吉祥天を描く女
「雪子、あんたにいい物件を見つけたよ」
友人に手を引かれ、連れて行かれたのは、近くの大学の食堂。
「絶対に浮気しない男。雪子にぴったり!」
その人は、冷め切ったカレーを前に、物理学の本を読んでいた。
度の入った黒縁眼鏡と、彫りの深い顔立ち。見方によってはイケメンと言えなくもない、と彼を紹介する友人が、「今日、紹介するって言ったじゃん」と小声で囁くと、彼は「そうだっけ?」と首を傾げた。
皺だらけのシャツに、ボサボサの頭をした彼とおしゃれなカフェに出かける気にもなれず、雪子は食堂の椅子に向かい合わせに腰掛けた。
「正悠さんは、建築学を学んでいるんですか?」
「はい。ライトの有機的建築の思想に共感しています。大学を出たら、タリアセン・ウエストに行くつもりです」
家に帰ってから、雪子は〝ライト建築〟がどういうものなのか、調べた。
正悠の憧れている建築士がとても有名な建築界の巨匠であること、そのライトの建築学校が、アメリカのアリゾナにあることを知った。
──もし結婚したら、山梨を出て、アメリカに行くってことか。
まだ付き合ってもいない相手との将来を想像して、雪子は肩を落とした。
なんか、普通じゃないなあ。
でも、アメリカならクリスチャンばっかりだよね、きっと。
意外と、楽しかったりして。
正悠を紹介した友人に、雪子は電話でお礼を伝えた。
「ありがとう。とりあえず、お付き合いしてみる」
*
「雪子さんはクリスチャンなんですか?」
正悠から初めてそう聞かれたとき、雪子は堰を切ったように喋った。
十歳で母親が蒸発したこと。
高校生のとき、大きな病気をして、命が危ぶまれたこと。
困難にぶつかるたび、聖書の言葉に救われてきたこと。
ときどき喉を詰まらせながら、雪子は懸命に話した。
ずっと聞かれるのを待っていた。
自分のルーツを受け入れて欲しかった。
酷い母親だね、と、言って欲しかった。
正悠は目をぱちくりさせながら、最後まで黙っていた。
「……以上です。答えになってますか」
雪子が赤面してそう問いかけると、正悠はきらきらと目を輝かせた。
「教会の建築に興味があるんです」
「……は?」
「今度、雪子さんの礼拝について行ってもいいですか?」
雪子は眉間に皺を寄せて、「いいよ」とぶっきらぼうに言った。
*
「正悠くん」
「はい」
「付き合ってもう四年じゃん?」
「はい」
「なんかさ、ないの?」
「?」
「いや、だからその……将来の話とか」
「ああ……」
三段せいろの蕎麦を啜る正悠はようやく箸を止めた。
「タリアセンに行くの、まだ先になりそうなんだ。少し実務経験を積んでから行くべきだと思っていて」
「いや、そういうことじゃなくってさあ……」
雪子は首を傾げながら、せいろの上のしなびた海苔を見つめた。
「結婚の話とか」
「結婚?」
「正悠くん、全然、そういう話しないじゃん。私との将来のこととか、考えてる?」
まるで初めてその言葉を知ったかのように、「結婚……」と復唱した正悠は、また蕎麦を啜った。
「結婚。ぼくには無縁な世界と思ってた。雪子さんは、何か考えがあるんですか?」
「……なんで質問に質問を返すのよ」
蕎麦を口に頬張って咀嚼する正悠と、ニヤニヤと様子を伺う大将を交互に睨みながら、雪子は怒鳴った。
「そういうことじゃない。私、正悠くんの気持ちを聞いてるんだけど!」
「……雪子さんと、結婚か。それは、楽しいかもなあ」
雪子ははっと目を見開いた。
ニコニコと微笑む正悠は、すぐに心配そうな顔を浮かべた。
「でも、雪子さんは、ぼくと結婚して楽しいだろうか。ぼく、気が利かないし、面白いことも言えないものなあ」
正悠は独り言のようにそう言うと、箸で蕎麦を宙に浮かせたまま、しばらく黙り込んだ。
