人のものとは思えないほど落ち着いていた。
彼女は床に座り込んだラファエルを見下ろしながら、穏やかに言葉を続ける。
「本当に、どうでもよかったからです」
「……は?」
「ラファエル様がほかの女性と親しくなさろうと、私との約束を破ろうと、私の意見を無視なさろうと。私は特に気にしていませんでした。そもそも、ラファエル様に何かを期待していたわけでもありませんから」
「それは、どういう……!」
「もちろん、今日のように大勢の前で侮辱されるのは少々困りますけれど。私にも、それなりのプライドはありますので」
柔らかく弧を描く唇には、相変わらず微笑みが浮かんでいた。
けれど、そこにはもう、ラファエルに向けられた感情など何ひとつ感じられなかった。
「婚約破棄、喜んでお受けいたします。私には、ラファエル様よりもずっと好かれたいと思っている方がいらっしゃいますから」
大勢の貴族が見守る場だった。
自分から婚約破棄を宣言し、相手もそれを快く受け入れた。ここで発言を撤回すれば、先ほどまで並べ立てていた非難が、すべて見当違いの言いがかりだったと認めるようなものだ。
もっとも、すでに大半の者がそう考えていたのだが、少なくともラファエルには最後の意地が残っていた。
「ふん! いいだろう! 俺だって、お前なんかと結婚するつもりはなかったんだからな!」
歯を食いしばって吐き捨てるラファエルをよそに、セレスティーヌの視線はすでに別の場所へと向いていた。
つい先ほどまで、兄に向かって猛烈な怒りをぶつけていた小さな令嬢へ。
そして、ためらうことなく彼女の柔らかな頬を、ちょんとつまんだ。
「兄の方は必要ありませんけれど、可愛い妹のお姉様になるのなら、いつだって大歓迎ですよ」
その笑顔を見た瞬間、シャルロットは悟った。
どうやら自分は、もう後戻りできないところまで来てしまったらしい。
******
その夜の舞踏会は、まさに大混乱のうちに幕を閉じた。
ヴァロワ侯爵家の跡取り息子が、公爵令嬢に一方的な婚約破棄を突きつけた挙げ句、実の妹に蹴り飛ばされた。
それだけでも十分すぎるほど刺激的な話題だった。噂はその日のうちに王都中へ広まり、翌朝には、王都の貴族でこの騒動を知らない者などいないほどになっていた。
ヴァロワ侯爵家の嫡男ラファエルが、婚約者であるロシュ公爵令嬢に公然と婚約破棄を宣言したこと。
その際、彼女に数々の侮辱を浴びせ、さらには妹をいじめていたという身に覚えのない罪まで着せようとしたこと。
そして何より、その一部始終を見ていた実の妹に顎を蹴り上げられ、床を転げ回るという醜態をさらしたこと。
そのどれもが、社交界の格好の噂話となった。
「いったい私が何をしたというのですか!」
ヴァロワ侯爵家の屋敷では、ラファエルの怒声が父の執務室に響き渡っていた。
「婚約なんて、相性が合わなければ破棄したっていいでしょう!」
「婚約を破棄したこと自体を問題にしているのではない。なぜ、あんなやり方をしたのかと聞いているのだ」
「それはあの女が先に……!」
「先に何をしたというのだ? 彼女が何かしたとでも言うつもりか。セレスティーヌ嬢は、お前が何を言おうと最後まで黙って聞いていたそうじゃないか。お前がさんざん侮辱し、挙げ句の果てにはありもしないことまで持ち出して罪を着せようとしたというのに」
「それは……!」
「それから、お前は最後になんと言った?」
ラファエルは口をつぐんだ。
侯爵は深々とため息をついた。
「婚約者の容姿を嘲笑ったそうだな。それも、大勢の貴族が見ている前で」
「ですが!」
「黙れ!」
侯爵は疲れ切った顔でこめかみを押さえた。
「ロシュ公爵家は、まだ正式な見解を示していない。しかし、お前のしでかしたことに対して、謝罪と賠償を求めてくる可能性は高いだろう。それまでは謹慎だ」
「謹慎ですって!?」
「当然だろう!」
「父上!」
結局、ラファエルは家門の恥として、王都から遠く離れた寂れた領地へと追いやられた。
