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取り巻きAに転生しましたが、取り巻く令嬢がもういません。小物ですが、完璧な悪役令嬢を演じます。

作者: くみの
掲載日:2026/10/10

 私、エルヴィラ・ノーレンは、取り巻きAである。


 正確には、取り巻きAになる予定だった。


 乙女ゲーム『薔薇の学園と一輪の花』の悪役令嬢ロザリンド様の、いつも半歩後ろで「まあ素敵ですわ」と言う係。断罪イベントでは一緒に落ちる係でもある。


 前世でこのゲームを全ルート攻略した私は、目が覚めた瞬間にその運命を理解して、真っ青になった。


 ところが、いざ入学してみると、ロザリンド様はどこにもいなかった。


 いや、いるにはいる。むしろ元気いっぱいだ。ゲームの攻略対象ではない幼なじみと、さっさと婚約して、毎日お花畑のような顔で笑っている。


(さすが、転生者。逃げ足が速い)


 王太子殿下の婚約者になるはずだった彼女が、入学前に別の人と婚約を済ませてしまったのだ。おかげで王太子殿下には、今も婚約者がいない。


 そして、悪役令嬢のいない学園で、取り巻きAの席は宙に浮いた。


 つまり私は、ただの子爵令嬢になった。


 こうなれば、目立たず、騒がず、そこそこ安全な縁談をいただいて、将来は少しだけ快適な屋敷で昼寝をして暮らす。


 それが私の人生計画だ。


 完璧だった。ヒロインが現れるまでは。


「クラウス様ぁ、今日も一緒にお昼を食べましょう?」


「ガイ様、お怪我はもう大丈夫ですか? 私、心配で……」


「ジェラルド様、今度魔法を教えてください!」


「殿下、次の週末はお出かけしたいです!」


 中庭の真ん中で、ヒロインのリリアナ様が、攻略対象者たちに囲まれて笑っている。


 ゲームでは、誰か一人を選ぶ物語のはずだった。


 なのに今の彼女は、全員とにこにこ仲良し。


 ……ハーレムエンドを目指しているのだ。そんなエンド、このゲームには存在しないのに。


「悪役令嬢がいないだけで、そうなるの……?」


 私は柱の陰で頭を抱えた。


 しかも、被害は恋愛だけで済まなかった。


 宰相の息子クラウス様の机には、期限の過ぎた報告書が積み上がっている。騎士団長の息子ガイ様は、最近ずっと訓練を休んでいる。魔術師団長の息子ジェラルド様の研究室は、鍵がかかったままだ。


 全員、将来の国の中枢を担う人たちである。


 このまま育ってしまったら、国はどうなるのか。


 政治が傾く。治安が乱れる。税が上がる。


 私の昼寝付き老後が、危うい。


「……困る」


 つぶやいてから、はっとした。


 別に、国を救いたいわけじゃない。正義の味方になりたいわけでもない。


 ただ、私の安寧な生活が脅かされるのが嫌なだけだ。


「仕方ない。必要な範囲で、ちょっとだけ介入しましょう」


 これは、あくまで自衛である。




 方針は、すぐ決まった。


 クラウス様、ガイ様、ジェラルド様の三人には、婚約者がいる。彼らがリリアナ様に夢中になったのは、婚約者との間が冷えていたところへ、ちょうど優しくされたからだ。ゲームのイベントがきっかけだと分かっているなら、同じ手を婚約者に使ってもらえばいい。


 問題は王太子殿下だった。


 婚約者がいない。奪い返す相手が、そもそもいないのだ。


 それなら、話は簡単である。


(王太子殿下は、リリアナ様にお任せしましょう)


 彼女には彼女の望む恋愛をしてもらう。私は平穏な生活を守る。お互いに損がない。


 ただし、そのためには一つ、足りないものがあった。


 ゲームの王太子ルートには、恋を燃え上がらせる最後の一押しがある。悪役令嬢の妨害イベントだ。


 そして、悪役令嬢は、もういない。


 誰もやらないのなら。


 私が、やるしかない。


 翌日の放課後。


 私は廊下で、リリアナ様の前に立った。


 背筋はぴん。扇は口元。視線は少し下向き。


 前世で何十回も見返した、ロザリンド様の登場スチルを思い出す。あの角度、あの間。画面の中の彼女を、頭の中で丸ごと再生しながら、私は口を開いた。


「ごきげんよう、リリアナ様」


 台詞回しも完璧に再現する。


「身分をわきまえない振る舞いは、お控えなさいな。殿下のお隣は、あなたの席ではありませんわ」


 内心は、心臓が口から出そうだった。


(ひいいい、噛まなかった、噛まなかったわよね!?)