「……それで、雪子さんはぼくと結婚したい?」
なんの衒いもなく尋ねる正悠は、やけにキラキラして見えた。
雪子は額に青筋を浮かべた。
「したいよ。そんなの、したいに決まってんでしょ!」
*
雪子の母は、桂子という名の美しい女だった。
残念ながら、自分は桂子の美貌を受け継がなかったらしい。桂子と自分は似ても似つかなかった。
桂子が街を歩けば、周囲が振り向きざまに「あっ」と声を漏らして、頬を染める。
雪子のお母さんは美人だね、と、同級生の親からよく褒められた。
そんな桂子が学校の参観日にやって来ると、同級生の父親たちが嬉しそうに桂子に話しかけていた。
雪子はそのたび、胸がざわついた。
「パパと結婚したのはさ。とにかく、勝手に決められた縁談が嫌だったのよ。そのとき、アタシに言い寄ってきたのがあの人。あんなおじさんがアタシを口説くの? って、笑っちゃったわよ」
赤ワインの瓶を片手に、桂子は七歳の雪子にそう言った。
桂子は、家事のできない母親だった。というか、やる気がなかった。
鏡に向かって紅を曳き、昼になると家の離れに篭って油絵を描いていた。リンシード油と、テレピンの揮発臭の漂うアトリエの横顔は、美しかった。
学年が上がるにつれて、帰宅時間が遅くなると、桂子は機嫌が良かった。
夕飯はだいたい、ぐちゃぐちゃのチャーハン。
たまに、早く父親が帰宅したときは、父の作るカレーうどんが雪子の好物だった。
そんな桂子は、ある日アトリエから姿を消した。
けれどそれは、突然ではなかった。
その一年前くらいから、たまに、夜になっても帰らないことがあった。
父は、咎めなかった。翌朝、ふらりと帰宅する桂子に、雪子が「どこに行っていたの」と尋ねると、桂子はふふ、と笑って、お土産の大福を寄越すのだった。
だから、三日経って帰らなくても、一週間経って帰らなくても。
そのうち、ひょっこり帰ってくるだろうと思っていたのだ。大福を片手に、少し強い香水の匂いを漂わせて、悪びれもせずに。
桂子は帰らない。
雪子がその事実を受け入れたとき。
雪子にとって、母親が世界で一番嫌いな人間となった。
それなのに、雪子は見つけてしまった。
父親が、ボーナスの袋から数万円を抜いて、現金書留に入れているのを。
問い詰められた父は「生活が苦しいらしい」と情けない声で漏らした。
文句を言いに行ってやろうと思った。
どれほど父が寂しい思いをしているか。
自分のように恨むことができたら、まだいいだろう。
しかし、父は。
幼い頃、空襲で家族を失った父は、ただ、もう誰も失いたくないだけなのだ。
そんな、惜しみなく愛を向けた夫を、なぜ、お前は捨てたのか。どれほど父が寂しい思いをしているか、考えてもみないのか。
書留の住所を目に焼き付けて、セーラー服に身を包んだ雪子は、中学校へ登校するふりをして、中央線に乗った。
あの女の頬を平手打ちしないことには、この怒りはどうにもおさまりそうになかった。
雪子が辿り着いた住所には、古いアパートが建っていた。
立て付けの悪い外階段を登りながら、裏切り者の住処の薄汚さが、雪子の機嫌を上向かせた。
夕暮れのインターホンを押すと、テレピンの匂いを纏った憎たらしいあの女が出てきた。
先ほどまで浮かべていた笑みは、ほんの少し視線を落とした瞬間に色褪せた。
リンシードオイルに塗れたエプロン。
あの女のお腹は大きくなっていた。
「だあれ?」
後ろから、若い男が出てきた。
「娘よ。話したことあるでしょ」
「娘さん? まさか、山梨から清瀬まで? ひとりで、来たの?」
家、上がる?
狼狽える男の声を振り払うように、雪子は駆け出した。
大嫌い。大嫌い!
あんな女の血が、私にも半分流れてるなんて、耐えられない!
神様、あの女に天罰を!
