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閑話休題 石原愛姫の場合 

「あーあ、喪服がないから、英雄のお葬式にいけないな」


泥で汚れたピンクのスニーカーの先を見つめながら、アタシは乾いた声で呟いた。


毛玉だらけの薄っぺらいジャージのポケットに両手を突っ込み、何ヶ月も美容室に行けず根本が真っ黒に伸びきったプリン頭を項垂れさせながら、いつものコンビニの前のアスファルトに座り込んでいる。足元では、相変わらず黒い蟻たちが忙しそうに行列を作っていた。


風の噂で、英雄が死んだと聞いた。今日がそのお葬式らしい。


街の噂なんて適当なものばかりだ。たった一人で鬼神組の事務所にカチ込んで爆死しただの、百人のヤクザを素手で叩きのめして力尽きただの、酷いのになると山で巨大なヒグマと戦って相討ちになっただの、尾ひれがつきまくって、英雄はすっかりこの街の裏社会の伝説になっていた。


馬鹿みたい。みんな、本当の英雄のことなんて何も知らないくせに。


アタシの頭に浮かぶのは、伝説の喧嘩屋なんかじゃない。ただただ不器用で、優しかった幼馴染の英雄の顔だけだった。


子供の頃、団地中のガキどもが親からお小遣いをもらって、敷地内の薄暗い駄菓子屋に群がっていた。母子家庭でボロアパート暮らしのアタシには、駄菓子を買う十円玉一つなくて、いつも店の隅で指をくわえてみんなを見ていた。そんなアタシに、なけなしの小遣いで買ったスナック菓子を「半分やるよ」って笑って差し出してくれたのが、英雄だった。英雄はいつだって、アタシにだけは信じられないくらい優しかった。


高校の時、男子特有のくだらないノリで、英雄が「まだ童貞だ」って周りから散々馬鹿にされていた。悔しそうに肩を落とす英雄を見て、アタシは今こそ昔の恩を返す時だと思った。だから、喜んで英雄に身体を差し出したのだ。アタシにとっては初めての経験じゃなかったけれど、英雄は泣きそうなくらい嬉しそうな顔をしていた。


数日後、英雄は照れくさそうに、小さな箱をアタシに差し出してきた。高校生の乏しい小遣いを全部はたいて買ったんだろう、安っぽいシルバーのリングだった。


本当は、飛び上がるほど嬉しかった。宝物にしようと思った。


なのに――アタシは最低な見栄を張ってしまったのだ。


『何それ、一回寝たくらいで彼氏気取り? アタシにどれだけの男が言い寄ってきてると思ってんのさ』


恋はシーソーゲーム、なんて歌があったけれど、アタシは優位に立ちたくて、惨めな自分を守りたくて、精一杯の強がりをぶつけてしまった。それでも英雄はずっと友達のままでいてくれた。そんな酷い言葉で傷つけたアタシを責めもせず、昔と変わらない笑顔でずっと隣にいてくれた。


アタシみたいな何の取り柄もないチンチクリンの女が男に相手にされるには、身体を許すくらいしか方法がなかった。でも、男なんてみんな一緒だった。ヤルまでは優しい言葉を並べるくせに、一度寝てしまえば、まるで自分の所有物にでもなったかのように雑で乱暴に扱い始める。


英雄だけだった。身体を重ねた後も、アタシを一人の人間として、ずっと大切にしてくれたのは。


ふと、コンビニの駐車場を通り抜ける若い連中の楽しげな笑い声が耳に届いた。


昔は、このコンビニの前にアタシと英雄以外の仲間もたくさんたむろしていた。でも、一人、また一人と消えていった。恋人ができたから、仕事が忙しいから、東京へ行くから。仲間が一人減るたびに、アタシはこの街の澱の中に自分だけが取り残されていくような、冷たい孤独に震えていた。そんな置いてけぼりの寂しさを埋めてくれたのも、英雄だった。いつだって間抜けで明るい声で、アタシの隣に座ってくれた。


最後まで残ったのは、アタシと英雄の二人きりだった。


だから、英雄が喧嘩で成り上がって、街の有名人になったと聞いた時、猛烈に怖くなったのだ。英雄までもが遠い世界に行ってしまい、アタシだけが吹き溜まりに置き去りにされるんじゃないかって。


数日前、黒塗りのピカピカの外車から降りてきた英雄は、仕立ての良いスーツを着て、金のネックレスをつけていた。それでも、アタシを見つけると、昔とちっとも変わらない人懐っこい笑顔で「高級焼肉を奢ってやるから一緒に行こう」って誘ってくれた。


それなのに、アタシはまた意地を張ってしまった。


『いい』なんて突っぱねて、困った顔をさせた。アタシがいじけて拗ねてみせれば、昔みたいに駅前のドーナツ屋で甘いドーナツを箱いっぱいに買って、笑いながら機嫌を取りに来てくれるんじゃないかって――そんな甘ったれた妄想に縋っていたのだ。


あの時、素直に「行く」って言って、車に飛び乗っていれば。


そしたら英雄は、あの店に行かずに済んだのかもしれないのに。


「……あーあ。喪服がないから、英雄のお葬式にいけないな」


喉の奥から、乾いた言い訳がもう一度こぼれ落ちる。


嘘だ。自分を誤魔化すための、惨めな嘘。


本当は、どんなにみすぼらしい格好だっていいから、今すぐ英雄の元へ走っていきたい。


だけど、もし棺の中で冷たくなっている英雄の顔を見たら、今こうして必死に奥歯を噛み締めて堰き止めているものが、全部決壊してしまう。人目も憚らずに喚き散らして、みっともなく泣き叫んでしまうのが、たまらなく怖いのだ。


「あーあ……喪服がないからさ。英雄のお葬式、いけないや……」


膝の上に顔を埋めると、アスファルトの上にポタリと黒い染みが落ちた。


ひとつ、またひとつと落ちた涙は、小さな水たまりを作っていく。


せっせと進んでいた足元の蟻の行列は、突然行く手を塞いだその水たまりの前で一瞬立ち止まり、やがて何事もなかったかのように、ぐるりと迂回して前へ進み始めた。


――アタシも、この胸を引き裂くような悲しみをなんとか避けて、遠回りしながらでも、ひとりで歩いていかなきゃいけないんだ。


冷え切った夜風が、アタシの乾いた髪を静かに揺らしていた。

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