 リリアナ様は、大きな瞳を見開いた。


 そして、ぱっと顔を輝かせた。


「……やっぱり! 強制力、働いてるんだ!」


「はい?」


「ううん、こっちの話です! ありがとうございます、エルヴィラ様!」


 ありがとう? 何が?


 彼女は嬉しそうにスキップして去っていった。


 残された私の肩を、後ろからぽんと叩く手があった。


「いい悪役令嬢っぷりだったわ」


 振り向くと、廊下の曲がり角から、ロザリンド様がひょっこり顔を出していた。婚約者の腕に、しっかりぶら下がったまま。


「ロザリンド様!? 見ていたんですか! これはその、演じ……」


 言いかけて、はっと口をつぐむ。


「……いえ、私は悪役令嬢なんかでは」


「私が抜けて、席が空いたものね。強制力って、やっぱりあるのね。頑張って」


「いえ、あの、違うんです!」


「大丈夫、応援してるわ」


 全然、大丈夫じゃない。


 ロザリンド様は婚約者と腕を組んだまま、手を振って去っていった。


 演じているだけです、という一言が、喉の奥で行き場をなくしている。


 強制力って、こんなに便利な言葉だっただろうか。




 王太子ルートの下準備はできた。


 さて、次は婚約者たちである。


 私一人で全員を元に戻すのは無理がある。知識は私が持っているけれど、彼らに近づいて好感度を上げるのは、婚約者である令嬢たちのほうが適任だ。


 幸い、学園は便利な場所だった。身分の違う令嬢でも、同じ教室、同じ食堂、同じ回廊を使う。子爵令嬢の私が、侯爵家や伯爵家のお嬢様に話しかけても、「同級生ですもの」で済む。


 私は慎重に、三人の様子をうかがった。


 クラウス様の婚約者、シャルロット様。燃えるような赤毛の侯爵令嬢で、最近は食堂の隅で、人を射殺しそうな目をしている。


 ガイ様の婚約者、ベアトリス様。おっとりした伯爵令嬢だが、ここ数日は笑顔のまま紅茶を三杯おかわりしている。


 ジェラルド様の婚約者、オフェリア様。口数の少ない魔術師団の縁戚で、図書室の隅で、同じページを一時間見つめていた。


 三人とも、怒っている。


 しかも、全員が怒りを隠しているところが、貴族の娘らしくて、とてもいい。


 私は、お茶会の招待状を、三通書いた。


 三人にそれぞれ、リリアナ様の話題には触れず「ゆっくりお話ししたいので」とだけ添えて。


 サロンに集まった令嬢たちは、全員が完璧な笑顔だった。


 完璧すぎて、空気が冷たい。


「ようこそお越しくださいました。今日は、皆様とゆっくりお話ししたくて」


 私は優雅に紅茶を注いだ。


(お願い、こぼさないで、私の手!)