そう思って生きていたのに。なんてこと。
お腹に、赤ちゃんがいるなんて。
あんな家で育って、お腹の子が、一体どんな人生を歩むっていうのよ。
真っ暗な大月駅で途方に暮れていたら、血相を変えた父が、車で迎えに来た。
無言で雪子を抱きしめる父は、すでに五十を超えていた。
幸せになってやる。
あの女よりも。
できるだけ早く。時間が、ない。
*
生まれた子には、真人と名付けた。
正しい道を歩けるようにと、一生懸命に考えて雪子が名付けた。
ふっくらとした肌で笑う真人の顔は、思い出したくもないあの女の顔を思い出させた。
猫のような目が微笑みかけるたび、胸騒ぎを覚えた。
父が、真人の頬を包んで、「真人、真人」と囁く度に、雪子は目を逸らした。
誰に教わるでもなく、真人は絵を描き始めた。
文字を書くより早く、睡蓮の絵を描いた。
「かあさんをかいた」と寄越してきた絵が、ソフトパステルで描かれていて、雪子はぎょっとした。
「なんでこんなもの、買い与えるのよ」
雪子は父に詰め寄った。
「真人には、お絵描きが好きだもの。ねえ」
父はそう言って真人を抱きしめた。
「かあさん、おこった。もう、しない!」
真人はぷい、と顔を背けて、今度は何やらおもちゃのピアノを叩きながら、歌を歌い始めた。
*
「雪子さん。ぼく、やはりタリアセンに行くよ。二年で戻る」
真人の三歳の誕生日の夜。
ケーキを切り分けているとき、正悠はそう言った。
「そんな。じゃあ、私たちも一緒に?」
「いや、むしろ、こっちにいてほしいかな。住み込みの寮で暮らすから、真人がいると、正直、色々集中できないと思うんだ」
事情の飲み込めない真人は、ケーキのいちごを頬張りながら首を傾げた。
二年。
そんなに会わなくて、この人は、他の人に目移りしないだろうか。
雪子の不安をよそに、正悠は真人の隣で取り分けられたケーキの形を熱心に眺めていた。
大丈夫。
正悠くんは、桂子とは違う。
雪子はそう自分を言い聞かせて、頷いた。
「ねえ、とうさん、まだかえらないねえ」
真人が小さな手で焼き魚を上手に箸で切り分けながら、老いた父に話しかけた。
「そうだなあ。次の夏に一度帰ると言っていたけどなあ。まだ先だなあ」
「ぼく、とうさんにあいたい!」
「真人、お父さんのこと好きか?」
「うん! だいすき! とうさんも、かあさんも、あと、じいちゃーん!」
真人がにっこり笑うと、しわくちゃの顔で父が真人を抱きしめた。
雪子は肩をすくめた。
いっそ、私がひとりで、アリゾナに行けば。
父も、もう退職しているし、真人だって。
「正悠くんに、会いたい」
夜中のリビングで、雪子は父に訴えた。
父はため息をついた。
「真人は連れて行くのか?」
雪子は首を振った。
「真人のことは、見ててほしい。お願い」
険しい顔の父は、その場で首を縦には振らなかった。
翌朝、父が真人に尋ねると、真人はすんなり受け入れた。
「いいよ! ぼく、じいちゃんとおるすばんできる」
空港までの見送りは断った。真人に泣かれるのを想像すると、どうしても嫌だった。
真人が幼稚園に行く間に、雪子はキャリーケースを引いて中央線に乗った。
*
フェニックスの空港で出迎えた正悠は、少し日に焼けて痩せていた。
人目も構わず、雪子は正悠の胸に飛び込んだ。
懐かしい。
新婚のときみたい。
タリアセンまでの砂漠をひた走りながら、正悠のこれまでの生活に耳を傾けた。
帰りの便を、一度だけ変更した。
その次の週も、正悠は「まだ居れば?」と言った。
いい加減、帰らないと。
わかっているのに、この時間から離れがたかった。
知らない世界。
知らない人たち。
知らない言語。
怖いと思っていたのに、正悠がいれば全てが輝いて見えた。
ああ、私は、やっぱりこの人が好きだ。
『いつまで遊んでるんだ! 真人、泣いてるんだぞ。毎晩毎晩、かあさん、かあさん、って』
電話口の怒号に、雪子は目を瞑った。
この温もりを逃したら、次はいつ会えるのか。
正悠の腕に抱かれて、雪子は涙を流した。
成田空港で雪子を出迎えたのは、険しい顔をした父と、節くれだった腕に抱かれて眠る息子だった。
起こさなくていいよ、と言う雪子に構わず、父は真人の肩を優しく揺らした。
「ほら、真人。母さんだぞ。母さん、帰ってきたよ、真人」
まつ毛にたくさんの水滴をつけた真人の瞼が、ゆっくりと開いた。
「……かあさん?」
真人の甘えた声に、身体が跳ねた。
「かあさん。かあさんだ。じいちゃん、かあさんかえったよ」
眠たげに手を伸ばす真人に苦笑して、雪子は一歩身を引いた。
「ごめん、ちょっと疲れちゃった。だっこ、無理」
*
北杜に戻った雪子の後ろを、真人はついて回った。
トイレにまで付き添われたとき、雪子はとうとう怒鳴った。