舞踏会での醜態に加え、それまでの素行や乱れた女性関係まで次々と問題視され、彼の評判は地に落ちた。後継者の座から遠ざけられたことは、言うまでもない。
「家族だから、そう簡単に見捨てるわけにもいきませんし……あれを一体どうしたら……」
「長男だからと、甘やかしすぎたのかもしれんな」
侯爵夫妻は並んで腰を下ろし、そろって深いため息をついた。
ラファエルが若気の至りで失敗をしでかしたことは、一度や二度ではない。しかし、今回ばかりは、どう考えても庇いようがなかった。
「よかったんですよ。もう二度とこちらに顔を出さないでほしいくらい」
「まあ、あれでも一応お前の兄だからな……」
「家族だからって何でも許してあげるから、あんな人間になるんです」
一方、ラファエルの隣で得意げに振る舞っていた女性の境遇も、似たようなものだった。
彼女は当初、ラファエルが婚約を破棄すれば、自分が新たな侯爵夫人になれると期待していた。
家柄こそロシュ公爵家には及ばなかったものの、セレスティーヌを追い落とし、上流社会へと躍り出られると本気で信じていたのだ。
しかし、現実は彼女の期待とは正反対の方向へと転がっていった。
婚約破棄騒動の後、ラファエルは後継者の座さえ危うい立場に追い込まれ、彼女自身も社交界の笑いものとなった。
婚約者のいる男性と親しくすること自体は、社交界ではさほど珍しいことではない。
問題だったのは、その相手が公爵令嬢だったことだ。
しかも彼女は、セレスティーヌに露骨な敵意を向け、ラファエルの振る舞いを煽ってさえいた。
あの夜、舞踏会にいた者たちは、彼女がセレスティーヌに向けた表情をはっきりと覚えていた。
社交界での居場所は、日に日に狭まっていった。
彼女が姿を消すまで、それほど長い時間はかからなかった。
******
「あら、シャルロット様!」
ロシュ公爵家の応接間。
セレスティーヌは、湯気の立つティーカップを置きながら、嬉しそうにシャルロットを迎えた。
婚約が破棄された今も、二人の交流は途切れるどころか、ますます盛んになっていた。
以前よりもずっと頻繁に、そしてごく自然に顔を合わせるようになっていたのである。
「……お姉様は相変わらずですね」
シャルロットは、少し赤くなった頬を隠すように、そっと口元に手を添えた。
婚約破棄騒動の後、ロシュ公爵家とヴァロワ侯爵家は謝罪と賠償について話し合った。しかし、セレスティーヌはそれをきっぱりと断った。
『ラファエル様とのことは、もう過ぎたことですから。それよりも、シャルロット様とはこれからも仲良くしていきたいのです』
その一言に、ヴァロワ侯爵夫妻は感激と申し訳なさでどうしていいかわからなくなった。
おかげでシャルロットは何の制約もなく、毎日のように公爵家を訪ねられるようになったのだった。
「どうして賠償金を断ったんですか? こういうものは、受け取りたくなくても受け取るべきです!」
「でも……賠償金のことでヴァロワ侯爵家との関係がぎくしゃくしてしまうのは嫌ですから」
セレスティーヌはティーカップを置き、柔らかく微笑んだ。
「お金に困っているわけでもありませんし。それに、シャルロット様とこれからもこうしてお会いできるなら、私はそれだけで満足です。もちろん、ラファエル様のお財布から出るお金なら、喜んでいただきましたけれど」
その点については、シャルロットも全面的に同意だった。
あの男がこれまでに引き起こした数々の迷惑を考えれば、財産の九割くらい取り上げたところで、まだ足りないくらいだ。
けれど、それ以上に気になったのは、セレスティーヌが何気なく口にした言葉だった。
これからもこうして会えるなら、それだけで満足。
シャルロットは向かいの席に腰を下ろし、そっと彼女の様子をうかがった。
柔らかなプラチナブロンドが肩を伝って流れ、琥珀色の瞳は陽の光を受けて温かく輝いている。
今日もセレスティーヌは美しかった。
特別に華やかな装いをしているわけでもないのに、ただ座ってお茶を飲んでいるだけで、応接間の空気まで上品なものに変えてしまうような人だった。