「単刀直入にお聞きします」


「皆様はリリアナ様について、どうお考えで?」


 サロンの温度が、さらに三度下がった。


「率直に申し上げてもよろしいですの?」


 最初に口を開いたのは、シャルロット様だった。


「大変、腹立たしいですわ」


「わたくしも」


「同じく」


 三人の声がそろった。


 素晴らしい。話が早い。


 私は侍女に合図をして、革表紙の本を持ってこさせた。


 中身は、私が前世の記憶から書き起こした攻略メモである。


「これは、予言の書ですわ」


 ぴくり、と三人の眉が動いた。


「予言の書……?」


「皆様の婚約者様が、どのような言葉に心を動かされ、どのような場所で心を開くのか。それが記されています」


 嘘ではない。ゲームのイベントと攻略条件だ。


 オフェリア様が、おそるおそる尋ねた。


「それは、リリアナ様が使っている手が……全部分かる、ということですか?」


「ええ。ですが、ただの知識です。使うかどうかは、皆様次第」


 私は、にっこり笑った。


 背中は汗でびしょびしょである。


「これでリリアナ様が消えるとしたら、最初の一歩を踏み出す勇気のある方は?」


 沈黙。


 三人は顔を見合わせた。


 最初に手を上げたのは、やはりシャルロット様だった。


「……やりますわ」


「さすがです」


「負けるのは、嫌いですの」


 その気概、とても好ましい。


 私は予言の書の一ページを開いた。


「クラウス様は、夕方、図書室の三階にいらっしゃいます。報告書に追われているはず。そこで、こうおっしゃってください」


 シャルロット様の耳元で、台詞をささやく。


 ベアトリス様とオフェリア様が、じっと見守っている。




 翌日の夕方、私たちは図書室三階の書架の陰に、身を寄せ合って潜んでいた。


「気分はもう、悪巧みの共犯者ですわね」


 ベアトリス様が、うきうきと囁く。


「しっ。来ます」


 窓際の席では、クラウス様が書類の山の前で頭を抱えていた。


 そこへ、シャルロット様が静かに歩み寄る。


「クラウス様」


「……シャルロットか。すまない、今は忙しくて」


「存じております。お邪魔はいたしません。ただ」


 彼女は、小さな包みを机の端にそっと置いた。


「お昼を召し上がっていないでしょう? これだけ、置いていきます。クラウス様が、ずっと頑張っているのを、私は見ておりますから」


 クラウス様の手が止まった。


「……見て、いた?」


「ええ。誰よりも早く来て、遅くまで残っていらっしゃること。報告書が遅れているのは、怠けているからではなく、完璧にしたいからだと」


 ゲームでリリアナ様が、同じ場所で言った台詞とほぼ同じである。


 効果は、てきめんだった。


 クラウス様は、ぽかんと口を開けて、次第に顔を赤くした。


「……君は、僕のことを、本当にわかってくれるんだな」


(出た! 決め台詞!)


 私は書架の陰で拳を握った。


 クラウス様は、シャルロット様の手を握りしめ、長い悪夢から覚めたような顔をしている。


「すまなかった。僕は、最近、どうかしていた。君をないがしろにして……」


「分かっていただければ、いいのです」


 シャルロット様は涼しい顔で微笑んだ。


 ただし、書架の陰に向けて、小さくピースサインを送ってきた。


 ベアトリス様とオフェリア様が、私の腕を両側から強く握る。


「エルヴィラ様……!」


「本当に、効くんですのね……!」


 私は、優雅な微笑みを浮かべた。


 内心では、こうである。


(所詮は子ども、ちょろくてよかった……)


 顔にも口にも出さないけれど。


 静かに予言の書を閉じる。


「では、次の予言の書を手にする方は?」


 二人が、同時に手を上げた。




 それから二週間。


 ガイ様は訓練場に戻ってきた。ジェラルド様も、研究室の鍵を開けた。


 ヒロインのハーレム計画は、あっさり崩れた。


「どうして……? 好感度、全員ちゃんと上がってたのに……」


 廊下の隅で、リリアナ様が肩を落としている。


 私が通りかかると、彼女ははっと顔を上げた。


「エルヴィラ様……やっぱり、悪役令嬢の力は強いんですね」


「何のことでしょう」


「ううん。仕方ないです。ハーレムは無理でも、まだ王太子ルートがありますから!」


 涙目で、拳を握っている。


 案外たくましい。


 私は少しだけ良心が痛んだ。彼女は悪い人ではないのだ。ただ、自分の望みに素直なだけ。


「……頑張ってくださいませ」


「はい!」


 ヒロインは、元気に去っていった。


 なんだか応援してしまった。


 それよりも、嬉しい誤算があった。


 お茶会の三人が、すっかり仲良くなったのだ。


「エルヴィラ様! 今度は四人でお茶を!」


「うちの領のお菓子を持っていきますわ!」


「兄が、エルヴィラ様に興味があるそうですの!」


 未来の宰相夫人。未来の騎士団長夫人。未来の魔術師団長夫人。


 つまり、将来の重鎮の奥様たち。


(これは……老後の人脈として、最高では?)