咎められていると思った。
私は、あの女じゃない。
あんなに酷いこと、したわけじゃないのに。
縋るような目で見ないでよ。
*
正悠から、家の設計図を作ったと手紙が来た。
学んだ技術に則って、雪子の実家を建て直すのだと言う。
帰国後は、建て替えの間だけ仮住まいのアパートに家族四人で暮らした。
不満だった。
小言の多い父との距離が近いこと。
真人が、どんどん桂子に似ていくこと。
ところ構わず、真人が、「可愛い、可愛い」と褒められるたび、胸騒ぎがした。
「まひちゃんは、あんなに可愛いのに。お母さんもお父さんも、普通よねえ。どこの誰に似たのかしら」
正月の集まりの居間で、義姉が笑いながらそう言っているのが聞こえた。
皿を洗う手が震えた。
*
父はある日、眠るように亡くなった。
最初に気づいたのは真人だった。
「かあさん! かあさん! きて!」
真人はキッチンの雪子の背中を叩いた。
「じいちゃんが起きない! とっても、つめたいの!」
真人はオムレツを焼く雪子の袖を強く引いた。
手元が狂い、熱せられた鉄板から、オムレツが滑り落ちて真人の腕に張り付いた。
ジュ、と嫌な音がした。
左腕を抑える真人に、フライパンを握りしめたまま呆然と立ち尽くしていると、真人が雪子をどついた。
「かあさんってば! おねがい、じいちゃん、みて! はやく!!」
騒ぎに気づいた正悠に真人を任せ、雪子は救急車を呼んだ。
*
「何であの女に連絡したのよ。勝手なこと、しないで!」
取り乱す雪子を前にしても、正悠は冷静だった。
「こんなこともなければ、雪子、桂子さんに会えないだろう。桂子さん、あれでも心配してたみたいだよ」
正悠があの女と連絡を取り合っていたことも、参列を勝手に受け入れたことも、一つ残らず許せなかった。
正悠の喪服に雪子が乱暴にアイロンを押し当てる後ろで、真人は泣きじゃくった。
「おそうしきなんか、しないでよ。おわかれしたくないよ。じいちゃん、まだ、おふとん」
「うるさい! 黙れ!」
──やってしまった。
けれど、謝る余裕はなかった。
真人は怯えた目で雪子を見上げた。震える左腕には、火傷の包帯が巻かれていた。
*
あの女とは一言も言葉を交わさなかった。目も合わせなかった。
女は、泣き腫らした真人の顔を覗き込んでいた。
「まあ、綺麗なお顔ね。あなたをモデルに、描いてみたい」
真人はさっと後ずさって、雪子の元へ駆け寄った。膝の裏に隠れる真人からも、桂子からも、雪子は目を逸らした。
付き添ってきた若い娘は、雪子や親族一人ひとりに丁寧に頭を下げた。
「お悔やみ申し上げます。ご無礼をお許しください」
娘は雪子に頭を下げ続けた。
「ここに私が来ることで、皆さんのお気持ちが穏やかでいられなくなることも、承知しております。金銭的な補助を受けていたことも、存じております。私が、働いて少しずつお返しします」
娘の震える小さな一重瞼に、雪子は自然に警戒心を解いた。
──妹、か。
雪子は目を伏せた。
「お金は結構です。遥さんのことは、知っています。ピアニストを目指されているんでしょう」
遥ははっとして顔を上げた。
「珍しい苗字だからさ。友達に誘われたコンサートで、たまたま、ね」
遥は悲しそうな顔でもう一度、頭を下げた。
これだから、仏教は嫌なのだ。辛気臭い葬式。
父も、キリスト教に入れば良かったのに。
仏さまの世界に天国がないのなら、父はどこへ行くのだろう。
立ち上るまっすぐな煙と、北杜の空。真人はいつのまにか泣くのをやめて、となりに立っていた。
*
ある日、黒い服を着た二人組が家へやってきた。ライト建築の風変わりな住まいへの言及は一切ないままに、真人を預かりたいと前のめりに訴えた。
芸能界へのスカウトだった。
この片田舎に住む内気な我が子の噂を、いったいどこから聞きつけたのか。
考えたくもなかった。
意外なことに、内気なはずの真人は、やってみたいと言った。
もちろん雪子は反対した。
「本人がやりたいと言うならやらせてあげようよ。嫌になったらやめればいいんだし」
正悠がそう言うと、真人は手を挙げた。
「母さん。ぼく、やってみたい!」
大きな瞳を輝かせる息子は、捨てられたときの私と同じ、十歳になっていた。
既に我が家は、かつて思い描いていた普通の家とは程遠かった。
──もし、この子が、芸能界で成功したら。
真人が輝けば、それはあの女への意趣返しになるだろうか。
雪子が折れた理由に、邪悪な思惑がないわけではなかった。
仕事のたびに、JR長坂駅まで、真人を車に乗せて送った。
無事に帰って来いよ、と祈りながら。
真人が一日のほとんどを眠って過ごすようになるのは、それから八年後の話。