「……お姉様。次の縁談は、もう決まったんですか?」
ラファエルとの婚約が破棄された以上、セレスティーヌもいつまでもそのままというわけにはいかない。
あの完璧なロシュ公爵令嬢が自由の身になったという知らせに、王都の若い貴族たちは早くも色めき立ち、彼女に近づく機会をうかがっていた。
シャルロットは、胸の奥から何かがむっとこみ上げてくるのを感じた。
あの兄という名の愚か者が追い払われたことは、千年に一度あるかないかというほど喜ばしい出来事だった。
けれど、その空いた席に別の妙な男が収まるなんて、絶対にごめんだった。
「まだ何も決まっていませんよ。お父様も、しばらくはゆっくり考えればいいとおっしゃっていますし。急ぐ必要もありませんから」
シャルロットは、ほっと胸をなで下ろした。
自分でも、どうしてこんな気持ちになるのかわからなかった。
いや、本当はわかっているのだろう。
(いっそ弟を教育して家を継がせて、お姉様と結婚させれば……あの子なら絶対に喜ぶでしょうね! 私と恐ろしいくらい好みが同じなんだから! ……いや、でも、それじゃあ今は家族になれても、私だっていつか結婚して家を出なきゃいけないじゃない……!)
貴族令嬢として生まれた以上、結婚を完全に避けるのは難しい。
もちろん、急いで結婚する必要はないだろう。しかし、だからといって一生独身でいると宣言するわけにもいかなかった。
結婚すれば、夫の領地へ移り住むことになるかもしれない。
今のように、気軽にセレスティーヌを訪ねることができなくなるかもしれない。
もし夫が嫉妬深い男だったら、セレスティーヌと会うことさえ快く思わない可能性がある。
そんな男と結婚するなんて、そもそも願い下げだったが。
(……嫌だ)
シャルロットの指が、ティーカップの取っ手をぎゅっと握りしめた。
(お姉様に会えなくなるのも、お姉様がほかの男と結婚するのも嫌)
その気持ちを初めてはっきりと自覚した瞬間だった。
自分でも、この盲目的な独占欲が、今まで知らなかった感情であることくらいわかっていた。
けれど、その正体に気づきかけるほど、シャルロットの唇は乾いていった。
これは単なる姉妹愛でも、憧れでもない。
自分は、お姉様を――。
「シャルロット様? 何か悩み事でもあるのですか? せっかくの綺麗な髪が乱れてしまいますよ」
「……お姉様。いっそ、私と結婚しませんか?」
口にした瞬間、シャルロットは自分の舌を引っこ抜いてしまいたくなった。
(な、何を言ってるのよ、私ぃぃぃ!?)
「まあ……ふふ。初めてお会いしたときは、あんなに警戒なさっていたのに」
「し、仕方ないでしょう! 家柄も容姿も評判も、何ひとつ欠けていない女性が、どうして兄様みたいなろくでなしと結婚したがるんですか! 何か裏があるに決まっていると思っていたんですから!」
シャルロットは、顔が火を噴きそうなほど赤くなったまま必死に言い返した。
なぜか、最後のほうは泣き声に近くなっていた。
セレスティーヌは、相変わらず愛らしい笑みを浮かべていた。
まるで、可愛い妹が思いがけず愛情を示してくれたことが、たまらなく嬉しいとでもいうような顔だった。
妹。
そうだ。
セレスティーヌは、きっと自分のことを妹だと思っているのだろう。
だからといって、落ち込む必要はない。
何をしても妹としてしか見てもらえないのなら、いっそその立場を利用してしまえばいいのだ。
いつでも公爵家を訪ねられるし、セレスティーヌと二人きりでお茶を飲むこともできる。
自然に手をつないだり、そばに寄りかかったりすることだってできるのだ。
お姉様が自分を可愛い妹だと思っているのなら、世界で一番可愛い妹になってみせればいい。
そして、その可愛さで、お姉様の心を少しずつ、ほんの少しずつ、自分のほうへ傾けていくのだ。
(覚悟していてくださいね、お姉様)
そうして固い決意を胸に抱いた少女は、自分が今立てた計画がどれほど無謀なものなのか、まだ気づいていなかった。