 友達ができて、将来の安全も確保できた。


 完璧だ。


 ただし、お茶会が定例になると、令嬢たちは家の話もするようになった。


「そういえば、父が愚痴をこぼしていましたの。今月、王太子殿下の孤児院視察が、また取りやめになったと」


「兄も言っていましたわ。殿下が代わりに、街へ出られたとか」


「しかも、リリアナ様への贈り物の支払いが、公費に回されたと聞きましたわ」


 私は、紅茶を吹きそうになった。


「……それは、まずいのでは」


「ええ。殿下の公務の欠席は、今に始まったことではありませんもの」


 シャルロット様が、きっぱりと言った。


「父の話では、半年前から、議会で問題になっているそうですわ」


 初耳だった。


 ゲームでは、ここまで深刻に描かれていなかった。


 私は、頭の中の計算を、組み直した。


 王太子殿下とリリアナ様の恋は、成就させればいい。ここまでは変わらない。


 だが、公費の流用となると話が別だ。恋愛では済まない。


 このまま王になれば、国の予算がリリアナ様のドレスに消える。貴族たちの不信が高まる。国が割れる。


 私の老後が、危うい。


(まずい。非常に、まずい)


 ゲームでは、王太子が王になれなくなるパターンがある。隠しルートの、王弟ルートだ。王弟が玉座に就き、ヒロインはその隣に立つ。


 そして、王弟ユリウス殿下は実力主義の人だ。可愛いだけで中身のないヒロインは、好まないはず。


 ならば、こうだ。


 リリアナ様と王太子殿下の恋は、予定どおり成就させる。そこは変えない。ただ、国の舵取りだけは、殿下に任せられない。


 王太子殿下に代わって、王弟殿下が国を治める。それなら国は安泰だ。リリアナ様は王太子殿下のおそばで幸せになれるし、王弟ルートに入る心配もない。


 あとは念のため。リリアナ様が王弟殿下の目に留まる前に、王太子殿下の問題点だけを、まとめてお耳に入れておけばいい。


 そうすれば、殿下は動く。


「よし。ユリウス殿下に、情報を持っていきましょう」


 軽い気持ちだった。


 とても、軽い気持ちだった。


 とはいえ、子爵令嬢が王弟殿下に会うには、それなりの手順が必要だった。


 そこで頼ったのが、お茶会の令嬢たちである。


 シャルロット様のお父上は、宰相補佐。ベアトリス様のお兄様は、騎士団の事務方。オフェリア様の伯母様は、王宮の会計院に勤めている。


 三人の家を通じて、公費の流れの噂と、視察の欠席記録の写しが、少しずつ私の手元に集まった。


 私が自分で調べたものは、学園での殿下の素行と、リリアナ様の周辺の出費くらいである。


 それらを突き合わせて、一枚の紙にまとめた。


 面会の申し込みは、シャルロット様が、父上に頼んでくれた。


「娘の友人が、殿下にお見せしたい資料があるそうです」


 それだけで、通った。




 王弟ユリウス殿下の執務室は、静かだった。


 壁一面の書棚。机の上には整理された書類の山。窓から差し込む光の中で、殿下は穏やかな笑みを浮かべていた。


 三十歳を少し過ぎたくらい。黒髪に、深い青の瞳。


 ゲームの隠しルート、攻略難易度最高の男。


(わあ、実物。立ち絵より、目の鋭さが三割増し……)


 私は扇で口元を隠し、ロザリンド様直伝の角度で、お辞儀をした。


 前世のゲーム画面で見た、あの角度である。


「お時間をいただき、ありがとうございます、殿下」


「構わないよ。ノーレン子爵令嬢だね。面白い話があると聞いたが」


 私は、用意してきた紙を差し出した。


 殿下は、紙に目を落とした。


 そして、ゆっくり、一枚ずつめくっていった。


 顔から、笑みが消えていく。


「……正確だね」


「恐れ入ります」


「正確すぎる」


 殿下は紙から目を上げた。


 ゆっくり、私を見つめる。


「この数字は、会計院の者でなければ知らないはずだ。学園の令嬢が、一人で集められるものではない」


(ひっ)


「急に動きだしたのも、知っているよ」


「は、はい?」


「お茶会を開いた。令嬢たちを集めた。婚約者たちが、次々と元の鞘に収まった。君が目立ち始めたのは、ここ一か月だ」


 殿下は、机の上で指を組んだ。


「例えば、君が間者とか」


「か、間者……?」


「他国の諜報員とかね。こんな情報の集め方、普通じゃない」


(バレてる! 絶対にバレてる! 間者じゃなくて転生者だけど、似たようなものだから結局バレてる!)


 私の心の中は、大嵐だった。


 膝は笑っている。背中は冷や汗で冷たい。


 でも、表情だけは、まったく動かなかった。前世の画面で、何百回と見たロザリンド様の微笑みを、全力で再現している。


 殿下は、さらに続ける。


「大きな知識の源があるみたいだ。誰が君に教えているのかな」


 これは、ブラフだ。


 ゲームでも、王弟は相手の反応を見て、言葉を選ぶ人だった。


 ここで焦ったら、負ける。


 私は、ゆっくり紅茶を一口飲み、静かに微笑んだ。


「殿下」


「ん?」


「失礼などありませんわ。警戒しないような無能とは思ってませんよ」


(……あれ。私、今、何て言った?)


言ってから青ざめた。


「失礼なことを申しました」と言うつもりだったのに、混ざった。


 違うんです。「殿下を無能と思ってません」って言いたかっただけなんです。殿下は警戒心の強い、有能な方だと褒めたかっただけなんです。


沈黙。


 殿下の目が、少し見開かれた。


 それから、ふっと口の端が上がった。


「……なるほど。僕が警戒することを、はじめから織り込み済みか」


「え」


「それでいて、わざわざ証拠を持って、僕の前に来たわけだ」


「いえ、あの」


「面白い」


 殿下は立ち上がった。


 机をまわり、私の前に立つ。


 近い。背が高い。目が怖い。


「君のことは、完全には信用していない。何かを隠していることも分かる」


「は、はい……」


「だが、この情報は正確だ。しかも、どれも裏が取れる形で出されている。手元に置いて、情報源も目的も、ゆっくり確かめさせてもらおう」


 殿下は、私に手を差し出した。


「僕の補佐官付きの書記官として、来てもらう。給金は出す。住まいも手配しよう。将来の安全も、保証する」


 衣食住。


 将来の安全。


 その言葉に、私の頭の中で計算が働いた。


(監視されるのは怖い。でも、衣食住が保証されて、将来の安全も確保されるなら……許容範囲では?)


 私は、震える手で殿下の手を取った。


「……喜んで、お受けいたしますわ」


 微笑みは、まったく崩れなかった。


 我ながら、完璧な演技である。




 それからの数か月は、あっという間に過ぎた。


 王弟殿下は、私の渡した資料をもとに、王宮の会計を洗い直した。


 調べれば調べるほど、出てきた。


 リリアナ様への贈り物。遊興費。公務を代わった者への口止め料。孤児院の視察の欠席は、この一年で十一回にのぼった。


 そこに、もともとあった不安が重なった。


 以前から、議会では「王太子殿下は公務への関心が薄い」と言われ続けていたのだ。会議への欠席、決裁書類の遅れ、宰相補佐が代わりに印を押す日々。


 それでも、「若気の至り」で済まされていた。


 今回の件で、それが済まなくなった。


「公費を私的に流用する者に、国庫を預けられるのか」


「王弟のユリウス殿下は、先の飢饉でも、財政の立て直しを担われた。実務の経験は十分だ」


「殿下ご自身は、王位に就く気は薄いとお聞きしたが」


「ならば、摂政ではなく、いっそ継承順位そのものを見直すべきでは」


 貴族議会の長老たちは、ゆっくりと、しかし確実に、風向きを変えていった。


 シャルロット様が、お茶会で小声で教えてくれた。


「父の話では、次の議会で、継承順位の見直しが議題に上がるそうですわ」


「まあ。思い切ったことをなさいますのね」


 私は、できるだけ他人事の顔で、紅茶を飲んだ。


 内心は、少しだけ違う。


(国が安定するなら、ありがたい。それだけなんだけど……)


 王太子殿下ご本人は、事態をまったく理解していなかった。


 学園の卒業パーティーで、彼はリリアナ様の手を取り、堂々と宣言した。


「リリアナ。僕は君を、未来の王妃にしたい!」


「殿下……!」


 リリアナ様は、感極まって泣いている。


 王太子ルートの、ゲーム通りのエンディングだ。


 私は、その様子を、会場の隅で見ていた。


 隣には、お茶会の令嬢たち。


 シャルロット様、ベアトリス様、オフェリア様。そして私。


 四人で、同じ角度にグラスを傾けている。


「あのお二人、お似合いですわね」


「ええ。本当に」


 四人とも、にこにこ笑っている。


 完璧だ。


 私の計画は、完璧に進んでいる。


 ……ただ一点、リリアナ様が気づいていないことがある。


 彼女がもうすぐ迎える王妃の座は、すでに王位継承の外にある。


 王位は、議会の決議により、近いうちに王弟ユリウス殿下へ移る。


 それを知っているのは、私と、王弟殿下と、議会の一部だけだ。


「……お幸せに、リリアナ様」


 私は、小さくつぶやいた。


 悪い人ではないのだ。ただ、ちょっと、未来が見えていなかっただけで。




 完璧だったはずの私の計画に、穴が見つかったのは、卒業パーティーの翌日だった。


 王弟殿下の執務室で、書類を整理していたときのことである。


 窓の外をぼんやり眺めていて、ひらめいた。


(殿下が王になれば、国は安泰。……でも、王になるなら、お后が必要では?)


 そう。ユリウス殿下は、まだ独身である。


 国王が独身では、貴族たちが落ち着かない。後継ぎの問題も出る。そこから議会がまた揉めて、国が不安定になれば、私の老後が危うい。


 穴だ。


 これは、見過ごせない穴だ。


(国の安泰が、私の老後の安泰に直結するのだもの。ここまで来て、最後の最後で詰めを誤るわけにはいかない)


 必要なのは、殿下に相応しいお嫁さんである。


 優秀で、賢くて、殿下を支えられる、素敵な令嬢。


 私が探すしかない!


「殿下!」


 私は、勢いよく振り向いた。


「何かな、エルヴィラ」


 殿下は、机で書類に目を通していた。


「殿下の将来のお嫁様、私が責任をもってお探しいたします!」


 殿下の手が、ぴたりと止まった。


 ゆっくり、顔を上げる。


「……お嫁様?」


「はい。殿下が国王になられた暁には、相応しい后が必要です。条件を教えてください。年齢、家柄、性格、好み。なんでも結構です」


 殿下は、じっと私を見つめた。


 数秒の沈黙のあと、肩を震わせて笑い出した。


「ははっ……そうか。君が、探してくれるのか」


「はい! お任せください!」


「君は、本当に面白いね」


 殿下は立ち上がり、私の前まで歩いてきた。


 そして、指先で、私の髪にそっと触れた。


「条件か。そうだな」


 殿下の青い目が、すぐそばにある。


「頭がよくて、度胸があって、僕の警戒心を前にしても、涼しい顔でいられる人」


「まあ。ずいぶんと高い条件ですのね」


「それから、僕の隣にいても、逃げようとしない人かな」


「逃げる? 殿下のお隣から?」


 私は首をかしげた。


 そんな物好きな令嬢は、いないと思うけれど。


「そうだね。逃げようとしても、無駄だけれど」


 殿下は、にこりと笑った。


「まあ、もう見つかっている気もするが」


「え、もう!? どなたですか!? 私に先に教えてくださいませ!」


「そのうち、分かるよ」


 殿下は私の頭をぽんと撫でて、机へ戻っていった。


 私は、ぽかんとその背中を見送った。


(……よく分からないけれど、殿下には、すでに心に決めた方がいらっしゃるのね。ならば、私の仕事は、その方の身辺調査かしら)


 任務、追加。


 私は、手帳を開いて、ペンを握りしめた。


 背後で、殿下が小さく笑った気配がした。


 けれど私は、手帳に夢中で、振り向かない。


 知らないまま、今日も扇で口元を隠し、優雅に微笑む。


 私の老後は、まだまだ遠そうだ。


「ああ、この演技はいつまで続くのだろう。


 耐えれるか、私の小物のハート!」


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